最終話 吾輩は屁である
吾輩は屁である。
かつては河合咲であった。
名前はまだ無いが、責任もまた無い。
したがって、実に気楽なものである。
しかし、この世に生を受けてからというもの、吾輩は一度も感謝されたことがない。
これは甚だ遺憾なことである。
生物学的にいえば、吾輩はれっきとした代謝の副産物であり、生命活動の証左であるはずだ。にもかかわらず、吾輩はただ「臭い」「恥ずかしい」「誰のだ」などと非難の的にされ続けてきた。
思うに、現代人の自己中心性は目に余る。自分の尻から発生した気体を他人のせいにするとは、どういう了見か。
さて、本日吾輩が現れたのは、
午後の古びた公立中学校の教室であった。
気温はやや高め、窓は締め切られ、空気は湿気を帯びていた。
「……今の、誰?」
ひとりの生徒がそうつぶやいた。
吾輩としては、それに対して「我輩である」と名乗り出たかったが、残念ながら吾輩に発声器官は存在しない。あくまで鼻孔と嗅覚神経を介して間接的に語りかけるのが吾輩の流儀である。
隣の男子が「お前だろ」と言い、
女生徒が「ちがうし」と返す。
まるで些細な戦争である。
人間は、もっと壮大な敵――
たとえば老いや死や社会制度――と戦うべきで、屁を敵視するとはスケールが貧弱である。
そのうち、前方の男子が叫んだ。
「先生〜!誰か屁をしました〜!」
すると教師が、
「そういうことを大声で言わない!」と憤る。
滑稽である。屁に声を上げると叱られ、屁そのものには責任が問われぬ。
つまり、この教室には「屁の責任の空白地帯」が存在しているのだ。
ここで吾輩は一考した。
仮に吾輩が「屁である」という自己認識を持っているとする。
では「誰が吾輩を生んだか」という問題になると、途端に皆が黙る。
おかしいではないか。存在の因果に目を背けて、現象だけ責める。
これはまさに近代社会の縮図であり、あらゆる問題に通じる姿勢である。
⸻
しばらくして、教室にひとりの女生徒が立ち上がった。
「……私、出した。ごめん」
教室が静まる。
吾輩は感動した。これは屁史上、類を見ない快挙である。
名乗り出る勇気、己の存在を引き受ける強さ。
この女、ただ者ではない。
「でもさ、誰だって出るでしょ? 人間だもの」
相田みつをのような詩的発言をもって、彼女は締めくくった。
誰かが笑い、誰かが鼻をすすり、
誰かが言った。
「いいって、別に。俺もしょっちゅう出るし」
空気が変わった。
いや、正確には「空気が赦した」のである。
吾輩は、その変化を見届け、静かに分散した。
ああ、これでようやく、わが存在にも意味があったのだと納得した。
責任は無いが、意味はあった――
それでいい。
こうして吾輩は消えた。
名もなき屁として。
この教室に、ひとつの赦しを残して。
風の中に、誰かの笑い声が混じった気がした。
誰も怒っていない。
誰も恨んでいない。
赦すことは愛すること。
そのとき咲は、初めて神を見た。
それは天にあるものではなく、
赦しのあとに残る静寂の中にいた。
――沈黙の臨界。
すべてを赦し、
すべてを愛することで、
人はようやく、自分の中の神に触れるのだ。
――了――
沈黙の臨界 ANOTHER SKY 沈黙のおじさん @donburataro
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