お揃いの肉じゃが
前田アタリ
お揃いの肉じゃが
「作りすぎてしまったので、良かったらどうぞ」
と言って、女は肉じゃがの詰められたタッパーを差し出した。
俺は最初、その女性の正体が分からず戸惑っていた。しばし時間を要して、思い出す。彼女は、先日隣の部屋に引っ越してきた入居者だ、と。
引越しの挨拶に、菓子をもらったはずだ。
名前は『――――』。
十代後半、物腰柔らかで、可愛らしい人だった。特段容姿が整っているわけではない。穏やかな声音、花のような笑顔、醸し出される清楚さから、そう感じられた。
俺は、タッパーを受け取る。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
手を軽く振って、女は去っていった。去っていったと言っても、すぐ隣の部屋に帰っただけだが。
俺は部屋に戻り、扉を閉じた。リビングのテーブルに、もらった肉じゃがを置いて、数刻の間、物思いにふける。
臆病風が吹いたのだ。否、これは生命全てが持つ防御反応であるため、決してビビリなのではない。
この『肉じゃが』、大丈夫か?
と、思ったのである。
本当にあった怖い話とかで、あった気がする。肉じゃがの中に、髪の毛やら爪を入れる。もしくは、人肉を使用している、など。後者は流石にないと思うが、前者は大いにありうる。異常な愛情表現を持つ人間は案外と多くいるもの。
なので、俺は肉じゃがを引っかき回し、異物混入されていないかと、調べ尽くした。
結果、何もなかった。
流石に気にしすぎだったかと、俺は肉じゃがを食べ始める。
ジャガイモにはよく味が染み込んでいて、肉は柔く、口の中でほぐれた。
完食した。美味い。
元から肉じゃがは嫌いではなかったので、貰った時も素直に嬉しかった。
また作りすぎてしまわないかな、――――さん。
この一週間後、またもお裾分けが来る。
「また作りすぎてしまったので、良かったらどうぞ」
「…………はい」
正直なところ、俺は少し警戒した。
一週間後に、再び作りすぎてしまうということは、あるのだろうか。不自然ではないか。それとも、俺が怖がりすぎなのか。
「あの、もしかして罅理さんって、映画とかお好きなんですか?」
どくん、心臓が跳ね上がったのを感じる。
なんでそれを、知っている。
「いつも、聞こえてくるので」
聞こえてくるので。俺はその言葉の意味をすぐ理解した。マンションにはよくある、お隣さんの生活音というやつだ。お隣さんが帰ってきた時は扉の音で察知できるし、足音だって聞こえてくる。
なんだ、映画の音が漏れてしまっただけか。
「すみません。これからは少し音量下げますね」
「ああ、いえ、本当にうっすらなので、大丈夫です。それに、私も映画が大好きなんですよ」
少し意外だった。
話してみると、二人の映画の趣味は驚くほどに共通している。好きなジャンルが同じで、好きな監督が同じで、一番好きな映画が同じ。
本当に、驚いた。
俺はなかなか出会えない同志を手にいれ、気を良くする。またお話をしましょうね、と去り際に言った――――さんは、とても嬉しそうだった。
俺は肉じゃがを食べて、映画を見る。
この三日後、またもお裾分けが来た。
「またまた作りすぎてしまったので、良かったらどうぞ」
「…………」
絶句した。
流石におかしい。
あれから三日しか経っていない。毎日三食肉じゃがを食べていない限り、あり得ない。それに、なぜ毎回俺に渡すんだ。他の入居者じゃあダメなのか。
「どうしたんです? 罅理さん」
「いや、だって、…………えっと」
さも当たり前と言うように、肉じゃがを差し出してくる。まるで、俺が異常みたいな。はたまた、俺以外の全てが変わったような、妙な恐怖。
俺は結局、肉じゃがを断ることはできなかった。
断れば、関係が壊れるような気がしたから。
「あ、罅理さんが勧めてくれた映画、すっごく面白かったですよ!」
と、言い残して、彼女はいつものように、隣へ帰っていった。
扉が音を立てて閉じる。俺はすぐには部屋へ戻れず、廊下で立ち尽くす。タッパーに入れられた肉じゃがを、異物に向けるような目で、見てしまう。
どんなに探しても、肉じゃがの中に怪しいものはない。
だが、すぐに食べる気にはならず、冷蔵庫へしまった。
翌日、彼女と肉じゃがが、来た。
「作りすぎてしまったので、良かったら――――」
「おかしいですよね」
彼女の言葉を遮って、俺は言う。
言わなければいけない。二日連続は、どう考えても異質だ。
何度も肉じゃがをお裾分けにくる。ただそれだけのことと思うかもしれない。俺がビビりなだけかもしれない。だが、俺の本能が告げている。
眼前の女は、何かヤバイ。
「昨日の今日は、ありえませんよ」
「…………肉じゃが、お嫌いでしたか?」
上目遣いで問いかける。
不思議と、声が弾んでいるような気がした。気のせいであることを願いたかった。
「そうじゃなくて、こんなに何度も頻繁に持ってくるのは、おかしいと――――」
「おかしい? でも、罅理さんにはなんのデメリットもありません。食べたい時に食べればいい。腐らせても、食べなければいい。冷蔵庫に入りきらなければ、捨ててしまえばいい。お金も何もかかっていないんですよ、それにとても美味しいはずです。それでも嫌だと言うのなら、それってやっぱり、肉じゃががお嫌いということでは――――」
「もう持ってこないでくれ!」
叫んで、俺は扉を勢い良く閉じた。鍵もかけた。
心臓の鼓動が加速する。息が浅く、早くなる。酸欠の脳で、俺は考えた。結論は出た。
理解できない。
あれは関わってはいけない種の人間だ。
俺の生存本能がアラームを鳴らしている。
引っ越そう。逃げ出そう。立ち向かうだけ無駄なタイプだ。
「それじゃあ、ここに入れておきますね。良かったら食べてください」
声がした。今までにない程明るい声に、肩をびくりと震わせる。
ぐちゃ、べちゃ。
水分を含む何かが、潰れる音。
なんの音だと、俺は振り返る。音のする方へと、視線を下げた。
ドアポスト。
その内側から、音がする。
蓋を開け、中身を露わにした。
「ひぃっ!」
思わず仰け反った。
ドアポストの中にあったのは、肉じゃがだ。タッパーにすら入っていない、剥き出しの肉じゃが。全身が小刻みに震える。俺は、ある映画のワンシーンを思い浮かべていた。何かのホラー映画で、ドアポストの中に、髪の毛や、爪、血液なんかが放り込まれていたシーンがあった。
あれは、恐ろしいものが入っていたから、恐ろしかった。
だが、今の、この状況は違う。
理解できない、だから恐ろしい。だから、悍ましい。
もう、扉の奥に気配はなかった。
しかし、まさか外に出る気にはならなかった。本当は逃げだしたい。すぐ隣の部屋にあんなものがいるという事実がたまらなく怖い。それでも、扉を開く度胸は、俺にはなかった。
心が、俺に逃げ場を失わせていた。
ベットの中に潜り込む。震えた体をシーツに包ませ、無理矢理にでも意識を沈ませようと試みた。
幼かった頃、お化けを見たことを思い出した。でも、あの時のアレよりも、すぐ隣の部屋にいる人間の方が、ずっとずっと、怖かった。
次の日の、早朝…………
匂いがする。
音がする。
目が覚めた。
いつの間にか、眠っていたらしい。
懐かしいような匂いと、小刻みなリズムに、起こされた。
ベットから出て、リビングに入る。
リビングのテーブルには、夥しいほどの、皿に盛られた『肉じゃが』が。
「うぁ?」
「あ、起きたんですね、罅理さん」
キッチンに、――――さんがいた。
キッチンで、肉じゃがを作っていた。
もうテーブルの上には乗らないだろうに、大量の肉じゃがを作っていた。
「作りすぎてしまったので、良かったらどうぞ」
と、言った。
寝ぼけていた脳みそが、真に覚醒する。
喉の奥から、叫び声が溢れ出た。
「う、うぁあああ―――――――ッ⁉︎ なんで! なんでぇっ⁉︎」
「あ、もしかして、肉じゃが、お嫌いでした?」
喜びに顔を歪めて、彼女は尋ねた。
なんで、俺の部屋にいるんだ。鍵だってかけたのに。
「なんなんだよお前はッ⁉︎」
「やだなあ。名前を忘れちゃったんですか?」
「そうじゃない! なんでこんなことをするのかと聞いているんだ‼︎」
「嫌いにさせるためです」
数瞬、沈黙が落ちた。
世界から音がなくなったのかと錯覚するほどに、静寂は続いた。
「はぁ?」
間抜けた音が、口から漏れる。
構わず肉じゃがを作り続ける女は、背を向けながら、話し始める。
「好きなものを食べすぎて、逆に嫌いになっちゃうって話、聞いたことありません?」
女は平然と尋ねた。
当然、俺は答えない。
「聞いたことありませんか。まあ、そういうことがこの世にはあるんです。私は、罅理さんに肉じゃがを嫌いになってもらうため、こんなことをしています」
「…………」
ズレている。
俺の聞きたいことは、そうではなく、根本的な部分だ。
「なんで、こんなことをするんだ」
再び、俺は聞いた。
女は、はにかみながら、語り出した。
「私、実は前に罅理さんと会っているんです。入居してくるずっと前に。映画館で、『君の名は』を見ていた時、隣の席には、あなたがいたんです。あなたは、映画を見ながらうるんでいましたね。その時から、あなたのことを調べていました。好きなものを、嫌いなものを。そしたら、驚くべきことが判明しちゃいました。なんと、あなたの好き嫌いは、私と全く同じだったことに!」
歌うように、こっちの気も知らないで、語り続ける。
「運命だと、思いました」
気づくと、女は感動に喉を震わせていた。
「あなたと私は、結ばれる運命なのだと。…………ですが、忌まわしきことに、たった一つ、相違点がありました。それが、肉じゃがです」
振り向いて、テーブルの上の大量の肉じゃがを、指差す。
「私は肉じゃがが嫌いでした。変に甘いし、じゃがいもの味が溶け出しているのも嫌でした。なのに、あなたは私の気持ちも理解せずに、肉じゃがを平気のへいさで食べていました。ショックでした。悲しかったです。そこさえ同じであれば、完全だったのに。だから、私と同じになってもらうため、たくさん食べさせて、あなたに肉じゃがを嫌いになってもらおう、という計画です!」
言い切った。誇らしげに、胸を張って。
ああ、不思議だ、聞いていたのに、日本語なのに、何も理解できない。
だが、それでも、理解できずとも、納得に似た何かはできた。この女がイカれているのは十分に分かった。正体不明よりはずっと良かった。
そう思うと、腹の奥底から、妙な熱を感じる。
怒りだ。こんな頭のおかしい女に、俺は怯えて、震えて、みっともなく頭を悩ませていたのか。折角の大学新生活だって言うのに。結構好きになっていたのに。
ドアポストに変なもの入れやがって、片付けとかを考えろ。
だから俺は、叫んだ。精一杯、目の前の女を傷つけようと。
「俺は! お前のことなんか大嫌いだ‼︎」
再び、静寂が部屋に満ちた。
張り詰めた糸のような空気が、妙な緊張状態を生んでいる。
ぽたり、と雫が垂れる。それは、彼女の、瞳から流れていた。
「…………嬉しい」
引き攣った俺の顔が、どうしても戻せない。
女がまた、正体不明に戻った。
狂信者めいた、歓喜の表情。
「私は、私のことが大嫌いです。だから、そんな私を、私と同じように、一緒に、共に嫌ってくれるなんて! やっぱり、罅理さんは私の運命の人です」
感動に打ち震えながら、喜びを噛み締めながら、女はこちらに歩み寄る。
この女、無敵だ。
なにがなんでも、お揃いが好きらしい。
一歩、二歩と、二人の距離は縮まる。
窓から差し込む朝日が、まるで祝福しているかのようだった。
刹那、俺は問う。
「『君の名は』と『天気の子』、お前はどっちの方が好きだ?」
「…………『君の名は』です」
「そうか、俺は『天気の子』の方が好きだぜ」
ぴくり、女の歩みが止まる。
あと一歩という寸前で、停止した。
予想した通りだった。これが一番、この女の琴線に触れる。
ぐりん、と黒目が瞳を一周した。
「萎える」
とだけ言って、彼女は部屋を出て行った。
部屋に残されたのは、俺と、大量の肉じゃがだけ。
この肉じゃがをどう処理すべきかと頭を悩ませたのは、もはや言うまでもない。
その後、あの女がお裾分けに来たことは、一度としてない。
…………俺は今でも、名前を忘れた今でも、肉じゃがを見るたびにあいつを思い出す。
あいつは、今もどこかで、誰かを好きになって、好き嫌いを完璧に揃えようとして、失敗し、違いを見つけては萎え、また同じことを繰り返し続けるであろう。
一つの違いであれば矯正できるが、二つも三つもあるとなっては、あの女も諦める。
いや、重要なのは数ではないのかもしれない。
俺は『天気の子』の方が、確かに好きだった。だが、『君の名は』もまた。好きだ。だがあいつは逆だった。それさえも『お揃い』にするのは、好きなものを嫌いにする以上に、嫌いなものを好きにする以上に、途方もなく困難だ。それは、もはや不可能に近い。
あいつにはいつまでも、運命の人はやってこない。
好き嫌いが――――そしてその度合いが――――完璧にお揃いの相手など、この世に存在しないのだから。
お揃いの肉じゃが 前田アタリ @aright2
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