枝先

 それ本当なの、と潜められた声は、少人数の教室内には何食わぬ顔で響いていく。それをきっかけに、今まで気にも止めなかった彼女達の会話が自然と耳に入って来るようになる。

 帰りの、戸締まりや電気の点検のために美都は教室に残っていた。名簿番号順に回される日直の仕事だ。閉じられたままだったカーテンの裾を引きながら、端に固まって噂話をする低い声を拾う。ホントホント、と、話題提供したらしい一人が言った。


「なんか前の彼氏、結婚してたんだって」

「えー、不倫相手になっちゃってるじゃん」

「でもあいつ知ってたらしい」

「あ、そうなの?」

「なんかさー、前言ってなかった?『金入るからー』とか」

「ああ、うん。金目当て」


 へぇー、と、一人が感心とも批判ともつかない声を上げると、一つ前に喋った女子が「まあ、金っていうかプレゼント?」と重くなった空気を誤魔化すように言い直した。少し言い過ぎたと思ったのかもしれない。

 若干不自然だったけれど、それで話が別に流れていく。美都が席に戻って日直日誌のチェック欄を記入しているうちに、彼女達の話は昨日のバラエティー番組一色になっていた。

 席を立つと、一人が気付いて挨拶をくれたから、軽いお辞儀をぎこちなく返しておいた。


(……、)


 肩に掛けた鞄がいつもより重い。自然と足取りも重くなる。

 なんとなく自分の中に嫌な思いがあるのを感じた。


 結婚。不倫。金目当て。


 どれだって当て嵌まらないはずなのに、聞いていて他人事だとは思えなかった。

 自分が一企業の社長にあたる人物と特別な関係にあることを知ったら、自分もあんなふうに彼女達の話題にのぼるのだろうか。

 女子が噂話を好きなのは一般的なことで、話題になったからといって気にすることもない、それは分かっているし、今までの自分なら気にしなかっただろうと美都は思う。

 今、そうでないのは、罪悪感か何かから? 恥ずかしいことだと思っている? それとも、彼が同じ立場にいることが気になるのだろうか。(多分ちがう。私はそんなに大人じゃない。)なら何故。


 校門を出た先で、携帯の電源を入れるのを躊躇った。こんな気持ちのまま使いたくない。彼と——中田と、向き合いたくない。

 なにかの感情をそうするように、携帯は鞄の奥に押し込んだ。

 待ち合わせている場所に着く頃には、この嫌な気持ちが無くなっていて欲しい。でなければ、一体どんな顔で彼に会えばいいのだろう。


(この間会ったときも、心配かけたばかりなのに)


 こんなことを繰り返すくらいなら、いっそやめたほうがいい。

 幸せな気持ちになら何度もなってる。もう十分なはずだから、だから、




「美都ちゃん」




 声がしてはっと振り返る。視界に入ったのは車道の脇に止まっている優しい色の車。運転席の車窓からのぞく男性の表情が、たおやかな笑みをかたどっていた。


「中田さん…、」


 車から降りてきた中田の、ドアを閉めて後部座席に座るよう促す一連の動作を目で追う。なぜこんなところで彼に会ったのだろう。そのことに考えが至ると、ようやく夢でもなんでもなく現実に中田が目の前にいるのに気がついた。

 訝しげな表情をしていたのか、中田は困ったように笑って、そして言った。


「迎えに行かないと、来てくれない気がして」

「———」


 やっぱりやめようかと思った。

 でもそれは無理だ。

 今まで何度これを繰り返してきたか、これから繰り返してゆくのかもわからない。

 けれど今は、今だけは、大丈夫と言ってくれる彼の温かさに安心していたい。


 さあ乗って、と示されるままに美都は車に乗り込む。ばたん、とドアの閉まる音が心地好く耳に響いた。

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