心音と振動

国府凛

心音と振動

 眠い目を擦りながら、僕は自販機のボタンを押す。ガタンと大きな音をたてながら出てきたのは、ホットコーヒーだ。それをカイロ代わりに手のひら全体で包み込んだ。慣れた足取りで体育館に向かう。もはや目をつむっていても体育館に向かえる。途中の廊下で用務員さんとすれ違い、軽く挨拶を交わす。最初は「早いね」なんて言われたものだが、今や、僕も用務員さんも挨拶以外は何も話さなくなっていた。


 早朝の誰もいない体育館は、僕に少しの安らぎをくれた。どこの電気もついていないからか、朝日が酷くまぶしく感じる。耳鳴りがするほどに静まり返った体育館全体に僕の足音が響いている。ステージの袖に僕は向かう。そこにあるのは一台のグランドピアノ。毎日、朝早く来ている僕にだけ使うことを許されたピアノ。ボロボロの椅子を引いて座るとギシギシと音を立てた。さっき買ったホットコーヒーを開けて、一口飲む。口からじんわりと温かい苦みある液体が流れ込み、食道を通って、胃に落ちる。いつも通りの味に、僕はため息をゆっくりと吐いた。目の前に広がる鍵盤を見つめながら、僕はコーヒーを傍にある誰も使っていない机に置いた。


 鍵盤に指をソット置いた。冷たい鍵盤は、指の体温をグングンと吸い込んでいく。何から弾けばいいものか。いつもここで迷う。まるで深い森の中にいるような感覚に苛まれる。僕は静かに目を閉じて、イメージの空間に入る。僕は何処にいるのかを空想するために。


 小鳥が飛んでいる?いや、飛んでいない。虫の声もしない。静寂な森の中。よく見れば、木々の葉は抜け落ちて、枝をむき出しにしている。手の甲に何か冷たいものが当たる。雪だ。柔らかな雪が僕を囲んでいた。冷たいそよ風が、僕の頬を撫でている。イメージを加速させる。足元にある雪は僕の足を急激に冷やす。ジンジンと血液が脈打つのを感じる。指先は赤く染まっていき、白い息を吐いている。ここは一体どこなのだろうか。まったく見覚えのない風景に叫びだしそうになりながら、平穏を保つ。後ろに振り返ると、僕がつけたであろう足跡が永遠と続いていた。だいぶ歩いてここに来たようだ。雪が濃くなってきている。もう一度前を向いたとき、吹雪が僕の顔面に直撃した。瞼を開く。いつの間にか、小刻みに体全体が震えていた。窓越しに外を見ると雪が降りだしていた。


 勝手に僕の指は動き出していた。黒鍵で構成された和音を叩く。音になったのは、坂本龍一が作曲した彼の代表曲「Merry Christmas Mr.Lawrence」だった。計算しつくされた和音が鼓膜を揺らしている。音色の中には確かに雪景色が見える。真っ白な雪景色が。寂しさと、激しさを兼ね備えた音色がゆっくりと僕の頭を埋めていく。曲が終わるまでの約五分間は雪景色の中に身を投げていい。僕の指先は正確に鍵盤を踊っていた。


 最後の音を叩くと、残響が体育館の中に木霊して、徐々に聞こえなくなっていった。それと同時に、うるさい程の静寂が波のように襲ってきた。耳をふさぎたくなるような静寂はここでしか聞けない。ペダルから足を離す。ガコッという音がして、ばねの力でペダルは元の位置に一瞬でもどった。僕は机に手を伸ばし、コーヒーを一口飲む。コーヒーはぬるくなっていて、苦みというよりは、砂糖とミルクの甘ったるさが目立つ。コーヒーの残量が、まるで残り時間を示す砂時計のようだった。僕は再びコーヒーを机に置いて、鍵盤に指を置いた。


 鍵盤は冷たくなくなっていた。僕の体温と同じ温度。僕とピアノが同時に溶けて、混ざり合い、一つになっている。そんな感覚。音が鳴れば、心音と重なって完全に同化する。もはや僕がピアノを弾いているのか、ピアノが僕を弾いているのか分からない。


 誰もいない体育館で二曲目を弾く。音は、建物内を隅々まで舐めるように響き渡る。少なくなったコーヒーは音色で震えている。足の裏まで振動が伝わっている。僕の指はまだ止まらない。外をもう一度見ると、地面に少し雪が積もり始めていた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

心音と振動 国府凛 @satou_rin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ