第27話「ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド」に見る自然について、神話学的観点から読む
Nintendo Switch2が届き、先日からパートナーのプレイする「ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド」2周目を鑑賞している。その前にはパートナーがプレイする「ダークソウル3」の2周目を観ていたばかりだったので、自然描写の違いに特に目が留まったのだった。
同じ日本のゲームメーカーが作っているゲームではあれど、「ダークソウル」で描かれる自然はどこまでも脅威的であるのに対して、ブレス・オブ・ザ・ワイルドの自然はより親和性が高く、それでいて虫の音色や風のざわめきなど、細やかな表現が織り込まれている。
この親和的な自然描写は、ジブリが生み出してきた日本の自然描写に連なるところが多分にあって、無批判に良しとすることは私にはできないが、その一方で、ブックライティングの仕事で日々疲弊する身に、清潔感のある緑の色彩や柔らかな草木が揺れる描写などは癒しを与えてくれる。
なるほど、日本のゲーマーの多くがかわいらしさや癒しを求めてゲームをプレイする傾向にあると、Copilot AIが以前語っていた理由がわかった気がする。
とはいえ、自然や生き物が人間に対して親和的であるという描写は、私にどうしても嫌悪感を抱かせる。
その象徴的な出来事が先日あった。それはズートピア2のトレーラーをパートナーと観たことで、そこに登場する動物たちがあまりにも擬人化されて、ほとんど人間のような表情や動きで動いているのが、耐え難いと感じたのだった。
日本でいうとポケットモンスターなどのコンテンツは昔から愛されてきたし、自分自身もポケットモンスターで言えば金銀世代で、当時は夢中になって遊んだものだった。しかし、人間にとって都合のいい、家畜化された動物や、飼い慣らされた自然を見るたびに、それは冒涜に他ならない、とどうしても思ってしまう。
それは自分自身が幼少期を山と海、そして田園風景に囲まれた環境で過ごしたこと、幼少期から父に連れられてさまざまな山への登山をしてきて、自然の持つ厳しさや驚異、あるいは脅威と日々向き合ってきたからかもしれない。時には自然の厳しさに直面して登山を取り止めざるを得なかったこともあったし、私の父方の先祖には、漁に出てそのまま帰らぬ人となった人もいた。
また長崎大水害の記憶は、母方の祖母からも、両親からも切々と語られてきた。長崎は雲仙・普賢岳の噴火災害に見舞われた土地でもあり、その土地の根深いところに自然への畏怖が染み込んでいる。そうした生育歴を経てきた私は、のちに大学で記紀神話を専攻することとなった。
恩師は環境史に早くから着目してきた人でもあったので、その教えを乞う私にも、自然と恩師の思想が流れ込んでいるのかもしれない。自然を畏怖し、それを敬うという心性は、私にとって幼少期から肌なじみのある感覚だった。
「ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド」に目を移すと、そこには厄災・ガノンによって滅ぼされたハイラル王国という現実が、勇者リンクの前に立ちはだかる。
このガノンもまた震災をはじめとした災害の表象に他ならず、それをどのように描くのか、きちんと見届けたいと思うのだが、親和性に満ちた自然描写からは、その脅威が巨大でありながらも、どこか距離を取って感じられるのが気になった。
本来自然の持つ両面性、すなわち豊穣をもたらすものとしての側面と、災害をもたらすものとしての側面は、地続きであって、ある日突然それまで穏やかだった自然が牙を剥く。
それをブレス・オブ・ザ・ワイルドの場合ではブラッドムーンという形で描いており、西洋において古来より月はもの狂わしいものとして描かれてきたという表象をベースとしながら、その元凶としてのガノンを描くことで、自然の脅威を描いてきた、という整理は成り立つだろう。
親和的な自然があっという間に急変して、世界が破壊されるほどの脅威となるということを、ファンタジー要素を絡めずに描くとなると、さまざまな弊害が起こりうることも考えられる。
これは震災の被災者の方々への配慮でもあるだろうし、ファンタジーという形を借りて災害とその復興を描くことは、このゲームの発売当時の日本の状況下においては、切実に必要とされた物語でもあった。
しかし、あまりにも清潔すぎないか、と私は揺れる草木や虫の声に耳を澄ませながら思うのだ。そこには一点の汚れもなく、さながら日本人が愛好してきた印象派の絵画のタッチをも思わせる、柔らかな色彩の太陽と、そよ風になびく草原とがある。
道中に生きる獣たちはリンクを脅かすことなく、弓矢で射ればあっという間にケモノ肉となってくれる。リンクはそれを鍋で調理して旅の糧とし、さらなるモンスター討伐に挑むことになる。
ゲームシステムとしては非常に合理的にできているし、そこに思想が入り込む余地はあまりないのかもしれない。災害のメタファーの大きな象徴としてのガノンを描ければ、終始親和的な自然が本来持つはずの二面性を置き去りにしても問題はないのかもしれない。だがそこに人工物としての自然をどうしても意識してしまう。飼い慣らされた自然、統御された自然にアニミズムは根づくだろうか。
やがてパートナーはゾーラの里にたどり着いた。
そこでは水と共に生きるゾーラ族が、神獣ヴァ・ルッタによって洪水が起ころうとしていることに困り果てている。神の怒りによってもたらされる災害がそこにはある。
ゾーラ族の水との親和性は、ゾーラ族のキャラクターのセリフの端々からも窺える。そこには生活史があり、ティアーズ・オブ・キングダムで感じたような、ハリボテのテーマパークとしての「ゾーラの里ゾーン」ではなく、水と共に生きてきた一族の誇りが克明に描かれる。
この辺りの距離感の描き込みは、ハイリア人としてのリンクにとっての、異文化としてのゾーラ族をよく描いている。このゾーラ族と水との関係は、他のエリアにおいてはゴロン族と火山なども同様であって、予定調和的に設定されたことに変わりはない。
しかし、少なくともその文化が自然と深く根ざしたものであったこと、そこに神の怒りという脅威があって弊害がもたらされていることが語られていく構造自体は、神話としての体裁を保っている。
だが、神話的な構造の成り立ちと、リンクが旅する世界のあまりに平穏に満ちた自然描写とがあまりにかけ離れているとも感じるのだ。
たとえばダークソウルと同じフロムソフトウェアが開発したエルデンリングなどは、不穏な自然、不穏な生き物たちと、終末を迎えようとしている世界観とが、違和感なくマッチしている。
そこでは一瞬の油断が命取りになるとともに、主人公は荒廃した世界に新たな秩序をもたらす存在となるべく旅をすることになる。どこまでも混沌とした世界、壊れた神々の世界の中に、人間の道理を持つ主人公が王となるという、ヒューマニズムに則ったストーリーが展開される。
エルデンリングだけでなく、ダークソウルでは特に火を継ぐ者、すなわち火を原初の人間の証としてきた人間性の象徴として、その性格がより強調されている。
「ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド」は人間と災害との物語で、人間側の動機がどうしても弱くなる。
そこで神話的な構造を援用することにより、人間に災害を乗り越えるという動機を持たせて物語を組み立てている。この両者の違いはなかなか同列にして語り難いものがあるが、私はどちらかというと「エルデンリング」や、「ダークソウル」の自然描写の方が説得力が高いと感じる。
少なくとも彼らは自然を親和的で親しみやすいものとしては扱わない。そこには自然への畏怖があり、またそれを克服すべきものとしての強靭な人間の意思が示されている。
ただし、一方で「ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド」では、ゲーム体験としての心地よさの追求もまた、このゲームにとっては欠かせない要素でもあり、この点を譲ることはどうしてもできなかったのだろう。そこで上のような自然描写の歪さと、同時にそれを補うものとしての神話的な構造が生じたのだろうと思う。
Metaphor Re:Fantazio SST Original Playlist
灯火を継ぐ言葉たち 雨伽詩音 @rain_sion
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