夏の妖精と永遠の夏

佐渡 寛臣

夏の妖精と永遠の夏

 夏だねと真っ白に重なる積乱雲を覗き込んで千夏が言った。春樹は電車の車窓越しにちらりと一瞥し、切符に視線を戻してため息をついた。

 街並みが次第に廃れていく。快速で進む車両はまるで時間を引き裂くように、その車体を田舎町へと滑り込ませていく。


 春樹の手には見たこともない金額の切符。正面に立つのはどこか心ここにあらずな幼馴染の千夏。

 名前の通り、夏の似合う少女。水泳部で真っ黒に焼けた肌。短いショートボブの黒髪。セーラー服から覗くしなやかな四肢。それらを見つめることは許されない春樹はやはり切符を見つめる。


「あ、トンネル」


 千夏の言葉と同時に、ゴウと響く音と共に暗いトンネルへと差し掛かる。外の景色は失われ、見るものをなくした千夏が退屈そうに春樹の隣にとすんと腰を下ろした。

 春樹は顔を上げ、ただ壁だけが流れていく陰鬱な外の景色を見つめた。


「つまらなさそうにしてさ。そんなに拗ねなくてもいいじゃん」

「そんなんじゃないよ」


 そう、拗ねた口調が口からこぼれてしまう。春樹は自分のそういう幼さが嫌いだった。

 千夏は眉を寄せて微笑む。弟を優しく諌めるようなそんな表情、それが重ねて春樹の機嫌を損ねるとも知らずに。


「ごめんね。そんなに悲しんでくれてるのにさ。私はちょっと嬉しく思っちゃうよ」


 春樹が顔をあげると千夏がそっと春樹の頭に手を置く。そっと柔らかく髪を撫でた。


「引越し、突然でごめんね。もっとずっと春樹とは一緒にいると思ってたからさ」

「いいよ。仕方ない」


 車輪の跳ねるような音がただ響く。乗客は二人以外誰もいない。静かに二人だけの時間が暗いトンネルの中を進んでいく。


 ――仕方がない。そう、仕方がないのだ。親の急な転勤。そうやってこの街にやってきた千夏が、同じくこの街を去るだけなのだ。


 いつか、プールを泳ぐ千夏を見て思ったことがある。

 ──千夏は夏の妖精のようだ。

 春樹はふとそのことを思い出す。出会って最初の夏、部活に勤しむ千夏を見て、そう思った。


 思い起こせば、千夏がこの街に来たのも夏だった。


 千夏は夏の妖精だから夏が過ぎれば、消えてしまうのか。


 寂しい、なんて口に出せなかった。けれど態度できっと千夏にはわかってしまっているんだろう。春樹もそれをわかるくらいに、二人の距離は重なるくらいに近かった。


 陰鬱な気持ちでいると、ふとあたりが明るく変わった。トンネルを抜けたのだろう。千夏が顔を上げて言った。


「春樹、海だよ」


 千夏に手を引かれて席を立つ。窓の外には呆れるくらい大きな積乱雲と水平線まで広がる海が視界いっぱいに広がっていた。


「──忘れられない夏にしようよ」

「忘れられない?」

「うん。最後じゃない、永遠の夏」


 夏の妖精はそう言ってニカっと笑って春樹の手を引いた。開いた扉の向こうに連れ出され、春樹は躓きそうなりながら、綻ぶ口元を抑えた。


 改札口に切符を通して、二人で海岸線目指して歩いていく。じりじりと突き刺すような日差しを避けて、壁際の僅かな影の下を歩く。アスファルトから舞い上がるような熱気が身体を燻し、春樹は汗を拭ってただ歩いた。


 途中の自販機で千夏がなけなしの小遣いでスポーツドリンクを買う。あたりが出ればいいのにと、じとっと明滅する自販機の小さな電光掲示板を睨みつける。


「外れるよ」


 春樹のつぶやきと同時に残念そうなブザーが鳴る。ちぇっと可愛い舌打ちを千夏が漏らして、ペットボトルのキャップを回し、一口飲んでそのまま春樹へと渡す。

 受け取って、飲み口を一瞬見つめてそのまま口にする。

 こくこくと飲料水が喉を通っていく。


「――まったく春樹は悲観的でいけないね。春樹も一緒にあたるっていってくれればあたりがでたかもしれないのに」


 ぶつくさとぼやく背中を追うように二人縦に並んで海岸への道を歩く。

 防波堤を超えて、砂浜に降りると千夏はさっさと靴を脱いで素足で砂浜に降り立った。


「あついあつい! 春樹も早く!」


 急かされるように春樹も靴と靴下を脱いで砂浜に足をつける。じゅっと焼けるような熱さに思わず足をばたつかせた。


「急ごう!」

「ちょ、ちょっとまって。バカなの!?」


 あははは、と笑いながら千夏は先を駆けていく。熱い熱いと言いながら春樹もつられて笑いながら、靴なんて途中で放り投げて波打ち際までやってきた。


「バカバカしいけど、忘れられないでしょう?」

「なんだよそれ」

「夏が来るたび、思い出させてあげるのよ。私と春樹だけの夏をさ」


 そう言って、千夏が春樹のすぐそばまで近づいてくる。夏休み前の砂浜は人の姿はあまりない。けれど何故か二人だけのような感覚が春樹にはあった。


「千夏……」

「――私だって同じだよ。わかってるでしょう? 私がわかるようにさ」


 寂しい気持ち。離れがたい気持ち。口にできない気持ち。春樹の中にある本当の気持ちも、重なるように同じなら、春樹と千夏の間では一体何が違うというのだろうか。

 わからずに、俯く春樹にまた一歩近づいて、千夏はそっと背中に手を回した。


「――言ったじゃん。悲観的でいけないねって。一緒に願ってくれればさ。叶うかもしれないじゃん」

「一緒に……?」

「……忘れられない夏を」


 囁くような声が耳元で響いた。真横の千夏は目を閉じて身体を春樹に預けている。高鳴る心臓を押さえるように春樹も目を閉じて、千夏の身体を包むように抱いた。


「永遠に続く……夏を?」

「うん。ずっと夏が来るたび思い出すのよ。二人の夏を」


 千夏が小さく息を吐いた。そっと離れて、微笑む。


「いつかまたくる。二人の夏までさ」


 その声は静かに響く波音に消されて流れて行く。春樹は顔をあげて、今にも消えそうなくらい不安げな夏の妖精の手を掴んだ。




 玄関先に、一枚の写真が飾ってある。見上げる空、重たくのしかかる様に連なる積乱雲に負けない気持ちを載せて切り取った写真には、あの頃の二人の姿があった。

 春樹はふっと笑みを浮かべて、呼ぶ声に振り返る。

 忘れないように、小さな子ども用のビーチサンダルを持って、彼女の後を追いかけた。

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夏の妖精と永遠の夏 佐渡 寛臣 @wanco168

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