第50話『あなたといたのは、誰の肌だった?』

札幌の繁華街。すすきのと中島公園のあいだ、小さなビジネスホテルの最上階。

壁は薄く、外の音は意外と静か。ベッドは清潔、バスルームは狭いが整っていた。

もう何度この部屋を使っただろう。


俺は今夜も、どこかで出会った女と身体を重ねた。

たぶん、年上。髪はロングで、肌が白かった。

でも……名前が思い出せない。

顔も、ぼやける。

声も、服も、どうしても思い出せない。


それでも、肌の感触だけが妙に鮮明に残っている。


首筋に唇を這わせてきたときのざらついた舌。

背中を指でなぞられたときの、細く長い爪。

爪が食い込むように腰に回され、下腹部をゆっくり締めつけられるあの感触。


それらは、女の記憶としてではなく、

“俺の皮膚の裏”に、残っている。


 


風呂上がり、脱衣所の鏡を見る。

俺の身体には、複数のキスマークがあった。

首に一つ、鎖骨に二つ、腹部に歯形。


だが──

さっきの女は、そこにキスなんてしていない。


そもそも、“さっきの女”とは、誰だった?


ポケットの中からスマホを取り出し、今夜撮った自撮り写真を開く。


俺の横に、女が映っている。

白い肌、濡れたような髪。肩に手を回して寄り添うように。


けれど、

その女の顔が、まるごと写っていない。


ただ、首から上が灰色のもやに覆われていて、輪郭すら不明瞭。

目も鼻も、笑顔もなにもない。

なのに──その写真を見ていると、俺の身体は熱を帯びていく。


「この女と、何をしたか」


思い出そうとすればするほど、

背中がゾワゾワと疼き、腰が勝手に反応しはじめる。


 


俺はもはや、誰と寝たかを記録するためにしか写真を撮れなくなっていた。

そのくせ、撮れば撮るほど、映る女の顔はどれも“曖昧”になる。


でも、身体は全部覚えている。

肌に吸い付く唇の温度。

息がかかる角度。

果てる直前に、耳元で囁かれた声──


「わたしの肌、もう忘れられないでしょ?」


その言葉だけが、脳の奥に貼りついている。


 


不安になって、ある夜、専門医にかかった。

診断はこうだった。


「脳に異常はありません。ただ……記憶と身体感覚が逆転してるようです」

「あなたは、“感触”を記憶しすぎていて、逆に“事実”を忘れています」


そんなことが、あるのか?


いや──


本当に俺が感じていたのは、“誰か”の肌だったのか?

そもそも、その“誰か”は、本当に生きていたのか?

ただの女だったのか?

それとも──


 


思い出してしまった。


3ヶ月前。あの夜。


はじめて“顔のない女”と関係を持った、あの夜。


すすきの裏のクラブで、目を合わせた覚えすらない女に声をかけられ、

気づけばベッドにいた。


彼女は顔を見せなかった。

ずっと後ろから抱かれ、声もほとんど出さなかった。


ただ、唇と指と脚と、“肌のすべて”で俺を支配してきた。


そして朝、彼女はいなかった。


シーツの中に残っていたのは、湿った黒髪の束と、どこかの誰かの記憶。


 


あれ以来、俺はどこで誰と寝ても、

“その感触”を思い出すようになった。


他の女と抱き合っても、あの舌の感触が蘇る。

別の誰かの名前を呼ばれても、俺の背中には“あの声”が染みついて離れない。


俺はたぶん──

もう、“誰かの肌”しか感じられなくなってしまった。


それが誰なのか、何なのかはわからない。


ただ確かに、俺の身体にはもう、

俺自身の感覚は、残っていない。


 


その証拠に──今夜もまた。

ホテルのベッドで目を覚ますと、俺の横に誰かがいる。


顔は見えない。

だけど、手が腰に回り、唇が肩を這っている。


そして、耳元に甘くささやかれる。


「あなたといたのは、わたしだった。

 だけど、わたしだけじゃない。

 わたしたち、ずっとあなたに触れてるのよ……」


俺の身体に貼りついているのは、

あの夜から積み重ねてきた、“女たちの記憶”。


触れた手、舐めた舌、汗、爪痕、涙、吐息、叫び、絶頂の瞬間。


全部が残っている。


俺という感覚の輪郭は、もう曖昧になった。


今、触れられているこの肌が──

誰のものか、わからないままでも、

もう構わない。


 


俺の中には、今も彼女たちがいる。


抱かれた女たち──

あるいは、俺に“入ってきた”女たち。


どちらかは、もうわからない。


だから今夜も、

この肌が誰のものか考えることをやめて──

ただ、快楽に身を任せる。


 


──その肌が、温かいのだから。


【完】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『夜、肌に触れるのは君じゃない――甘くて冷たい心霊体験短篇集』 常陸之介寛浩◆本能寺から始める信長との天 @shakukankou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ