宙の器(そらのうつわ)

@captaindorry

プロローグ「僕たちの空き地」

 蝉の声が一面に降り注ぎ、地面からは蒸し返すような熱気が立ち上っていた。

アスファルトの上で靴底がじわりと溶けそうな気がする。

でも、そんな暑さも気にならないくらい、この日常は当たり前で、いつまでも続くように思えた。


この日が、特別だったわけじゃない。

何の変哲もない、中学時代の、夏のある日の風景。

それでも、僕の記憶の中では、他のどの日よりも鮮明に焼きついている。


僕――セイ・アラトと、シラト・カイ、ミオ・ナギサの三人は、学校裏の“秘密基地”にいた。

放課後、教室から逃げるようにして裏庭へ回り、朽ちた倉庫の脇にある金網フェンスの一角。

そのほんの少しめくれた隙間を抜けた先に、小さな空き地があった。

そこは、誰も来ない草むらと、使われなくなったジャングルジムの残骸があるだけの場所だった。

誰の目にもとまらない、ただの廃墟。

けれど、僕たちにとっては、他のどんな場所よりも自由で、安心できる居場所だった。


「おっそーい! 遅刻だぞ、アラト」


先に来ていたカイが、寝転んだまま空を見上げて言った。


「……この、ただだらだらする集まりに、遅刻とかある?」


「あるに決まっている。すでに儀式ははじまっているのだよ」

「儀式?」

「そう。正式名称“日々の英気を養う静養の儀”。略して“Daily Recovery Ceremony”だ」

「勝手に格式上げんなよ」

「アラトくん、この空き地は我らの聖域なのですよ」

「宗教かよ」


くだらない言い合い。だけど、そういうのがたまらなく心地よかった。


「うぇ、ぬるい……」


カイがラムネの瓶を口にして、しかめ面をした。


「冷やしてきたつもりだったのに、これもうただの炭酸ぬるま湯だわ」

「だったら飲まなきゃいいじゃん」

「いや、もうここまで来たら意地だろ。男の意地。」


僕は笑いながら荷物を置き、空き地の中央に視線を移した。

そこでは、ナギサが黙々と小石を積んでいた。

静かに、慎重に、まるで儀式のように。

風が吹くたびに、積み上げた石はかたんと崩れて、それでも彼女は、またひとつ拾って、重ねていく。


「おっ、今日も教祖様は熱心に儀式中だな。どうせすぐ崩れるのに」


カイが寝転んだまま言った。


「うん。崩れるのは最初からわかってる」


ナギサは目を動かさずに答えた。


「じゃあなんでやるんだよ」

「なんとなく、やりたくなるから」

「意味わかんねーな」

「意味なんて、最初からないよ」


そう言って、ナギサはふっと笑った。

その笑顔には、どこか少しだけ、寂しさが混じっていたような気がする。

でも僕は、その違和感を言葉にすることもできず、ただ見つめるだけだった。


「ねぇ、アラト」

「ん?」

「この場所……ちゃんと覚えてて。忘れちゃダメだよ」

「どうして?」


ナギサは、小石の塔を一度見てから、僕の方へと視線を戻した。


「この場所だって、いつかなくなると思うから。だったらせめて、記憶の中にだけでも残しておきたいじゃない」


僕は何か言いかけて、うまく言葉が出てこなかった。

代わりにカイが起き上がり、ジャングルジムの方を見ながら言った。


「ばーちゃんが言ってた。この空き地、昔は公園だったんだって」

「え、ほんとに?」

「滑り台もブランコもあったらしい。ガキが集まって鬼ごっことかやってたってさ」

「信じらんないな……今じゃ草しかないのに」

「だろ? でも、なんかさ。オレらもこうやっていつか忘れちまうのかな」


カイは少し笑ってから、続けた。


「もし全部変わっちまったとしても、せめてさ、この空き地だけは変わんないでほしいよな」


そのとき、誰も返事をしなかった。

でも僕は心の中でそっと思った。


(……ナギサも、言ってたろ?)

(この場所だって、きっといつかなくなる。だから、せめて記憶の中にでも残しておきたいって)


僕は、忘れたくなかった。

この空き地も、ふたりの笑顔も、ラムネのぬるさも、くだらないやりとりも。

全部が、かけがえのない記憶だった。


やがて夕暮れが近づき、空は朱に染まっていった。

背を向けるとき、僕は最後に振り返った。

ナギサが積み上げていた小石は、いつの間にか崩れていた。

風が吹いて、草が揺れていた。

それでも、彼女はまた一つ、石を拾っていた。


「また明日。」


ナギサがそう言ったときの声だけが、妙に耳に残った。



新たな学びの季節が始まった。


三人それぞれが、別々の制服に袖を通し、少しずつ違う世界を歩きはじめた。


ナギサと僕は、近隣ブロックにある基幹校。


そして、シラト・カイは、都市部の育成機関に進むことが決まっていた。

それは彼の家庭環境と成績からすれば、ごく自然な進路だったのかもしれない。


「オレ、将来なんかすげーやつになる予定だからさ。そっちでも名前ぐらい聞くかもよ?」


そんな軽口とは裏腹に、彼の背中には、ほんの少しの不安が滲んでいたように思う。

僕はうなずいた。「ああ、待ってる」って。


それが、最後だった。


新学期が始まり、週が変わっても、カイからの連絡はなかった。

メッセージは既読にならず、通話も繋がらない。

もともと飄々とした性格だったから、気まぐれでしばらく距離を置いているのかもしれない。

そんなふうに思おうとしたけど、日が経つにつれて、言いようのない不安がじわじわと胸に染みてきた。


我慢できず、僕はシラト家の家まで足を運んだ。


けれど、玄関は閉ざされていた。

チャイムを押しても、ノックをしても、返事はなかった。

窓にはカーテンが引かれ、ポストには数日分のチラシがたまっていた。


まるで、最初から誰も住んでいなかったかのように。

不気味なくらい、静かだった。


おかしい、と思った。

何も言わずに引っ越すような家庭じゃなかった。

カイのことだって、何も知らせずにいなくなるようなやつじゃない。


僕は迷った末、カイが通っていた育成校まで行ってみることにした。


受付で名前を告げると、対応に出た職員は一瞬だけ表情を固くした。


「シラト・カイくんは……すでに転校されています」


それだけだった。


行き先や理由を尋ねても、「個人情報に関わることはお答えできません」の一点張りだった。

丁寧な言葉の奥に、なにか触れてはいけないものの存在を感じた。


玄関の前の静けさと、学校の淡々とした対応。

そして、「転校」という一言。


全部が、どこかちぐはぐだった。

自然なことのようで、どこか不自然な空気を纏っていた。


どうして何も言ってくれなかったのか。

僕にだけでも、一言くらいあってもよかったんじゃないか。


そう思う反面、

「きっと何か事情があったんだろう」

という言葉で、自分の感情にフタをしてしまう自分もいた。


それでも、喉の奥に小骨が引っかかったような、

どうしても消えない違和感だけが、静かに残った。


僕は思い出す。

あの夏の日、カイが言っていた言葉を。


「……もし全部変わっちまったとしても、せめてさ、あの空き地だけは変わんないでほしいよな」


あいつの言葉も、笑い声も、ぬるいラムネの味も。

全部、僕の中にちゃんと残っている。


あの空き地だけは――絶対に、忘れない。

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