後編

扉の奥で、水の滴る音が聞こえる。きっと、ヘンリーがシャワーを浴びているのだろう。しかし、これは参ったな。私も浴室が使いたいのだ。この、洗い物で汚れてしまった手を綺麗にするために。だが、生憎使われてしまっている。

私は肉汁や油が付着した汚れた手を微妙に上にあげながら、扉の前で突っ立っていた。本来ならばシンクにも石鹸はあったはずだが、珍しいことに補充をし忘れいて──そう、浴室に石鹸を取りに行った時にあの電球が、私のやるべきことを忘れさせてしまったんだ──だから、こうも滑稽な状態となっている。この滑稽な現状も、そろそろ耐え難い。そう感じてヘンリー、と口に出しかけたところで私は彼を呼ぶのをやめた。なぜって、奇跡と言えば聞こえのいい現象が私の目の前で起こったからだ。ひとりで扉が隙間を作るように開いた──いや、多分これはヘンリーの閉め方が甘かったのだろう。そんな風に解釈をすると、あのキラキラとした奇跡もただの薄暗い偶然に見えてきた。私は足で扉を押し開け、浴室の中に入り込んだ。湿って少し暑い空気が、私の気管支を通る。浴室は、シャワーから出される温水のせいで視界不良を起こすほどの湯気に包まれていた。ヘンリーは私に気づいていないらしく、呑気に鼻歌──確か、この曲は『ヘイ・ディドル・ディドル』。私から言わせてみれば、ナンセンスな言葉遊びの歌だ──まで歌っている。

なら、邪魔するのも悪いだろう。私は何も言わないまま、洗面台に立った。それから雑に置かれた服をトイレの蓋の上にどかしつつ、洗面台の鏡と対面する。鏡で自分の顔を見ておこうと思ったが、当然のように鏡は湯気で曇っていた。輪郭もままならない自分の顔が、ぼやけた私の目が、私と見つめ合う。少しして私はそれから視線を外し、洗面台の方に視線を落としながら蛇口を捻った。シャワーの音のおかげで、蛇口から出る音は隠されている。私は目的通り、汚れている手を清潔に戻すことに専念した。その間にも、ヘンリーはナンセンスな鼻歌に興じている。しかしながら、私がナンセンスだと評価していても幼少期の私自身がその民謡を親しんできた過去があるのは確かだ。当然、ヘンリーがどこを歌っているかさえも丸わかりだった。

──ねこがバイオリンを弾いている。牛が月を飛び越えた。それを見て子犬は大笑い──歌詞を頭の中で思い出しながら、石鹸を手で包み、泡を立てる。ヘンリーはその続きも歌った──そしてお皿がスプーンと駆け落ちた──ああ、なんてナンセンス、とんだナンセンスな民謡。私は意味のない歌が大の苦手だ。いや、嫌いと言っても差し支えないだろう。それからヘンリーの鼻歌は、最初のねことバイオリンに戻って繰り返す。どうせなら、別の歌を歌ってくれやしないかと思いながら私は泡で包まれた手を水に通した。そうすれば泡はすぐにでも水に流され、私が好む清潔な手が戻ってくる。

それと同時に、隠れ蓑であったシャワーの音が止まってしまった。浴室に響くは蛇口から出される水の音。それだけがただ、この空間に反射して耳に飛び込んできている。私は弁明することも、隠れようともしなかった。ヘンリーもまた、私が浴室にいることに対して何も言わなかった。いや、どちらかと言えば、どう声をかければいいか分からなかったのだろうな。私が蛇口の捻りを元に戻したころ、ヘンリーが私に声をかけた。

「ダグ、どうしてここに…?」

震えの滲んだ声だと、私は率直に感じた。私は少し言葉を考えたあと、悪びれるわけもなく平然と答える。

「手を洗いにきただけだ。本当はシンクの石鹸を使って手を洗うつもりだったんだが…生憎石鹸が切れてしまっていた。そう、補充し忘れていたんだよ、ヘンリー。昼間のあの電球に気を取られて、」

「やめてくれッ!」

絶叫のような、怒号のような、そんな声が私の言葉を遮った。私は驚いてヘンリーの方を見たが、未だ、カーテンは浴槽と彼を隠している。それでも、ヘンリーが肩を上下させる程の呼吸を繰り返しているのが見えた。私は理解できなかった。どうして突発的に感情に支配され、そんな声を上げるのか。どうして感情に溺れる始末になったのか。けれども、私がヘンリーに言わなければならない言葉ぐらいは分かりきっていた。

「すまない…まさか、ここまで君が激昂するとは思ってなかった」

その言葉の裏に、罪悪感なぞなかった。当たり前だろう、私は彼の逆鱗を知らなかったんだ。ヘンリーは私の謝罪が耳に入らなかったらしい。彼は、独り言のように呟いた。

「ゆるして…おねがいだから…」

彼の声色は、怯えた子供の様だった。私は、彼が『許して』と吐露した理由が気になった。私の記憶の中で、彼に怒るような感情を抱いた記憶は一切ない。むしろ、私の日々はヘンリーを助けている意識の元、大抵は満足な感情がそこにあるだけだ。

「ヘンリー?それは、どういうことだ?」

ヘンリーからの回答はない。その代わりに、情けない啜り泣きが私の耳に届いた。その途端、私はあの日のような興奮が湧き上がってきたことに気づく。ああ、ヘンリーは泣いてしまった。あのヘンリーが?あのヘンリーがだ。私は心臓が早鳴るのも厭わないで浴槽の方へと近付き、カーテンを開ける──そこには、ヘンリーが浴槽に膝を抱えて座り込んでいた。私は久しぶりに、いや、初めて彼の体を見たような気がする。思っていたよりも細身で、平均的な身体だ。

「ヘンリー…君は、どうしてそんな…」

返事が返ってくることは期待はしなかった。けれども、彼がこうなった背景をもしかしたら聞けるかもしれないのを待ち望みながら、しゃがみこんでヘンリーと頭の位置を合わせる。普段、彼の方が十センチほど身長が高いから、こうやって頭の位置が同じになるのは新鮮だ。ヘンリーはグズグズと啜り泣きながら、腕で抱えていた膝に埋めていた顔をほんの少しだけずらし、片目だけを私に見せた。目が、充血している。涙は止めどなく溢れていた。それに何故だか惹かれて、それを拭おうとして、手を伸ばす。涙なんて、涙腺から分泌される体液でしかないのに。手に触れるだなんて、もってのほかだ。それでも、私は触ろうとし、あと少しで触れれそうなところで顔を隠された──一瞬、驚いたような顔をされたような気がする──残念だ。

「…ヘンリー。顔を上げてくれないか…それと、水を拭き取らないと。風邪を引いてしまうかもしれない」

ヘンリーからの回答はまたもやない。私は口を動かしながら、タオルを持ってくるために一旦はヘンリーから離れた。

「私はね、ヘンリー。再三言ったと思うが、私は君のことを助けたいんだ。そのためにも、君への相互理解が必要になってくるんだ。分かるだろ、君にも」

断続的に聞こえてくる小さな嗚咽。今の彼に何を言おうとも、体が突き動かされるどころか、脳にすら届いてないみたいだ。私はヘンリーに聞こえないよう、鼻息でため息に似た息を吐き出しながら棚からタオルを一枚取った。ふと、嗚咽がなくなっているのに気づく。そこから、懺悔するようにヘンリーが一人でに言葉を溢す。

「ダグは…俺のことどうしたいんだ…俺には、わからない…」

「助けたいだけだ、ヘンリー」

タオルを持ちながらまた浴槽に近付き、また同じようにしゃがみこむ。それからヘンリーの頭にタオルを被せた。そこから聞こえてくるくぐもった声。私はその言葉に、心臓を刺されたような感覚を覚えた。

「嘘つき…」

「どこが嘘だと言うんだ?」

私は食い入る様に答えてしまった。思わず、口を抑えようとしてそれが手遅れだということに気づく。私はどこか、焦っている。そう、言語化不可能な何かに。私はヘンリーの頭にかけたタオルを触り、そのまま彼の髪を乾かす様に手を動かす。両手で思いっきり水分を拭き取るようしていると、徐々にタオルに水が染みてきた。不意に、ヘンリーが私の腕を掴む。

「自分でできる、から…」

それでも私は手を動かし続けた。ヘンリーの抵抗が強まる。しかしながら、私の手を払いのけるのにはいたらなかった。そろそろ、大抵の水分は拭き取れただろう。

「本当か?今の君を見るに、そうも思えない」

ゆっくりと、ヘンリーの顔が上がる。それと同時に、タオルが頭から滑り落ち、浴室の底に落ちた。私とヘンリーはやっと、目を合わせた。思わず、ヘンリーの名を呼ぼうとする。その瞬間、ヘンリーが言葉を遮った。

「俺はただの、家のインテリアでしかないのか?ダグ…俺は、お飾りでしかないのか?」

いつになく、反抗的だ。私の手はいつの間にか引っ込めようとし、それからヘンリーが次にすることに期待を寄せている。次はどんな言葉が飛んでくるのだろうか。はたまた手を使うのか。私は笑いそうになるのを抑えて言葉を吐いた。ヘンリーの目はいつになく、虚ろだ。

「…どうして、そう思う?私はそんなこと、一度も思ったことがない」

「気づいてるだろ、ダグ…俺には何一つさせてくれない。簡単なことでさえも…俺が出来るのはたった一つだ。たったの、一つ…」

引っ込めようとした両手を掴まれる。ぎゅうっと、強く、強く掴まれる。その掴み方なんて、赤ん坊が力加減を知らず、ただ全力に、不器用にするようだ。ヘンリーは私の手を強く握ったまま、浴槽の中で項垂れる。

「たった一つ…あの電球のことか?」

私の頭の中には、大学時代のヘンリーが映し出されていた。

「どうして、俺にその一つだけを残したんだ…俺は、たかがあの電球の取り替えに自分の全てが詰まっているような錯覚を起こしかけた…なぁ、どうして…」

「私から見た君だよ。事実ではないのか?」

ヘンリーの顔が持ち上がり、友人に向けた目には相応しくない眼差しが私に送られる。

私が彼にそれを残したのは、至極単純な理由だった。大学時代のヘンリーが見せた、たった一つの特技のように思えたからだ。大学時代に遡るが、とある日、私は電球を替えるよう教授に──今思えばそれを生徒にやらせているあの教授は心底人使いが荒いと思う──頼まれていた。私は頼まれたままに電球を替えようと電球を持ってきたものの、あと少しのところで──脚立を使おうが、それの上で背伸びしようが届かなかった記憶がある──電球に手が届かなかったんだ。そこで、ヘンリーがたまたま来た。ヘンリーは私が苦戦していた時間なぞなかったことにしたかのように、電球を替えていったのを覚えている。その時のヘンリーの顔は、なんて得意げだったんだろう。そのせいで、私は彼が電球を替えることが最も得意な人間なんだと記憶せざるをえなかった。実際、私はそれ以降ヘンリーがこれといった特技らしいものを見かけたことはなかったのもある。冷静になれば、ヘンリーは社会性が人一倍飛び抜けていたから、彼の本当の特技は人の懐に入りこむことだったのだろう。けれども私はそれを中々、人の特技だとは思わなかった。それにヘンリーと暮らしてから、彼にあれ以外の特技がないのを私は深く知るようになった。彼は、満足に料理が出来ないし洗濯も、皿を洗うことだって私が思うほど上手くはなかった。それどころか、私の想定する最悪を下回るほどの腕前ばかり。その度に彼は私に謝りもしたし、失敗が重なるごとに彼の表情が深刻化していったのは言うまでもない話だ。だから、彼の為にも奪ってやった。だって、可哀想だろう?何度も失敗することをまたやらせるなんて、猫に芸を仕込もうとするのと一緒だ。

「酷いな、お前は人のこと、何にも分かっちゃないな…」

ヘンリーの、歪んでいて悲痛そのものと言わんばかりの表情が私を見つめる。だからなんだと言うんだ?私は掴まれた手からなんとか逃れ、ヘンリーの頬を両手で包んだ。それから、私にしか集中できない様に真っ直ぐと見つめた。そして、私はかねてからの質問を彼に投げる。今更聞くからこそ、価値のある問いを。

「君はどうしたいんだ。私はずっと、君を養うくらいの財力はあるから君がここに居座ろうとも支障はない。君はどうやら、前職で随分と人に対する恐怖が植え付けられていると君自身が言っていたしな」

ヘンリーは私を睨んだまま黙り込んでいる。今にも飛びかかってきそうな雰囲気に、私は心底ワクワクしていた。私は続けて言葉を発した。人生で最も生命力溢れた語り口調だと思うが、ヘンリーはどう感じたのだろう?ぜひ、彼の頭の中を覗きたい。

「そうか、答えないつもりか。まぁいい。私は君が努力しようがしまいがそこには何も興味はないからね。君も好きな様にすればいい!私はただ、君を助けたいだけだから」

「じゃぁ、俺も好きにさせてもらうよ…」

その声は私の求めた声色であったが、面白みはないと感じた。


俺はつい最近まで、何もかもを持っていた。職、女、金、とにかく、周囲から見てみれば誰もが羨むような、そんな人生を送っていた。けれども正直言って、上手くいっていた時でさえ不安はあったと思う。言いようの無い不安が。その不安は当然ストレスに変わって、最高から最低にまで転がり落ちるような惨劇を招いた。そう、職場での衝突。俺は元々、金融の仕事に就いていたが、とある日を境に上司からのあたりが酷くなった。元が激務であるのに、仕事は任される上に手柄は取られ、理由もなしに叱責される。終いには、人格否定で頭のてっぺんから足先まで、否定尽くし。結局、俺はその職を手放した。正直、悔しかったし、次の職場では絶対に折れないつもりでいた。しかし、悪いことは続くもので、職を手放したすぐに彼女の浮気は発覚するわ、金は持ってかれるわ、いつの間にか自宅の所有権はあっちに移っているわで俺は瞬く間にホームレス一歩手前になった。職にだって就けない有様だ。だから、あの日、死ぬつもりでいた。あの真冬の夜、なけなしの金を握って、酒を買いに行った夜。せめてもののプライドを保ちたくてスーツを着ていたのを覚えている。酒に溺れたあの時、体が暑くて仕方がなかった。でも、真冬の寒さには耐えられるほどではあったから、都合が良かった。

だけど、俺は死ねなかった。いや、死なせてもらえなかった。

好きにさせてもらうと自分自身で宣言した後、俺は身に染みた習慣を完遂し、そのまま眠りにつこうとしていた。そうやって床について数分、数十分?どのくらい時間が経ったのだろう。いくらじっとしていようが眠気は来なかった。日中の昼寝が良くなかったのだろうか。俺は眠るのを諦め、閉じていた目を開け、何も見えない暗闇を見つめていた。肌に感じるのは、柔らかいシーツと体の上を覆う重たい毛布。扉の先ではダグが廊下を歩く音が聞こえて、ダグもそろそろ床に潜り込む頃合いなのだろうと思う。ダグが寝るってことは、大体十一時くらい──ダグからの期待や監視からは一時的に逃れられることを暗示した──俺は自然と体を起こし、頭の中に残っている部屋の記憶を頼りに自室のテーブルまで足を進める。それから、テーブルの引き出しを開けた。そのまま俺はその引き出しの中を手探りでまさぐり、掴めるだけそれを掴む。俺はそれを掴めたのを確認した後、それを必死に握り締めながら、どこか焦った気持ちで部屋を出た。

──パタン、そんな音が耳を通った。どうやらちょうど、ダグが寝室に入っていったらしかった。今までにないくらい、好都合な状況。俺は握り締めたそれ──今までダグからもらってきた札束の一部だ──に一瞬目をやってから、玄関へと急ぐ。俺は直感的にあることを思った。俺は、自分でも把握できないくらいに腐り切っていて、でも、自分の本質が自立したがっている。けれどもダグが言うように、今の俺は人に自慢できるようなことを何一つ持ち合わせていない。このままずっと、停滞したくない。だからもう一度だけ、死ぬことを試そうと、思ったんだ。

久しぶりに履く靴は、変な違和感があった。けれどもその違和感を上回る以上に、俺が履いた紺色で染められた運動靴は、昔の自分を少しだけ取り戻せることができたような、そんな気がした。これから死ぬ準備をすると言うのに、そのせいで少しだけ期待に似た感情があった。靴をしっかりと履いてから、俺は後ろを振り返った。誰もいなかった。ダグも、俺をわざわざ追いかけるような真似はしなかった。それを心底、嬉しく思う。

外に出た俺は、しばらくできなかったことをできる限りやった。いわゆる、欲求の解消みたいな、そんな感じだ。マクドナルドに行って、ビックマックとコーラを胃の中に入れる。それから、ゲームセンターなんかに行ってアーケードゲームをしたり、夜の街を練り歩いたり。でも案外、深夜の街と、今の自分だけじゃやれることが少なかったからのも相まって、俺の欲求不満とやらはマクドナルドの一つで簡単に解決してしまったらしい。最終的に、俺はあの真冬の日と同じように、家の近くにあるコンビニで酒を買った──マクドナルドで注文をした時も同様、店員から不審な目で見られたのが少し嫌だったけど──握り締めただけの無造作な札束は、家から出る前と比べて随分と減ってしまった。それどころか紙幣は硬貨になってしまって、残りは20ペンス。もう、何も出来ない。

手にぶら下げたウォッカは、俺の最後の晩餐だ。コンビニには俺が好きだったジンやウィスキーなんかもあったが、それはどれもダグの家にあった。他にも酒であれば多種多様にあったけれども、ウォッカがなかったのを覚えている。確かダグは、ウォッカのような無色透明、無味無臭をあまり好きになれないと言っていた。ダグの酒の飲み方が基本的にロック割なのも好きになれない理由なんだろう。だからだろうか、いつの間にか手に取っていた。

俺が家に帰る頃には、零時をとっくに回っていたと思う。家の中は無論、静まり返っていた。雑に靴を脱ぎ捨て、キッチンへ向かう。

「どうやって死ぬかな…」

アドレナリンの効いた脳が、俺の口からその言葉を吐き出させた。死ぬのが怖いとか、自立ができないのがもどかしいとか、今の自分が虚しいとか、いろんな感情を隅に無理やり追いやって、ただ楽しく死ぬ方法を考えている。とは言っても、この家に帰った今はそんなのも限られていた。飛び降りるのはナンセンスだし、酒の大量飲酒もダサいだろう。ダグにはもっと、インパクトがあって、予測可能よりかは衝撃だ、なんていう印象を抱いてほしい!そう思うと、自然と俺は鋭利な包丁を手に取っていた。ああ、わずかな間接照明でキラリと光を反射する包丁、刃の側面に反射する自分の目。ニヤリと笑っている。ダグはどんな顔をするんだろうな!

奇妙な多幸感は今、最高潮を迎えようとしている。俺は包丁とウォッカをそれぞれ手に持って浴室へと歩く。足取りは羽のように軽い!頭は能天気な感情と思考でまみれている。俺は素面だっていうのに!最高の高揚感の中、俺はもっといいアイディアを思いついて足を止めた。そうだ、遺書だ。遺書を書かなければ。でも、法律の絡んだ小難しいものでもなく、書き連ねていくごとにイライラしたり、退屈になったりするようなものでもない。ただシンプルに、ダグただ一人に向けた最高の言葉を送るんだ。俺は適当に便箋一枚とペンを持ってきた。それから、迷うことなく直接的で伝わりやすい言葉を、でかく、便箋全体を使うように書いた。言うまでもなく、便箋に引かれた線には従わなかった。最後まで従うなんて馬鹿らしいからな!遺書を書き終えてからは、その便箋を持って浴室に入った。遺書は洗面台に──ああ、まだ水が残っているのか遺書が濡れてしまった。まぁ、読めるだろうし、いいだろう──捨てるように置いて、また俺は、何もない空っぽな浴槽に腰を下ろした。昼間にやった時は水気がなくて浴槽の表面は乾いていたけれど、今はわずかに水滴とか水気が残っていて、浴槽の底に下ろした尻や足裏に水が触れる感覚が走る。浴室の栓は、都合よく最初から開いている。

「…さてと、かんぱーい」

包丁を自分の腹に横たわらせ、ここまで未開封だったウォッカを開けた。ジンとか、ウイスキーだったらもっと違ったのかな。開けた瞬間から匂いがむわっと香って、もっと楽しくなれたのかな。目を瞑り、自分が苦しくなるまでウォッカを喉に通し続けた──熱いはずもないのに、熱い液体が喉を通る感覚が俺の体を刺激する。味はない。リキュールだったら、美味しく味わえていたのかな。そんな後悔も、一度酒から口を離す頃にはどうでもよくなっていた。全身は心地よい感覚に包まれて、隙のない高揚感が俺を包んでいる。目を開けて瓶を見た。中身は半分以上なくなっている。体は火照ってきた。

酒瓶を浴槽の外に放って──雑にやったのがバレるみたいに、酒瓶が大きな音を立てて転がるのを見た──ついには包丁を手に握る。恐怖は少しも無かった。俺は高揚に背中を押されるまま、誰もが知っている民謡を口ずさみ、刃を手首の上に寝かせる。

「ねこがバイオリンを弾いている…牛が月をとびこえた……それを見て子犬は大笑い…」

包丁を、手首の血管を傷つけるように引いた。痛い。それもかなり!そこから、どろどろと血が溢れ出す。痛みで顔が歪むのを感じる。俺は自然と呻き声が口から出ていて、それで痛みを中和しようとしている。

「そし、てお皿が…スプーンと駆け、お、ちた…」

酒が完全に回っていなかったんだ。痛みでうまく言葉が出せない。意味のない呻きだけが自然と口から溢れそうになる。もう一度、痛覚が鈍らないまま俺は包丁を手首に寝かせた。ずっと手首は痛みを訴えている。溢れ出した血は腕を伝って、肘から服の上に落ちる。

「ねこが…うっ…ひいて…月……子犬…」

今度はもっと、深く腕を傷つけてしまった。尋常じゃない痛みが俺を襲い、情けない声が浴室に響く。この家の防音壁が強固だから、というのもあるのかもしれない。ダグの眠りが、完璧に深いからかもしれない。ダグの、睡眠に対する意識が高すぎるせいなのかもしれない。どの憶測にせよ、ダグは起きなかった。終いには、包丁も握れなくなって、手は元々白かったくせに、もっと青白くなる。

意識がぼんやりとしてきた。心臓の音は脳に響くほど大きくなっていて、胃液が込み上げそうになる。包丁はまた腹に横たわるように落ちた。刺さらなくて、よかった。

「…は、は……ダグ、お前は…いつもそうだ…肝心な時に、来ないんだから…」

誰かが言った人間は死にかける時、『人生が目の前を閃光のように駆け巡る』走馬灯が起こると。けれどもそんなもの、無かった。ただ、体が冷めていくような感覚と腕が痛みを訴えていることだけは、よく分かる。視界は暗転を繰り返してきた。きっと、人生が駆け巡らなかったのも、自決がうまくいかなかったのも、全て神の采配なのだろう。そうに違いない。どこからか俺は間違っていて、神はそれを正すのをずっと待ち構えていたんだ、きっと──ああ、死にたくないな。最期くらい、ダグの悔しそうな顔を見たかったな。


清々しい、朝を迎える予定だった。いつも通り顔を洗って、シャワーを浴びて。それから朝食を作りに行く。完璧なルーティン、完璧な朝──しかし、浴室に入った直後に鼻を通ったのは、鉄臭い匂いだった。浴槽には目を閉じて眠っているヘンリー。床には私が苦手とするウォッカの瓶。洗面台には、紙切れが捨てられている──昨晩、彼が出かけるような音は聞こえたが、それで眠ってしまったから、彼が外で何をしてきたのかは分からない。見る限りの印象では、酒に溺れたぐらいでしか情報を知り得ないのは確かだ──浴室の光景を横目に、いつものようにと洗面台の前へと立ち、紙切れを手に取った。少し濡れていて、一部が湿っている。紙切れは一つ折りにされていたので、開いてみた。

「──ヘンリー…何を、考えているんだ」

中身を見た直後、私の思考は一瞬止まって、それから紙切れ──ただの便箋だが、彼が線に囚われないで文字を書いたのには少し思うところがある──に書かれた言葉を理解しようとした。ヘンリーが書いたのか?いや、そうに違いないだろう。紙切れはこの家にあるものだし、筆跡もヘンリーらしさがある。けれども、わざわざこんなことを書く意味が分からなかった。

『バーカ!』

紙切れにはただそれだけが、書かれていた。これが何を意味するのか。私は振り返って浴槽の方を見た。ヘンリーは眠っている。しかし、妙だ。そう、どこか変だ。どこか、どこか──嫌に心臓が高鳴っていて、その嫌さは思考にも及んでいる。もしかしたら、彼は、彼は──紙切れを握りしめて浴槽へと近づく。近づくごとに、私はヘンリーが今どんな状態にあるのかを知ることとなった。鉄臭さの正体はヘンリーのB型の血液で、ヘンリーは眠っているのではなく、大量出血でとっくの昔に死体になっている。私は呆然とした。私はヘンリーを助けていたはずだ。それも友人として、彼を存分に助けていたのに。どうしてこんな有様になる?私には分からない。私には分からない!

「ヘンリー…嘘だろう?なぁ、」

私はヘンリーの肩を掴んだ。ぐらり。ヘンリーの首が力なく傾く。私は彼の名を幾度となく呼んだ。そのたびに彼の頬だの手だのを触って、死がデタラメであることを証明しようとした。けれども、その証明は無意味で無駄なものと言える。どう足掻いても、ヘンリーは死んでいた。

私は言葉を失ってしまった。そのまま、床に膝をついて、ヘンリーのように項垂れる。私はヘンリーが彼自身にやった腕の傷を眺めて、その傷に触れた。血は乾いている。私はどこから間違っていたんだろう?

「…よくもやってくれたな、ヘンリー」

これから、面倒なことになる。今すぐにでも然るべきところに連絡をした方がいいのは明らかだ。けれども、今だけは、もう少しだけ死体のそばにいたかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

訳もなくあてもなく 枩ノ夜半 @bookyowa_0515

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ