或る青年
久邇薫彦
或る青年
三等車の煙い車内で物憂げにトランクを抱きしめている青年が居た。綺麗な
「すみません、少し、良いかね」
緊張しいなのも
「はぁ、どうぞ」
青年はスッカリ魂が抜けた様な、生気の無い声で応えた。雪化粧が施された車窓の景色に顔を向けつつ、ちらりと容貌を流し見る。これは上等だと思った。大層小市民的な身なりだが、顔は厳かで気品があり、謙虚な華族のようだった。太宰治の『斜陽』の、母親の様な、
「何処へ行くんだい?」
「新潟のほうへ」
「えぇっ、新潟。随分遠いね」
「はぁ。そうですね」
頓挫してしまった。彼は此方を不審に思っている素振りは無く、ただ無気力になっていて、応えるのが億劫だという風だった。
「いやはや、今ごろ新潟なんて寒いんじゃアないのかね」
「死ににいくので、かまいません」
ハッキリと口にした。あんまりにも当たり前の様に話すので、此方までおかしくなった。
「え?…じ、入水かい」
近頃起こった太宰治の心中騒ぎが頭によぎった。
「え、入水心中です」
これ以上口を出すなという様な強い口調であった。今までは未亡人みたいな悲哀の憂鬱を纏っていたのが、途端に学生らしい無秩序な自信の雰囲気に変わった。もう口を出すのは止そうと思った。これ程深刻だとは思わなかった。
「ハハ、邪魔したね…」
席を外そうと立ち上がった途端、強く車内が揺れ、青年が大事にしていたトランクが、宙に放られた。ゴカンと音がして、床に落ちた。
「ア」
明らかに重みがあるそのトランクの音を隠す様に、青年が単調な言葉を口にした。微かに鼻を掠めた強烈な腐敗臭。
「御免なさい、僕の大事な…」
再び大事に抱きしめるその姿と、落ちた時の鈍く大きな音に寒気を覚えて、逃げる様に其処を離れた。
後日談
あの奇妙な出来事から数日後。私は創作意欲が湧くでもなし、恐怖に慄くでもなしに、あの体験を作品の
新聞を読んでいたら、大御所作家Kが筆跡の違う遺書一つ残して行方不明だという話が載っていた。たった一人の門弟も同時にいなくなっているという話だ。カストリ雑誌などを見ていると、下世話な勘繰りも高まっているようで、遂には作家Kが男色家で門弟と情死しただの、作家Kがたらしだったので門弟諸共細君に殺されただのと胡乱な考察がなされていた。
私の頭に思い浮かぶのは、熱っぽい目でトランクを見つめていた或る青年の姿だけであった。
私は、筆を折った。
或る青年 久邇薫彦 @KuniYukihiko127
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