溶ける指(ショートショート)
雨光
画面の向こう側
私の親指は、もう、私の意志とは別の生き物であった。
夜の帳が下り、部屋の光が消える頃、その生き物は、まるで水を得た魚のように、スマートフォンの冷たいガラスの上を滑り始める。
上へ、上へと。
無限に湧き出る、色彩の洪水の中を。
一つ一つの動画は、刹那の命であった。
女が踊り、猫が跳ね、料理が出来上がり、事故が起こる。
そのすべてが、私の網膜を一瞬だけ焼いては、すぐに虚無の彼方へと消えていく。
意味も、文脈も、そこにはない。
ただ、指を滑らせるという、原始的な快楽だけが、私をこの行為に縛り付けていた。
私は、眠らねばならぬと、頭のどこかで分かっていた。
明日も仕事がある。
しかし、私の親指は、止まらない。
それは、もっと強い刺激を、もっと鮮やかな色彩を、もっと短い快楽を求めて、貪欲にガラスの上を泳ぎ続ける。
ふと、私は、奇妙な感覚に襲われた。
指先の感覚が、ない。
いや、感覚がないのではない。
指先が、ガラスに、溶けていくのだ。
スマートフォンの冷たい板が、私の指を、まるで熱い鉄板の上のバターのように、じわりじわりと侵食していく。
肉が溶け、骨が溶け、神経が、ガラスの向こうの電子の海へと、吸い込まれていく。
私は、恐怖に顔を歪め、スマートフォンから指を離そうとした。
しかし、離れない。
私の親指は、画面に、完全に癒着してしまっていた。
画面の中では、相も変わらず、無意味な動画が流れ続けている。
しかし、その色彩は、どこか、私の血肉の色を帯びているように見えた。
女の踊る背景の赤は、私の動脈の色。猫の毛並みの白は、私の骨の色。
私は、もう一人の自分が、部屋の隅の暗がりから、私を見下ろしているのに気づいた。
それは、指を失う前の、まともな私であった。
その私は、軽蔑と憐憫の入り混じった目で、スマートフォンと一体化した、この醜い肉塊を、ただ、静かに見つめている。
「やめろ」と、私は声にならない声で叫んだ。
すると、画面の中の動画が、ぴたり、と止まった。
そして、今まで見たこともない、一つの動画が再生され始めた。
それは、私の部屋を、私の視点から撮影した映像であった。
私の親指が、ゆっくりと、スマートフォンに溶けていく様が、克明に映し出されている。
その映像の中で、私は、恍惚とした、この世のものとは思えぬ表情を浮かべていた。
ああ、と私は悟る。
私は、もう、こちら側ではないのだ。
私は、このガラスの向こう側で、無限に消費される、刹那のコンテンツの一つに、なり果てたのだ。
私の意識が、完全に、電子の海に溶けていく、その間際。
画面は、次の動画へと、無慈悲にスワイプされた。
私の存在は、指一本分の重さも残さずに、次の快楽の奔流の中へと、消えていった。
溶ける指(ショートショート) 雨光 @yuko718
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