いとしいひと、冬
ニシカユーマ
短編
男の生まれ育った家の最寄り駅に、電車は一時間に二本しか止まらない。上りと下り。決まった時間になると無機質で薄汚れた電車が滑り込んできて、去っていく。そして終電の時間はたいへん早い。
男の実家は駅から徒歩四十分ほどのところにあった。駅から二十分ほど住宅街を歩いたところにある小さくて青々とした山の入り口から、さらに車道でもある広くはない山道を二十分ほど登ると、ようやく広々ととした入り口が見えてくる。バスはその山の道の入り口のところにしか止まらず、周りに男の実家の他に民家はない。けれど、男の実家は平屋でだだっ広く、ここらで一番の大きさを誇る大邸宅だった。
戦後の農地改革より前、青年の曽祖父は国鉄の駅の近くに大きな邸宅を構えていたが、それも戦後には取り上げられることとなり、家族はいそいそと隠れるようにいまの場所へと住まいを移したのである。
季節は年末の冬だが、ここらはまだ雪に埋もれていない。もとより、雪深いところではないのだ。
男は現在の住居である成城のマンションから電車を乗り継いで帰省しており、荷物は小さなキャリーケースとポケットの中のスマートフォン、財布のみだった。例年通りであれば、四年前に結婚した妻の荷物の詰まった大きなキャリーケースもひいていたが(中は衣類や化粧品が異常に多かった)、あいにく妻とは昨晩喧嘩したばかりで、妻が今回の帰省についてくるのか、彼には検討がつかない。
最寄り駅で電車を一番に下りた男はあたりを見回して、自分の妻が下りてはこないかと、乗客の全てが下りるのを待っていた。妻は昨晩、最低限の荷物を持って家を出ていった。これはこの四年間の、おだやかで刺激のない夫婦生活のなかで、年に数回はあったことで、数日すると妻はふらりと帰ってくる。「ただいまもどりました」とまるで何事もなかったかのように(妻にはそういうところがあった)。
けれど、今回はどうだろうか。無人駅には、結局妻は吐き出されなかった。
駅前は過疎地らしく寂れている。コンビニエンスストアがたった一つだけあって、あとは古びた家屋とシャッターの下りた商店が並び、その道をしばらく歩くと、ようやく新興住宅街が見えてくるのだった。そしてそこにまた一つ、時代に迎合するかのようにきれいなコンビニエンスストアがそびえたっている。田舎の人間は車ばかり使うから、客は駅前のものよりもこちらの不必要に大きな駐車場を備えた店舗の方が多いかもしれない。
白色の外壁に大きな窓。プラスチックみたいに清潔な家々が並ぶ通りを男は歩いていた。道行く人々の中には顔見知りも、そうでないものもいる。男に「おかえりなさい」というものもあれば、訝し気に男を眺めるものもいた。けれど、この町の住人の大体は男の実家のことを知っている。
「昔はこのへん全部がうちの土地だったのですよ」
かつてこの通りを歩いていた幼い日の男の手を引いて、祖母はそう教えた。あのとき、ありしの少年には自分がこの世界において特別な気がしていた。けれど、大人になって気が付く。この土地において特別であっただけで、街へと出れば自分はただの田舎者であったことを。
×
山の入り口はいつもよりも暗いように男は思った。けれど、空は晴天だ。青色が広がっている。
男はここでまた、妻のことを考え始めた。先に着いていたりするのだろうか。それとも遅れてくるのか。それとも、それとも――。
別れが恐ろしいかというと嘘になる。きっと男は一人でも、他の女とでも生きていくことはできるだろう。それはきっと、男の妻も同じことだ。
子供でもいたら違ったのだろうか。男はそう思って、少し自分が嫌になった。夫婦は決して子供を持たない主義ではなかった。けれど、一年前、妻の子宮に宿った命は一度流れてしまったいた。
淡々と「駄目でした」と伝えた妻に、男はなんと伝えればよかったのだろうか。頑張ったね。残念だったね。つぎは大丈夫だよ。どれも、他人ごとな気がして黙っていると、男は自分の瞳から涙が流れていることに気が付いた。妻は微笑んで、夫のその様子を眺めていたが、終ぞ、女は涙を流すことはなかった。
「子供が流れてもちっとも悲しくなかったのです。わたしはあなたの妻として失格なのでしょうか」
そう妻に言われて男は戸惑った。どちらかというと、人間として失格なような気がした。口には出さなくとも、男は人間として、繁殖能力のあるものは繁殖する義務があるとさえ思っていたから。
子供なんていなくても、きみがいてくれさえいればいい。そう言って抱きしめるべきだったのかもしれない。けれどあの時、男は女を不憫に思うどころか、「とんでもない女と結婚してしまったのかもしれない」ととり返しのつかない自身の過去の選択に対しての恐怖に襲われてさえいた。
雨が降ってきたのは、男が山道に入ってすぐのことだった。空は晴れているのに、ぽつぽつと雫が落ちてくる。どうやら、狐の嫁入りらしい。
あたりに人はいないようだった。車の音もしない。寂しいところだと思う。きっと百年後にはこの町は地図から消えるだろう。
「あなた」
そんなとき、不意に男に声を掛けるものがいた。女とも男ともとれない声で、男のすぐ後ろから聞こえた。振り返ると、女がいる。女は思いのほか遠くにいた。
男の口から漏れたのは、彼の妻の名前だった。じっと目を凝らすと、女は男の妻だったのだ。
「来てたのか」
「あなたに会いたくて」
「……何時の電車に乗ったんだ? 俺と同じものじゃないだろう」
「どうだったかしら?」女は小首を傾げて、微笑んだ。それから、ゆっくりと男に歩み寄って、手を握った。
「そんなことより、はやく行きましょうよ」
女はぼんやりとした様子で、男の横へ並んだ。奇妙な雰囲気だ。体調が悪いのだろうか。それとも、昨日のことをまだ怒っているのかもしれない。揶揄われている、そう男は思ったが、同時に恐ろしくも感じた。女は手には何も持たず、白色のワンピースを着ている。こんな服、持っていただろうか? と男は疑問に思う。しかし妻は衣装持ちであるから、覚えのない服もあるのかもしれない。
妻は男の左に並んで、彼の左手を握っていた。けれど、いつも妻は男と歩くときは右手側についた。
「わたしは左側から見た方がかわいく見えるんですよ」付き合う前、お互いが夫婦になるとは露とも思わなかった頃、ありしの女は男にそう教えた。それから、「この話、初めてひとにしました」と女が言ったので、男は心の中で、この女は誰にでもこの話をしているのだろうなと思ったりした。会社で出会った、受付の仕事をしているその女には、そういう、人たらしの雰囲気を漂わせていたのだ。
そういう理由で、今日の妻は、どこかおかしいと男は思った。けれど、隣の女は明らかに妻の形をしているし、声も同じだった。やはり揶揄われているのだろうか。もしくはもう、俺にかわいいなんて思われたくないだけなのかもしれない。
あたりはまだ雨が降っていたが、山道というのもあり、ふたりはあまり濡れていなかった。
「しかし随分掛かりましたねえ」妻は言った。なんのことだろう、と男は思う。男は、この道を妻と歩きながら、早く昨日のことを謝ってしまおうと思ったが、けれど左にいる女の横顔をみたらそんな気も失せた。不愉快だとか、怒りが再びよみがえったというよりは、なんだかこの女に男が謝罪するのは見当違いな感じがしたのだ。
「お母さまにききましたよ。あなた、小さい頃にこの山で迷ってしまったんですって。覚えています?」
「なんだ。母親はそんなことも喋っていたのか……。別に大したことじゃないよ。それにもう、よく覚えていない。気が付いたら家に帰れていたんだ」
「たいしたことない? そんなの嘘だわ。だって、三日もいなくなっていたんでしょう。七つの子供が。尋常ではありません。本当になにも覚えていないの?」
「本当になにも覚えていないよ」
これは本当ではなかった。実際のところ、男はそのことについて断片の記憶を持っている。けれどそのことを、決して誰にも話してはいけない、と祖母から言いつけられていたのだ。決して誰にも。誰にも? 誰ともわからないひとに? 「ああ、わたしのかわいい――。目の前にいる愛しいひとが、本当にそのひとであると誰がわかりましょうか」祖母の言葉が頭の中で、こだました。
覚えていることは三つだ。長い黒髪の女。握られた右手。それから、山をずっと上ったところにある、小さな祠――。
誘拐ではないか、と叔父が言っていた。少年は違うと言っていたけれど。昔はかわいらしく、今と変わらず聡明であった子供は三日も消えたあと、自分の家の前でこてりと眠っているところを家にいた彼の祖母に見つけられた。目を覚ました少年は「にげてきた」と一言の言ったあと、二週間も続いた高熱に魘されたらしい(このあたりのことは、男はもう覚えていなかった)。そんな奇妙な状況であったからだろうか。中には、少年がひっそりと家出をしたが、それも嫌になって帰ってきただけではないかというものもいた。けれど、祖母は違った。
祖母はずっとここで生まれ育ったひとだった。戦争とその後の混乱期に二人の兄と姉を早くに亡くし、一時期は家に代々継がれたこの広大な土地や財産をひとりで管理していた頃もあった。
祖母は熱に魘される少年を看病しながら、「――さんはかわいらしくていい子だから、山の神さまに気に入られたんでしょう」と、同じく看病をしていた少年の母の横で呟いたという。
男は不意に、自分が山道の真ん中で立ち止まっていることに気が付いた。繋がれていた手は離れ、女は男の前にたって微笑んでいる。
そういえば、少年の日の記憶に残った女の姿も、こんな姿をしていた気がする。けれど、まさか、と男はすぐに思い直した。妻と初めて出会ったのは、あの時から二十年もあとだ。あの日の祖母の発言だって、彼女の亡きあと、ただの酒の席の笑い話だ。
「目の前にいる愛しいひとが、本当にそのひとであると誰がわかりましょうか」まさかな、と男は思う。
「ねえ、あなた」
雨音は強くなる。けれど、二人は濡れていなかった。女は願うように、男の手を強く握った。女からは、露に濡れた葉の匂いがする。
「あの日のこと、許してくれますか?」
「……昨日の、ことは俺も……」
「いいの。あなたはすごく良いひと。わたし、本当にあなたを愛しているの。ずっと一緒にいたいと思っている。……そうよ、離れたくないの、本当よ」
「お前、急になにを言ってるんだ? 普段はそんなこと絶対に……」
「全部わたしが悪いのよ。あのとき離れたのは、あなたが困ると思ったから」
なんのことだろう、と言い知れぬ恐怖にかられた。女はまた、男の手を握りなおした。
「行きましょうよ。きっと上手くやれるわ。わたしたち。だって、全部わたしが悪いのよ。あなたを困らせて。でも、きっと生まれ変わってみせるから」
「俺は……」男は、握られた左手を見た。それから昨日のリビングを思い出す。手つかずのまま、机の上で冷めていく料理。しおれかけた花瓶の花。いやにつめたいフローリング。妻の座っていない、二人掛けのソファー。
「俺は…、きみにそんなこと言ってほしいんじゃない」絞り出すような声だった。けれど、街が異様もなく、これは本心だ。
彼の妻がどれだけ夫に対してドライで、胎児が死んでもなんとも思わないような冷淡な女だって、男は構わなかった。妻がどこかおかしくたって、男は構わない。いずれにせよ、結婚する前からわかっていた。
それでも男は女の左の薬指に契約を嵌めた。それを後悔したくないと願うのは、男がそれだけ妻を愛しているということだ。
「帰る」と男は呟いた。握られた手を振りほどいて、男は身体ごと振り返った。「どこへ」ときこえる。答えは決まっていた。男が希うのは、ただ、妻と住むあの家に帰りたいということだけだった。「帰る」男は母親に駄々をこねる子供のように繰り返した。愛してしまったのだからと、男は思った。愛してしまったのだから仕方ないだろう。そうして、後ろの女を置いて、彼は右足を踏み込んだ。
×
気が付くと雨音は消えていた。男は渇いたアスファルトを至近距離にみながら、いつから自分は座り込んでいたのだろうと疑問に思った。
「――お兄ちゃん!」
少女の声が聴こえて、男は顔を上げた。ドンという衝撃とともに、彼はほとんど引っ繰り返りそうになる。抱き着いてきたのは、男の従兄夫婦の娘だった。その子は、男とその妻にもとよりよくなついている子だった。
「あらあら」続いて、声が聴こえる。それは、男の妻の声だった。見上げた空は雲一つなく青い。こころなしか、先ほどよりもあたりが明るくなったような気がした。
「心配したーっ!」
わけもわからないまま、少女に引っ張られる形で男は立ち上がった。自分の胸のあたりもない少女は責めるように男を見上げて、ぽこぽこと男の身体を叩いた。
「山の方へと入ってたんですか?」妻は男のキャリーバッグをひいていて、それをみて初めて、男は初めてそれを自分が持っていないことに気が付いた。
「きみはどうしてここに…。それに、そのキャリーケース、どこで……」
「先に着いてたんですよ、それで暇だったのであなたを迎えに。キャリーケースは、この道の入り口のところで見つけました。呆けてるんですか? それともわたしへの嫌がらせ?」
「そんな嫌がらせするわけないだろ……」
妻がいうことには、二人は、男が乗ってくる電車の時間に合わせて家から駅の方へと向かっていたところ、山道の入り口で、男のキャリーケースを見つけたらしかった。どこで入れ違いになったのだろう? と二人は思ったらしい。当たり前だ。家からここまで、一本道なのだから。不思議に思った二人は、来た道を引き返してきたらしい。そうして、二人はここで男を見つけた。非常に奇妙なことだ。
「化かされたのかもしれない」と男が呟くと、妻は笑い、少女は少し脅えたようだった。
「連れてかれちゃったのかとおもった」と少女は言う。少女は、男の母親から、男が昔、この山で行方不明になったことを聞かされていたらしかった。
「この子、置いていかれてたキャリーケースを見つけたあと、ずっと山神様に連れてかれちゃったんだって脅えてたんですよ。反省してください」
「それはまあ、俺にもよくわからないが……」
「しっかりしてください。そんな狐に化かされたような顔して。揶揄ってるんですか?」
「そんなこと……」
「……まあ、なんでもいいんですけど。それより、行きましょうよ。みんなあなたが来るのを待ってるんですから。それにいつまでも嫁一人じゃ、わたしも心細いです」
「そもそも、きみはなんでここにいるんだ……?」
「そんなの、あなたがここにいるからに決まってるじゃないですか」
妻はジトりとした目で男をみて、そしていつものように食えないような笑顔を作った。
男は今すぐ昨日のことを、いや、それだけではなく、今までの全てを謝りたい衝動に駆られた。「ごめん」「許してくれ」「愛している」そんな言葉が頭の中を過った。
「帰ってきてくれて、ありがとう……」
けれど、出てきたのはそんな言葉だった。
男の言葉に、妻は「あなたは、わたしがいないとだめですもんね」と返す。それはお互い様だろう、と流れるようにキャリーケースを持たされた男が思っていると、少女は「お迎えありがとうじゃないの」と純粋な声で二人に尋ねた。
いとしいひと、冬 ニシカユーマ @masdwrre
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