訳もなくあてもなく

枩ノ夜半

前編

 電球が、洗面台に捨てられていた──いや、捨ててあるというよりかは電球が割られてそこにいたと言った方がいい──洗面台が電球よりも強固である陶器製であるからに、電球の硝子は粉々になって洗面台に散らばっている。私は確か、同居人に風呂場──トイレも洗面台も一緒くたにされたこの空間のことだ──の電球の取り替えを頼んだはずだ。同居人はどこにいる?私はそんな疑問を頭に浮かばせながら、悲惨な末路を迎えている電球を横目にこの空間を見回す。すると、狭い浴槽を仕切る撥水性のカーテンが完全に閉じられていて、浴槽を完全に見えなくしていたのを発見した。それと同じように、うっすらと映し出された人影を見つけた。私はそれが同居人であることを認識する。私の視線がそれに注視して、それから私はカーテンの先にいるの人物が同居人であり友人だということを確信した。影を作る人物は、友人であるヘンリーに違いない。

「ヘンリー。電球は替えたのか?」

私は平然とした口調で尋ねる。ヘンリーは大学時代からの友人、いわば旧知の中だが、付き合いはそれほどでもないし長くもない。それどころか、今の彼は私に扶養されている立場であった。カーテンの向こう側にいるヘンリーが答える。

「はぁーい。替えはしましたよもちろん。主人の命に逆らう訳ないでしょう」

「主人?昨夜までそんな口ぶり、しなかっただろ」

カーテンの向こうで僅かに掠れた笑い声が、空間の中で反響し合い、私の耳へと飛び込んでくる。ヘンリーは笑いを滲ませた声で答えた。

「イヤァ…匿ってもらってる上に金までもらってる。最初こそ、この家の使用人としての雇用かと思ったのに、それらしい労働もない…これじゃぁ人間として腐っちまう」

私はヘンリーの言葉に違和感を覚えながらも、閉め切られたカーテンへと近づく。

「私は別に、君を使用人として働かせたいとは思ったことがない。ただの一度も…」

「じゃぁ、なんだってんだ?俺にも分かるように言ってくれ」

シャーッ──私は一度でカーテンを開けた。ヘンリーは水も張っていない浴槽に、膝を丸めて腰掛けている。ヘンリーは──イギリス人らしいブロンド髪、それから覗かせるヘーゼル色の瞳──私の存在を認識した途端、友人に向けるには不釣り合いな目付きで私を見つめたかと思うと、それからまたいつも通りのとっつきやすくも掴みどころのない笑みを浮かべた。私はヘンリーを見下ろしながら言葉を発する。私は正しいことをしているはずだ。

「友人を助けるのは当然の事だろう。ヘンリー、私は間違っているか?」

ヘンリーが目を細めて、私を見つめる。私はヘンリーの言葉を待った。

「いいや。ダグは何一つ、間違っちゃいないさ…ただ…」

ヘンリーが何かを言い淀み、彼はそのまま続きを言うまでもなく浴槽の壁につけられた窓に目を向ける。窓の外には、超高層ビル群で構成された摩天楼に囲われた街並みが広がり、眼下の街並みを見下ろせるようになっている。それはあまりにも息苦しく、それでいて洗錬されている。けれども息苦しいと感じるのは、空を見上げた時だけだ。

「ヘンリー?」

黙りこくってしまったヘンリーにそう声をかける。ヘンリーは弾かれたように私に顔を向け、私に微笑をかます。

「なんでもない…忘れてくれ」

忘れてくれ、私はその言葉通りそれ以上の追求をやめることとした。その代わり、割れた電球について彼に話を投げる。

「そういえば、洗面台に割れた電球が…どうしたんだ、あれは。君がやったようだけど」

ヘンリーの顔色が、一気に青ざめる。さっきまで楽観主義顔負けの気楽な顔をしていたのにだ。それからヘンリーは慌ただしく──まるでとんでもない失態をしでかした私の同僚のようである──浴槽から這い出ると半ばぶつかるような勢いで洗面台へと駆け、洗面台に手をついた。ヘンリーは、素手で硝子を拾い上げようとしている。私はそれをわざと傍観しながらも、ヘンリーを心配するような声をかけた。

「ヘンリー。怪我をしてしまうよ」

私が傍観しているのも、彼の慌てぶりが理解出来なかったのもあるんだろう。ヘンリーは大きな硝子の一片を拾い上げながら──僅かに彼の手が震えているように見える──平常を装ってそれが裏目に出た、僅かに上擦った声が私の耳を通る。

「だ、大丈夫。怪我なんて…いてっ」

案の定だった。私がヘンリーの後ろから洗面台を覗くと、拾い上げられた硝子のカケラを持った手のひらに鮮やかな血が出始めているではないか。ヘンリーの手の震えは悪化した。血が怖いのだろうか。彼から血がトラウマだなんて話、一度も聞いたことはない。私は流れ出る血を少し見つめてから、ヘンリーの手首を掴み、そのまま回転させる。カラン、カラ、とヘンリーの手を傷付けた硝子が音を立てて洗面台の中へと再度落ちていく。硝子には、ヘンリーの血が付着していた。

「大丈夫か、ヘンリー」

ハァ、ハァ──気づけば、ヘンリーは息を荒くして不自然にどこか一点を見つめていた。私は洗面台の鏡越しにヘンリーの顔をまじまじと見る。ヘンリーの表情は、未だ青ざめて変わらない。それどころか、私の存在すら認識出来ない様だった。ヘンリー、ヘンリー。私はヘンリーの意識をこっちに引き戻すため、何度か呼びかけてはヘンリーの肩を揺さぶった。手首を掴んでいる手に熱が籠り、汗を生み出しているのを感じる。

「ヘンリー、何か血にトラウマでもあるのか?」

ここでやっと、ヘンリーの意識が戻ってきた。彼は私に顔を向けながらも視線は四方八方へと飛び散っている。彼は荒く息を吐き出しながら震える声で答えた。私をそれを、どうも思わなかった。でもただ、精神科にでも連れて行った方がいいかとは思った。

「違う、そんなんじゃ…いや、そういうことでいい…」

私の視線は彼の顔から、洗面台の方へと移った。ヘンリーの手からは少量ながらも連続的に血が流れ出ている。次第にそれは洗面台の純白な表面を赤く染め上げるだろう。私はヘンリーの手首から手を離し、蛇口を捻った。蛇口から出た水道水が、赤く染め上げられようとしている洗面台を綺麗にしてくれる。私はその光景に、少し安堵を覚えた。何故って、洗面台は純白で綺麗であるべきだからだ。

「ここで傷口を洗って。私が手当をするから…」

ヘンリーは何か抗議をしたそうに口を開いては、その抗議を撤回したために微妙に口が開きかけている状態になっている。ヘンリーは結局、私が言った通りに傷が出来てしまった手を水道水で洗い始めた。

水道水がヘンリーの血と混じって洗面台の排水口へと綺麗に流れていく。早く、手当をしなければ。


 私とヘンリーが再会したのは、真冬の夜空の下のことだった。私は確か仕事からの帰路であったから、心底クタクタだったに違いない。それで、私はいつも通りの道を進んで自宅の高層マンションに帰ろうと足を早めていたのだ。あの日はやけに寒さが強かったのもあって、私の足は早く帰ること以外、眼中になかったのだが、そんな私でも足を止めたものがあった。そう、それがヘンリーだったんだ。いや、これが単にお互いが道を歩いてすれ違ったのなら、私の記憶には留まらない。しかしだ、ヘンリーはビルとビルに挟まれた狭い路地の、暗くて薄暗い場所で倒れていたのだ。しかも、大量のゴミ袋の上に!そんな光景を目にした私は好奇心に体を乗っ取られて──私でなくとも、旧友がそんな有様なら誰だってそうなるに違いないのだ──ヘンリーに近づいた。当時の私は、久しぶりに興奮に近い感情を覚えていたと思う。何せ彼は大学時代、自他共に認める『勝ち組』と揶揄されていたわけなんだから。それがこの体たらくだ。彼はいつも整えていた髪を今は崩していて、服装に至ってはヨレヨレのスーツを身に纏っている。勿論、私はヘンリーを家に連れ帰った。可哀想だったのだ、彼が。あんなにも輝かしい大学生時代を送った彼が、私の友人であった彼が、たまらなく不憫でならなかったんだ。だから、助けることにした。

『驚いた、まさかここで昔の旧友に会うだなんて』

ヘンリーが私に放った一言目は、確かそれだった気がする。目を覚ました彼は、昔と変わらずの態度を取っていた。相変わらずの減らず口で、へらへらと、私の精神を逆撫でる様な笑みを浮かべているヘンリー。しかしながら、彼が私に対する屈辱があることを私は節々に感じていた。話を聞くに、あんな彼にも上手くいかないことがあったらしく金や恋人、帰る家すら失って困り果てていたと言っていた。だからだろう、私と再開したこと、私がこうやって介抱しているのを幸運だと言ってくれたことだけは覚えている。彼の長々とした悲劇のヒロイン気取りの語りが終わったのを見計らって、私はとある言葉を吐いた。

『じゃぁ、しばらく私の家に住んで構わない。私は君の友人であるからね』

私の生活が一変したのは、この日からだったと思う。現に、私は──ヘンリーの言葉を借りるが──彼を人間として腐らせていくように動いている。普通、人間というのは堕落していく生き物だ。楽なものを与えられたら以前の様に不便なものを使う気には相当なれない。しかしながら、ごく稀にいるのだ。人類の中にいる生真面目で勤勉をこよなく愛するマイノリティーな人間が。それがヘンリー。私の友人であるヘンリーだった。私も彼と同じ様な部類であったが、どちらかと言えば彼ほど勤勉でなく、その場がどうとでもなれば、不真面目にでも生真面目にでもなれる様な人間だった。それは今でも変わらない。

そうして、今日まで私は彼から色んなものを奪っていった。ある一つだけを残して。


「ヘンリー。終わったよ」

俺は、その声で我に返った。いつの間にかぼーっとしていたらしい。俺の前には、包帯でぐるぐるにされた左手。その手は、優しくて残酷なダグの手に包まれている。心配しているつもりなんだろう。俺はへらり──心を見透かさないようにしてくれと神に祈って──と笑ってダグに礼を言った。

「いつもすまん、ダグ…でも、電球は変えたんだ。割られた方は古い、どう足掻いてもつきやしない電球なんだ…だから、その、」

喉の奥が引き攣る。ダグに言葉を寄越すのがどれほど緊張しいか。ダグは俺の手に視線をやったまま言葉を吐いた。いつも通りの無感情的な声色が、今は特に恐ろしく思える。

「そうだな。けれども、結果的に君はこうも怪我をしている」

包帯越しに傷が、ダグの手になぞられる。不幸なことに、ダグは正確に傷の位置を把握しているらしく──あんな短時間で記憶できるのが、あいつらしいっちゃあいつらしいが──的確に俺の傷が布越しになぞられ、僅かに痛みが伝わってきた。俺はその痛みに怯えながらも、ダグに言葉を返す。これ以上奪われたら、本当に俺は人間じゃなくなってしまう気がするから。

「ダグ、確かに今はそうなってる。けどな、今回はただの偶然だ。今まで何回も俺に頼んだそれは、今日まで失敗を起こさなかった。つまり、つまりだ…今回は本当に、ただの偶然の失敗で…」

体が強張る。ダグの、深淵を思わせる様な光を灯さない眼差しが、俺を見つめる。深淵が、俺を見ている。言葉は完全に、俺から無くなってしまった。

「私が言いたいのはそこじゃない。ヘンリー、君は何も分かっていない」

深淵に反射している自分の姿が、他人事の様に滑稽だと思った。追い立てられたと言わんばかりの表情、滲む冷や汗。僅かな身体の震えと肩が上下するほどの荒い息。尋常じゃない。普通じゃない。ダグは、今の俺をどう思ってるんだ?俺はダグの一挙手一投足、いわば唇の動きに酷いくらいに注視した。ダグは口を動かしながらも、片手を俺の方へと伸ばし始める。俺はこれから何をされるのかも分からずに、それ故に心臓の鼓動を最大限に、これ以上のものがないまでに速めた。

ついに、来る。全てを覆すダグの言葉が!

「ヘンリー、顔色が悪い。出血が多すぎたのだろう」

「は、?あ、あぁ…だからか…だからこんな…」

一気に、体に込めた力が抜ける。それと同時に、ダグに倒れそうになるのをなんとか耐えながら、ダグの手が俺の頬に触れたのを受け入れた。暖かい。あんなにも怖い目をしていて、自分は人間じゃないと言わんばかりの機械的な振る舞いをするくせに──ああ、これももし見透かされていたら?いや、ダグはそんなことじゃ怒らない──悔しいことに、俺はその手に安心しきって、その手に顔を寄せた。なんてこった、あの馬鹿げた緊張のせいで体はクタクタだ!おかげで俺は、安堵と疲労による決め技で船を漕ぎかけていた。瞼が重いのを直に感じながら、俺は言葉を続ける。

「ダグ…えぇと、ガラスを片付けるから…」

頬に添えられた手が動き、優しく俺の頬を撫でたかと思えば、そのまま離れていった。それを少し残念だと思ったのは、あいつの手が程よく暖かかったからに違いない。ダグは俺を真っ直ぐに見つめながら口を動かした。また、俺に酷い仕打ちをするんだろうな。

「いや。疲れただろう。これは私が片しておくから、ホットミルクでも飲んで休んだ方がいい」

振り返って洗面台の方を見ると、ちょうど鏡が俺の顔とダグの姿を映し出していた。ダグはいつも通りの整えられた黒髪と深淵の眼を持つ鋭い目付き。対して俺はといえば、ボサボサの、中途半端に伸びた金髪と眠気に潰されそうになっている顔だ。

「…ダグ。さっきも言った通り、怪我をしたのはたまたまだから……」

提示された酷い仕打ちをそのまま受け取るなんてこと、今日だけはしたくなかった。せめて、せめてだ。これぐらいは──くそ、今にでも床に倒れて寝てしまいたい──壁に手をつき、徐々にぐらつく体を支える。

「そうだな、ヘンリー。だが、そんな体たらくでは君がまた、怪我をする可能性を拭えない。断言しよう、君は休むべきだ」

ああ、ダグの言葉の強制力は絶大だ。ダグが『べき』だの『最善だ』と人に助言をするような素振りを見せた時には、これ以上の反抗は無意味と言っていい。つまりだ、俺はまた腐敗化が進んじまったわけだ。俺は諦めて、ダグに従うこととした。

「分かった、分かったよ…休む、休めばいいんだろ……」

そうダグに言いながら俺は廊下へと出る。体は随分とぐらついていて、思考もままならない。ただ俺の頭にあるのは、ダグに従うことだけ。逆らわない、ただ従順に──ここに連れてこられた最初、俺はすでにそこから間違っていたんだ──廊下を抜け、キッチンと併設されたリビングに入った。リビングは、ダグの趣味が全開になっていた。黒で構成された内装と、ところどころに紛れる、この部屋全体を金継ぎに思わせるような金色の高価な装飾。大型テレビ、革製のソファ、天井から吊るされた洒落た照明。どこかしこを見ても、金持ちの家だって分かる。俺は耐えきれず、ソファに全身を横たわらせた。

俺はダグに連れ帰られてから、ずっと、あの日に延々と停滞し続けているような気がする。本当に最初こそ、ラッキーだと思ったんだ。なにせ、あらゆる財産を無に帰した俺からしたら、しばらく衣食住が確実に保証されているというのは有り難かったんだ。しかも、ある程度の金までくれるんだから一時はダグに感謝した──瞼が、どんどんと落ちていく。そのまま完全に視界を覆い隠し、俺の意識は宙へと放り投げ出されようとしていた。遠くではうっすらと、ダグがガラスを片付けている音が聞こえた。カラ、キラ、カラン。陶器とガラスがぶつかる音だとか、拾い上げられる些細な音なんかが断続的に続いている。それがなんだか、か細いオルゴールの様で、俺はそのまま、意識を落とした。

俺が次に目を覚ましたのは、食欲を唆る夕食の匂いが鼻に舞い込んできた時だった。俺は随分と眠っていたらしい。嗅覚が覚醒した次は、聴覚だ。耳に音──フライパンで何かを焼いているような音だ──が届いた。目を開けて体を起こせば、キッチンにダグが居るのが見える。けれどもダグは、こっちに体が向きながらも視線が下にあるせいか、起きた俺に反応を寄越さなかった。

この家では、ダグがほぼ全ての家事を受け持っている。今している料理にしたってそうだ。洗濯、買い物、家計管理──言い始めたらキリがない。それなのに、ダグはその上で平日の日中は働いている。では、俺は?俺に任された仕事はただ一つ、古い電球を新しい電球に変えるぐらいだ。

「ダグ。すまん、ちょっとだけのつもりがしばらく寝ていた…」

ソファから降りながら、俺はキッチンへと足を運ぶ。ダグは視線を下──焼き加減を見ておかないとならないからだろう──に落としたまま、俺に言葉を返した。

「すっかり日が暮れているが、おはよう、ヘンリー。疲れが取れたようで安心した…今日はステーキだ。遠い国から取り寄せた『和牛』と言う奴を今、焼いているんだ」

「へぇ…」

食事は大抵、決まったメニューになっていて、夕食で言えばメインメニューは必ず肉類だった。品質も最高級で、それに限らずダグの作る料理は全て完璧な栄養計算がなされている。何もしなくても、完璧で素晴らしい食事が定刻通りやってきて、俺の胃の中に──けれども、正直なところ俺はジャンキーなものが食べたかった。人工甘味料で限界まで甘くされた飲み物、オーガニック信者が泡を吹いて倒れるほど添加物にまみれたバーガー。ダグから言わせてみれば、それは庶民的な食事と言わざるをえないし、ここまで健康を気にする様なダグはそれを嫌悪するかもしれない。

「君は初めてかもしれない。だが、味は保証していい。必ず君も、舌を唸らせるはずだ」

ダグがそう言いながら、鉄製のヘラでその『和牛』とやらをひっくり返した。裏面もしっかりと焼けていて、そろそろ出来上がると言わんばかり。俺にやれることはないだろうか。平皿を持ってくるとか、出来上がったものを食卓に運ぶとか。けれども、俺が何か口を挟む前に、ダグは命令を口にした。

「先に、ニュースでも見ながら座って待ってろ。もうすぐ出来上がるから…」

ダグは以前の俺の生活力のなさを見て、俺に期待をしなくなったに違いない。ガキでも出来るようなことでさえ、任せてもらえないのだ。それを悔しく思うが、その屈辱が最近は薄れてきたようにも思える。これは良くないことだ。

「…分かった。楽しみにしてる」

なんとなしに、ダグに笑いかけてみた。俺は正しい反応ができたのだろうか?そんな確かめようのないこと──ダグがこういう類のものを一度も指摘してこなかった経験からだが──をぐるぐると頭の中で考えながら、食卓の席についた。テレビは、なんだか見たい気分になれなかった。いや、見る意味がないように思えたからだ。天気予報を見ても外になんか出ないし、家に居ればその日の気温に体がばてることも、身を震わせることもない。ニュースも以前までは人一倍思考を巡らせていたのに、今ではめっきり見ない。というか、見たくないんだと思う。見ているうちに、自分が世間から取り残された錯覚を起こすのが嫌なのだ。俺は何も映し出されていないテレビの画面を眺めながら、食事が来るのを待った。

「ヘンリー、またせた」

俺の目の前に置かれたのは、さっき焼かれていた肉とその他の副菜だった。メインディッシュの肉なんて、どこぞの高級レストランみたく少量のソースでそれらしく装飾されている。

ダグは俺と向かい合うような位置に座り、俺と食卓を囲む。そのまま、互いに言葉を交わすことなく食事は始まった。食器とカトラリーがぶつかりあって奏でる音が、俺たちの間に流れる。俺は躊躇もなくステーキをナイフで一切れ取って、フォークで突き刺す。最高級であるが故に、この肉は柔らかい。それから、その一切れを口に運んだ。とろける様な柔らかさと旨み。確かに、舌が唸る。けれども、それ以上のものは感じなかった。ただただ、食道を通った肉に多大なる金がかかっていることだけを感じる。これが食えて良かったはずだ。俺は本格的に食指を動かすために両手に握られたカトラリーを動かす。

「うん、美味いなこれ…味付けは、いつも通り塩と胡椒?」

中身のない感想。仕方がない。俺には高級な肉としか舌で味わえない。それよか、俺はもっとこの肉に塩が必要ではないかとさえ思うほど、漠然とした物足りなさを感じていた。

ダグは口の中に含んでいた肉を完全に飲み込んでから答えた。

「下味はそうだが、装飾に使ったソースは赤ワインソースで──」

ダグが相も変わらずはっきりとものを語った。その態度はさながら、絶対零度な態度に見える。けれども俺は、ダグの話に耳を傾けることなく、仕草や顔に目を凝らした。ダグは、どんな時でも眉一つ動かさない。雄弁に物事を語ろうとも、その表情は無を貫き通す。こいつは、昔からそんな奴だったか?いや、そんなこと覚えてない。友人なんて、その場限りの上辺だけの関係なんだから。ダグにしたってそうだ。ダグと関わったのは、たったの一回。確か、所属サークルが一緒だったから一度飲みに行ったきりで──ダグが、口を閉じて俺を見つめている。

「…何、ダグ」

俺はそう言いながら微笑んで、ダグを見つめ返した。ダグの表情は機嫌を悪くしたのか、いつもより目つきが鋭く感じられる。いや、気のせいなのだろうか?分からない。ダグの顔は、あまり変わらないから。

「失礼だと思わないか、人の話を聞かないなんて」

「ああ、ごめんごめん。それはどうも、すまなかった…生憎、最近はぼーっとすることが多くってさ…困っちゃうね」

俺はわざとらしく手で『お手上げのポーズ』をしてみせた。ダグはそんな俺を眺めながらも、思案するように曖昧な相槌を挟んでいる。それからすぐに、ダグは口を開いた。

「では、私以外の旧友と会ってみるのはどうだろう。それか、外に出てみればいい…最近の君は、まるっきり外に出ていないようだしな」

誰のせいでこうなってると思ってるんだ──思わずそう口に出そうになるのをなんとか抑え、俺はフォークに肉を突き刺した。肉の断面から、肉汁が滲み出ているのが見える。

「それもありかもね〜」

フォークで突き刺した肉を、平皿の端に添えられたソースに絡めた。そしてそのまま、口の中に放り込む。うん、美味しい。でもやっぱり、それ以上のものは感じなかった。

食事が終わった後は、いつの間にか染みついていた習慣に沿ってシャワーを浴びに行く。ダグはいつも通り、使った食器類や調理器具をシンクで洗っていた。

浴室に入り、ドアを閉める。浴室を明るくしている電球はちゃんと替えたのもあって、昨日の何倍も光っていた。それを横目に、俺は数少ない私物でもある服──灰色のシンプルなルームウェア──を脱ぎ始める。服の下はすぐに、しばらく陽に晒されていない肌が姿を現した。改めて見ると、以前より肌の白さが増した気がする。それ以上に、自分の身体から筋肉が消えている感覚を日々実感する。服を掛けるように洗面台に投げ、鏡に目を向けた。痩せも太りもしていない微妙な体型が鏡越しに見える。しばらく俺は、パンツ一枚になった自分を見つめた。それから気怠い足取りで洗面台に近づき、昼間にやったことを思い返す。そう、昼間やったように右手で電球を持つ真似をして、それから宙に振りかざし──。

「…パリーン……」

脳内で反芻するあの電球の破裂。俺は振り下ろした手を洗面台につけ、誰に向けてか分からない弁明が始まる。俺が電球を割ったのは、ダグのあの無表情な顔を崩したかったからだ。電球を割れば、ダグの感情を引き出せる気がした。けれども、俺は怖気づいた。電球を割った後、好奇心は消え去って、後に残ったのは後悔と恐怖。ダグの幻聴が、俺の頭に囁く。

『──どうして電球を割ったんだ?』

脳内でそう囁くダグの幻聴に、息を一瞬、詰まらせた。それから、俺は小さな声で答える。

「ダグが、怒って、くれるかも、って…思った、から…」

幻聴は、返事を返してくれなかった。そりゃそうだ。幻聴は幻聴でしかないんだから。

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