第14話
ノートを見ない生活は、想像以上に雑音が多かった。
タイミングのズレ。言葉の選び違い。ちょっとしたすれ違い。
それまで、完璧に整っていた脚本が、どれだけ俺の行動や言葉を正解に導いていたか身にしみてわかった。
けれど、同時に思った。
この世界は今、自分の選択で動いてる。
ほんの少しでも、それを感じられるのが、なんだか誇らしかった。
怖さと自由が隣り合わせのまま、そんな日々が続いていた。
そして、あの日の朝。
少し寝坊して、駅まで急ぎ足で走っていた。
いつもより速く脈打つ心臓。ひとつ深呼吸しただけで、胸の奥がざわついていた。
なんだろう、嫌な予感がする。
歩道橋の下、見慣れた交差点。そこに人影があった。
「え?」
その瞬間、視界に飛び込んできたのは、転倒した、小さな子ども。
ランドセルの重さのせいだろうか、その子は地面に手をついたまま動けない。その先には、カーブを曲がってくる車。
ブレーキ音はまだ聞こえない。
間に合うかなんて、考えてなかった。
気がつけば、身体が勝手に走り出していた。
「危ないっ!」
誰かの叫び、急ブレーキの音。
次の瞬間、世界が真っ白に弾け飛んだ。
「ぅ……ん……」
まぶたの裏に、じんわりと光が滲む。
見慣れない天井。鼻をつく消毒液の匂い。
右腕が、ずきずきとうずいていた。
見下ろすと、右腕が包帯でぐるぐるに巻かれている。
点滴に白いシーツ。心拍モニターの電子音。
ここは病室だ。
胸の奥に、ぽっかりと穴が空いた気がした。
ノートを見ていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。
そんな思いが、一瞬、頭をよぎった。
でも
違う。あのとき、俺は考える前に走ってた。
それはノートの指示じゃない。自分の選択だった。
それでも、悔いはない。これが俺の未来だから。
そのとき、控えめに、ノック音が響いた。
「伊吹君っ……!」
震えた声が、ドア越しに飛び込んできた。
制服のままの梓が、目を真っ赤にして駆け込んできた。鞄も靴もぐちゃぐちゃ。手には、あのノートを強く抱えて。
俺の顔を見た瞬間、彼女は膝から崩れ落ちるようにベッド脇へ倒れ込んだ。
「梓、どうしてここに?」
「ノート、見てなかったんでしょ? だから言ったの! 私に従ってって」
ぽろぽろと、涙が零れ落ちる。
「もし、もっとひどいことになってたら、どうするつもりだったの……!」
震える指先が、シーツをぎゅっと握りしめていた。
俺は、静かに首を振った。
「ごめん。それしか言えないよ」
「でも。小学生の子が轢かれそうで、とっさに体が動いたんだ」
「梓だって、同じことをしてたと思う。ノートなんて見てなくても、絶対に」
梓は顔を伏せたまま、何も言わなかった。
だけど、震える手でノートを開いて、俺に向けた。
「ねぇ、もう、私の指示に、従ってよ」
その声は泣きながらも、どこか必死だった。
「伊吹君が、また傷つくの、もう見たくないの。だから、今度は、ちゃんと私に守らせてよ!」
けれど、俺は静かに首を横に振った。
「梓……」
目を見つめて、そっと問いかける。
「その未来で、君は笑っていられるの?」
「え?」
彼女の瞳が揺れた。
「もし、その未来に君自身がいないなら。そんな未来、俺は絶対に認めたくない」
「君の家に行ったとき、思ったんだ」
「生活感がなさすぎて、家具も私物も、まるで展示品みたいだった」
「まるで、終活でもしてるみたいだった」
梓の顔色が、はっきりと青ざめる。
「どうして、わかったの?」
その声は、かすかに震えていた。
「それは、俺が、君のことを好きだからだよ」
沈黙が落ちる。
梓は目を伏せ、口をぎゅっと噤んだまま、動けなかった。
でも、彼女の震える指先がその沈黙に嘘がないことを物語っていた。
「それでも、伊吹君には傷ついてほしくなかった」
かすかに絞り出したその声に、思わず息を飲む。
「たとえ私がいなくなっても、みんなが笑ってくれるなら、それでいいと思ってたのに」
「なのに、こんなふうに私のほうが、泣いてるなんて、ほんと、バカみたい」
そのときだった。
梓が手にしていたノートのページが、ふわっと淡く光を放った。
「なに、これ?」
ページの左下に、見慣れない文字が浮かび上がる。
逸脱度:2.7%
「逸脱度?」
彼女がぽつりとつぶやいた。
俺はベッドの上で体を起こし、静かに言った。
「未来は変わる。逸脱度ってそういうことだろ」
「決まってる未来なんて、もう信じなくていい」
「俺たちの選択で、きっと未来は変えられる!」
梓の瞳が、大きく見開かれる。
その奥に浮かんだのは、驚きとそして、希望だった。
「私たちが、選び続ける限り、未来を、変えられる?」
俺は、力強くうなずいた。
「だから」
ゆっくりと、右手を差し出す。
「梓がよければ、その未来を俺にエスコートさせてくれ」
梓は、小さく息を呑んだ。
ノートをそっと閉じると、震える手で俺の手を、そっと握り返してくれた。
それは、初めて自分たちで選んだ未来の、最初の一歩だった。
数年後。
春の風が、どこか懐かしい匂いを運んでくる午後。
窓際のテーブルに、ふたりで並んで座っていた。
梓がそっとページをめくる。あのノートだ。
でも、もうそこに未来の指示は書かれていない。
ページはすべて、真っ白だった。
「いっくん。ノート、やっぱり、白紙のままだね」
梓が笑いながらつぶやく。
「そうだな。でも、それでいい」
俺も笑い返した。
「未来は、誰かに教えてもらうものじゃない。これからは、俺たちで書いていくんだ」
「うん、そうだね」
そう言って、梓がノートを閉じる。パタンという音が、やけに心地よかった。
ふたりの物語は、もう誰のシナリオでもない。
この白紙のノートに、これから何を書いていこうか。
ゆっくり、ゆっくり。
手をつないで、一歩ずつ。
俺と、梓とで。
まだ白紙の、ふたりの未来を。
これにて物語は完結です。
最新話まで読んで戴き本当にありがとうございました!
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中学で別れた幼馴染ヒロインの攻略手順が書かれたノートが俺の机に置かれていた件 志久野フリト @Shikuno-Furito
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