月の光はかがやいた

野々宮 可憐

月の光はかがやいた

 一年に一度しかない十五夜だというのに、夜空をどんなに見上げても月が見えない。私と同じ、雲隠れしているらしい。今頃、みんな大騒ぎだろうか。家族も、ピアノの先生も。


ㅤでもちょっとだけ、魔が差したのだ。終わらない練習に、金賞を、上を目指し続けることに嫌気がさしてしまったのだ。罪悪感が少しある気がするけど、それよりもざまぁみろという気持ちがいっぱいで、なんだか口角が上がってしまう。


 独り、紺色のスクールバッグを揺らしながら、ぽつぽつと街灯が照らす道を歩く。今日が月を見る日でなければ、私は空に煌々と輝く存在が浮いていないことに気が付かなかったかもしれない。だって月なんか無くたって、現代の夜道は明るいのだ。昔の人や風流を愛す人々にこんなこと言ったら怒られそうだけど、私にとって月なんてそれくらいのもの。──むしろ嫌いだ。


 行く宛もないままとぼとぼ歩く。帰り道と呼ばれる場所からどれ程の距離ができただろうか。知らない駅で途中下車したので、ここがどこかすらわからない。山ほどの道草を食っている。でも今更後には引けない。


 そんな時だった。


ㅤ人工の光が敵わない程の明るい何かを見つけたのは。かなりそれと距離があるはずなのに、目が潰れそうなほど眩い。マグネシウムを燃やしたような時と同じ感覚。


 目を細めながら近づいてみる。それはアスファルトの上に蹲るように在って、どうやら人の形をしているらしかった。光は少しずつ収束していき、ようやく見えたのは、全身にLEDライトでも貼っつけた変態のような人がいるんじゃないかという私の馬鹿な考えを殴り飛ばすような美人だった。


 長い長い漆器のような艶のある黒髪、小さな顔に陶器のような滑らかで白い肌があり、紅々とした唇がちょこんと乗っかっている。黒を宿したその双眼は、宙空を見つめていた。私と同じくらいか少し上くらいの年齢だろうか。光が満ちて、清らかで、とにかく美しい人だった。和風美人とは彼女のことをいうのだろう。


 ただ、おかしな点がいくつか、いや、沢山ある。まずは格好。彼女が着ているのは洋服じゃない。和服だ。しかも十二単的な。少し冷える秋の夜とはいえ、そこまでの厚着はしないだろう。いや、違う違うそこじゃない。現代において、その格好をする機会なんてコスプレか大河ドラマの撮影くらいのものだろう。でもここにカメラマンらしき人はいない。ならば、なぜこの人はこの格好でコンクリートに座っているのか。

 

 こんなことなら全身にLEDライトを貼り付けた変態の方がまだ理解できたかもしれない。いやお目にかかりたくないけど。


 私が細めた目で見惚れているのに気がついたのか、彼女はゆらりとこちらを向いた。月のような丸い瞳に私が映る。彼女は言った。


「此処はいづこなりや?」


「え?」


 今この和服美人が口にしたのは、古典の授業で習った古文ではないか……? まさかとは思うけれど、平安時代辺りからタイムリープしてきた人とか……。いやいやまさか、そんなはず。そして和服美人との間にしばしの沈黙が訪れた。何か思案しているようだ。


「──わ、私の言葉はわかります、か?」


 和服美人がふいに澄んだ声色で訊いてきた。とても綺麗な現代語である。さっきのはなんだったのか。


「わ、かります」


 たどたどしく応えると、和服美人はほっと胸に手を当てて、可憐にふわりと微笑んで見せた。気づけば彼女が発する光が随分弱くなっていて、ようやく目を細めずに見ることができている。彼女は白い手を私に伸ばした。


「困っていたのです。どうか、助けてくださいませんか?」


 何か、変なことに巻き込まれるんじゃないか。そんな考えは勿論あった。でも、気づいた時には手を差し伸べていた。何が私をそうさせたのか、わからない。手を取った彼女は立ち上がる。上等な物であろう綺麗な着物がゴツゴツとしたアスファルトに擦れるのが気にかかった。


「困っていたって……私にできることがあるなら、お手伝いしますけれど……」


 私は問う。彼女は少しのイタズラをするような乙女の顔をした。


「なに、無理難題ではありません。ちょっと人探しを手伝っていただきたいのです」


「人探し?」


「私の両親と、……友達を。きっと、いるはずですから」


 それは結構な無理難題じゃないのだろうか。なにせ見ず知らずの人の親と友達を探した経験なんてないし、この和服美人は恐らくただの人ではない。それでも、引き受けてしまったからにはもう少し話を聞くべきだろう。


「と、とりあえず。移動しませんか? その格好も、どうにかしたいですし……」 


「あぁ、そういえばそうですね。しかし、私は替えの服を持っていません。よろしければ、なにかお借りできませんか?」


「ちょっと待ってくださいね……」


 私はスクールバッグの中を漁った。着せられるような服と履かせられるような靴を探す。体育着と上履きがあったはずだ。芋ジャージだけど、他に服なんて持っていないし仕方がない。


「これでよければ」


 私はスクールバッグと同じ色のとりあえずの服と上履きを差し出した。『神月奏乃』と記名してあるそれを。


 和服美人はそれを受け取って、即座に服を脱ぎ出そうとした。


「待って待って! ここはダメ!」


 とぼけたような表情をする彼女の細い腕を引いて、慌てて近くの公園の公衆トイレへ連れていった。夜の公園に女性が2人。危険性を知らなかった訳では無いけど、ここ以外に着替えられるような場所なんてないし、その辺をウロウロする訳にもいかない。彼女がいくつかは分からないけど、女子高校生である私が今警察に見つかったら補導案件だ。家に連れ戻されるなんて絶対に嫌だ。


 彼女の身に危険が及ばないよう、トイレ前をきょろきょろ見張っていた。しばらくして、ガチャ、と扉を開く音が聴こえ、振り返った。


 そこにいたのは、馬子にも衣装ならぬ馬子の衣装を着た美人だった。下ろした髪が不衛生な床につきそうだったので、私の髪を束ねていたゴムを取って彼女の髪を括ってやった。どうせピアノを弾く際に邪魔にならないようにしていたゴムだ。今この場では必要ない。


「これ、ありがとうございます。そして、この服どうしましょう……」


 どっちゃりと和服美人が抱えているのは先程まで彼女が着ていた十二単? だった。分かってはいたけれど、かなりの量がある。十キロあるとかなんとか教科書に記載されていたような気がする。


「全部は持っていけないかな……。置いていくことって、できませんか? 私のバッグに入れられる分ならいれますけど……」 


「そうですか? ではこれとこれだけあればいいです。あとは、とりあえずここに置いていきましょう」


 ぱっぱと選んで、なんの躊躇いもなく公衆トイレの便器の上に残りの着物を置いた。かなり高価な物に見えるので、個人的にはとても惜しいけれど持ち主の彼女が言うなら置いていく他は無い。


 チカチカ灯るトイレの電灯に蛾やら小虫が群がっている。それがなんだか嫌で、彼女と共に逃げるように公園を出た。



 さて、ずっと気になっていたのに聞きそびれていたこと。彼女の名前だった。私の捜索範囲から出るために駅に向かう途中で色々と訊くことにした。ほとんど来たことが無い道であるので、すこし不気味なヒヤリとした雰囲気が漂っているような気がする。


ㅤだからどうやっているのかは不明だが、隣を歩き、少しほの明るく発光している彼女の存在が有難かった。


「まず、あなたの名前を教えていただけますか?私の名前は神月かみつき奏乃かの。第一学園の高一です」


「神月殿。色々とありがとうございます。それで、私と名前ですよね……。それは、日本で名付けられた方ですか?」


 とても変な質問だ。それ以外に何があるというのか。 どこからどう見ても彼女は日本人なのに。


「日本で名付けられたのなら……。御室戸斎部みむろどいんべの秋田様がつけて下さった『かぐや姫』という名があります」


「は?」


 しまった。うっかり声が出てしまった。しかし今彼女はなんて言った? かぐや姫? 


「そ、れは、あなたは竹取物語のかぐや姫ということですか?」


 自分で言ってて馬鹿馬鹿しい質問だと思う。それでも彼女は一切の白々しい表情を見せず、それが真実だと言わんばかりに隣を歩き続けた。


「竹取物語が何かは存じ上げませんが、神月殿は私のことをご存知なのですか?」 


「あなたがもし私の知っている物語の主役ならば、日本で一番有名と言っても過言じゃないかも知れません。日本最古の物語だし……」


 こう言うと、彼女は驚いたような、困ったような顔をした。恐らく私は彼女の三倍はそんな顔をしているだろう。どうしよう。理解が追いつかない。


ㅤとぼとぼ2人で歩いていると、遠くに無人の駅が見えた。終電はきっとまだ先だ。どこか遠いところに行きたい。行ってしまおう。


「神月殿、何処へ行かれるのですか?」


「どこ、ですか……。目的地は決めてなくて、まぁ、遠くに逃げようかなって。とりあえずついてきてください。話は電車の中で……って、お金って持っています……?」


「でんしゃ……? お金ならあります。これで足りますか?」


 そう言って彼女がポケットから取り出したのは、何かが包んである布だった。それを受け取って、掌の上でゆっくりと開いていく。そこにあったのは、光り輝く小判達だった。ひゅっと喉から細く空気が逃げる音が聞こえる。


「これ、純金ですか!?」


「月で使われている通貨です。足りませんか?」


ㅤ私は首を横に振りながら、急いでその包みを再び彼女の手に戻した。


「わかりました。私が払うので、その小判達は金輪際出さないでください。お願いします」


 月の通貨とは言うが、どこからどう見ても金にしか見えない。この現代社会で純金を持ち歩くなんて、どんなトラブルの種になるかなんて想像がつかない。


ㅤかぐや姫は納得がいってないようではあるが、渋々とそれをポケットの中に入れた。この調子で大丈夫だろうか、先が思いやられる。


ㅤ私は一つため息をついて、終点までの切符を二枚買った。



 ガタゴト電車揺れる電車に、私達は揺らされる。もう帰宅ラッシュは過ぎたようで、伽藍がらんとしていた。寂しいかと思えばそうではなく、むしろ私達を見つける存在がいないので心地が良かった。隣に座るかぐや姫は落ち着かない様子で、誰もいない車内を見渡している。籠に乗っていたような人が急に人類の叡智の結晶に乗車しているのだから、それは当然のことだろう。かぐや姫の反応が微笑ましくて、私が開発した訳でもないのになんだか誇らしくなった。


 終点までかなり時間があるらしい。挙動不審のかぐや姫から色々聞き出すことにした。


「え、っと、かぐや姫……さん?ㅤは、どこから来たんですか?」


「え?ㅤさん……?」


ㅤかぐや姫はきょとりととぼけた顔をした。さん付けに違和感を抱いているらしい。もしや……。


「じゃ、なくて、かぐや姫〝様〟はどこからいらっしゃったのですか?」


ㅤ言い直すと、傾けた首を元に戻し、思い出したかのように口を開いた。そうか、月では身分が高かったから、馴れ馴れしいのは慣れていないのか。


「月の都から参りました。もう幾年も前のことですが、私は竹から生まれ、私を見つけた両親に育てられました。それから少しばかり経った頃、己が月の都の者だと知り、月から迎えが来て私は都に連れ戻されました。天の羽衣という、着ればたちまち何も考えられなくなる厄介な物を着せられてしまったのです」


 淡々と語っていくかぐや姫の過去は、物語そのまんまだった。到底信じられないけれど、今までの行動や様子からそれが本当なのだと実感してしまう。かぐや姫はぶらぶら振動するつり革を眺めながら続けた。


「ずっと、月の都であらゆることに忙殺され、儀式などの面倒事を押し付けられていました。そんなつまらない日々に嫌気が差していたつい昨日、天の羽衣を杵に引っ掛けてしまったのようなのです。その時、使いの者や従者の兎は今日の十五夜に向けての準備で忙しかったので、誰にも気付かれずに両親達のことを思い出すことができました。だから、私は再びこの地に舞い降りてきたのです。きっと今、月の都では私が居ないことが知れ渡って祭りどころではなくなっているでしょう」


 可笑しそうに、くすくす笑っている。月明かりのない道を独り歩いていたさっきの私のように。もしかして今日の夜空に月が見えないのは、この月のお姫様のせいなのかもしれない。そして、私と同じだ。重大度は明らかにかぐや姫の方が高いが、私もかぐや姫も嫌なことから逃げ出して、雲隠れしている。少し親近感が湧いて、胸のそこか熱くなったのを感じた。


「じゃあ、次の質問。かぐや姫様が急に現代語を喋られるようになったのはなぜ?」


 彼女は少し考え、口を開いて上品で滑らかに現代語を話す。


「最近は、月にあらゆる方々が来ます。そこで学んだといいますか。以前の話し方では伝わらなかったので、新しく覚えてみた昔の使っていたものに比較的近い言葉を使ってみています」


 おかしな箇所はありますか? と首を傾げるかぐや姫に、私は首を振って否定した。月に来るあらゆる方というのは、衛星やロケットのことなのかもしれない。そこから学べるなんて、月の都の人々の学習能力が高いのか、はたまた何か特別な力が作用しているのか、私にはわからない。


 ちらりとスクールバッグに詰め込まれた着物を見ている。月が生産地のこれらは、素人目から見てもやはり相当価値が高いものだと思う。月の都の技術は現代日本よりも遥かに高いのかもしれない。


 なんだか未知に触れていることにわくわくしてきて、さっきとは比べ物にならないくらい意気揚々と質問を続けた。


「その探している両親というのは、竹取の翁のことですか?」


「竹取の翁? 父上の名前は確か、讃岐造さぬきのみやつこというはずですが……。まず竹取物語とはなんですか? 私が主役の物語なんて、到底考えられないのですが」


「うわぁ、その質問困るなぁ」


 はて、どう説明したものか。私だって竹取物語について知っていることと言えば、古文の教科書で読んだ浅い内容くらいだ。あとは最古の物語として有名で、作者は不明ということぐらいしかわからない。カタカタという振動を感じつつ、腕を組み脳内で情報をまとめてみた。


「さっき、あなたが月の都から来た話をしてくれたじゃないですか。竹から生まれて、天の羽衣を身にまとって天に昇っていったところまでがまとめられた物語があるんです。誰が書いたのかは分かりませんけれど」


 すごく雑で短い説明だという自覚はある。でも家にある絵本を取ってくることなんてできないし、事細かく説明できるほど覚えていない。そういえばあんまり関係ないけど、絵本の中のかぐや姫より実際のかぐや姫の方が綺麗だ。


 かぐや姫は複雑な表情をしている。主役になっていた嬉しさと恥ずかしさと混乱が心の中で喧嘩でもしているのだろうか。


「ああ、それで、両親のことでしたね。神月殿の言う竹取の翁であっているかと思います」


「それで、友達というのは?」


「文通をしていた帝のことですね」


「みっ……」


 思わず言葉を失った。帝って、天皇のことだったはずだ。それに両親も帝も、もう遠い過去の人だ。いるはずなんてない、そう言いかけた時に、かぐや姫は言った。


「不老不死の薬を、立ち去る際に渡したんです。それで、彼らがどこにいるかご存知でしょうか?」


「どこに、いるか」


 どこまでも無垢で、どこまでも純粋な瞳をこちらに向けてくる。それが嫌で嫌で、思わず向かい側の車窓に目を向けた。遠くの方に大きな山が見える。


 ああ、知らないのだ。この人は知らないんだ。あの山が富士山と呼ばれていることを。天皇が不死の薬を燃やすように命じたことから、不死山と名付けられたことを。もうこの世に探し求めている人は居ないことを。どうしたらいい?ㅤこの少女をどこに連れていけばいいんだろう。


 カタカタという音だけが空間を支配した。沈黙が痛く感じるけれど、かぐや姫にかける言葉が見つからない。


 かぐや姫はおろおろと「神月殿?」と声をかけてくれているが、何も言えずにただ電車が終点に到着した合図を聞くばかりだった。


「……降りましょうか」


 一言、絞り出す。かぐや姫は黙って私の後を着いてきた。どこに連れていかれるかも分からないのに、随分素直で、コガモのようで愛らしい。



「星が見えませんね」


 駅から一歩出た瞬間に、かぐや姫が呟いた。駅の爛々とした電灯の方が明るく見えるので、それもそのはずだ。


「かぐや姫様が昔見た星空は、どうだったんですか?」


「とてもとても綺麗でしたよ。それはもう他に例えられるものがないくらい、何もかもが吸い込まれるようになるくらい美しかった」


 うっとりとした口調で、夜空を眺めて言った。満月と、星空と、それを眺めるかぐや姫。この三つの美しい要素が揃えば、どこの世界遺産にも勝る情景ができあがるのではないだろうか。いつか時間遡行の技術が生まれたのなら、かぐや姫が日本にいた時代に遡ってみたいものだ。


 私たちはさっき歩いた道よりも電灯の間隔が広く、暗い道を歩く。私でさえここがどこだかわからない。さっきからスクールバッグの底に押し込んだスマホがバイブしまくっているけど、知らんぷりをしている。GPSで見つかったりしないかが気がかりだ。


 かぐや姫は何も聞かない。もしかしたら恐れているのかもしれない。私に現実を突きつけられるのを。それでもとにかく歩き続ける。かなり田舎に来てしまったようで、電波が届かないのか、着信がだんだんと途絶えていった。静かだ。


 もう夜遅いので、誰も歩いていない。そもそも過疎地域のようで、家もぽつぽつと申し訳程度に建っているだけだ。最近はピアノの練習だけしかさせてもらえず、ろくに外出できていなかったので余計に空気が美味しく感じる。かぐや姫は星が見えないと嘆いていたが、現代人の私にとってはこの場の夜空は宝石箱を零した紺色のカーペットのように見えた。


「こんなに明るい夜があるなんて、不思議」


ㅤ後ろを歩くかぐや姫が呟いた。彼女はどんな表情をしているのだろう。気になって、振り向こうとした。


ㅤその時、暗闇の中に大きな赤い鳥居が見えた。小さめの神社のようだ。休むのにちょうどいいかもしれない。


「かぐや姫様、あそこでちょっと休憩しましょうか」


「あそこって、もしや神社ですか!?」


ㅤかぐや姫ははしゃぐ。宝物を見つけた幼女のように。私を置いて、駆け足で鳥居をくぐって行った。現代の見慣れない物ばかり見ていた彼女にとっては、少しでも己の身近にある物が存在することが安心するのだろう。


ㅤ私も追いつけるように少し歩幅を広げた。大きな鳥居の下を通る。一歩歩く事に広がる景色に、何故か既視感を覚えた。来たことは無いはずだ。なのに何故か、私はここを知っている。


ㅤふと脳裏を過ぎったのは、2、3年前の地方のニュース番組。そうだ、この神社は寂れてて、再び活気溢れる場所にするために色んな取り組みが行われたんだっけ。それで、そのうちの一つだ、私に深く印象を残したものは。


 視界の端に、小さな小屋が映る。その小屋の中央には堂々と黒く光るアップライトピアノが置かれていた。いわゆるストリートピアノというやつだ。ゾッと背中に冷たいものが走る。私を追いかけてここまで来たのか? どこまでも逃がしてくれないのか?ㅤもう勘弁してよ。もう許してよ。


 立ち止まる私とは裏腹に、かぐや姫はそれに近づいてジロジロと観察を始めた。


「これはなんですか?」


 無慈悲に、尋ねる。聞いていないふりをしたかったけれど、もう既にかぐや姫の先程の質問を無視しているので罪悪感に駆られて答えてしまった。


「それはピアノ──楽器です。外国で生み出されたものですよ。漢字では洋琴と書くので、まぁ、琴がすごく進化したものみたいな……?」


 このとんでもない解説にかぐや姫は頷いて理解を示してくれた。やはり月の都の人は学習能力が高いのかもしれない。


「神月殿は、これを奏でられるのですか?」


 何気ない至って純粋な疑問と期待に、心臓が一気に跳ね上がる。私の焦りや緊張に気づいていないかぐや姫は、楽しそうに目を輝かせている。きっとこの方は、音を楽しめる人なんだろう。楽しめなくなってしまった私とは正反対だ。


 かぐや姫のその視線は、私が最初の難しいピアノ曲を完成させた時に親も先生も揃って向けてきたものと同じで、期待に満ちたものだった。あの頃は、弾いたらみんなが喜んでくれたから、弾いてたっけか。今となっては、弾け、弾け、弾け、弾け、弾け、弾け、と喜ぶ暇もなく指が痛くて動かなくなるまで強制されるから、なんで弾いてるのかわからなくなって。


 でも、もしもだけれど、私がかぐや姫が昔の星空を思い出した時と同じような心を奪う演奏ができたら、魅了できたら、喜んでくれるだろうか。これから彼女が目の当たりにする悲しい現実に立ち向かう力を、少しでもあげられることができるだろうか。


 気づけば私は、アップライトピアノの重く黒い蓋を持ち上げて、椅子に座って、かぐや姫に訊いていた。


「どんな曲がいいですか?」


 かぐや姫は少し考えて、天を仰いで、夜空を見て、輝く星空を閉じ込めたような瞳をまっすぐ私に向けて


「昔、両親と共に見た月を思い出せるような曲がいいです。できますか?」 


 と、弾む声でリクエストした。


ㅤ月に関する曲といえば……。


ㅤ真っ先に浮かんだのは、私の始まりの曲。みんなが褒めてくれた、地獄の始まりになってしまった曲。一番大好きで、嫌いになってしまった曲。


 すっと、糸に引かれるように鍵盤に手を伸ばした。弾き始めたのは『月の光』。ドビュッシーの名作だ。不思議と緊張はなかった。ここは満員のよく音が響くホールじゃない。観客は一人で、満員になることはまず無い、世界の端っこ。何も私を照らさない、静かな静かなステージ。


ㅤ隣でじっと私の手元を見ているのは紛れもない月だった。ほのかな光が照らしてくれるおかげで、鍵盤がよく見える。指が踊っているように軽やかに白と黒を滑った。金のペダルを踏めば沈むように音が伸びた。色とりどりの音色が鮮やかに宙を舞う。


ㅤ艶やかな絹のような旋律が、世界を包み込んでいくのを感じる。


 ピアノが歌う。指揮者は私。歌え、歌え! もっと、もっと! 嗚呼、私は今猛烈に楽しい。音楽ってこういうものだろう。どうして忘れていたんだろう。もしかしたら、私も周りの人に天の羽衣を被せられていたのかもしれない。だけど、もう脱ぎ捨ててしまった。


 そうだ、私は自由だった! 自由なんだ!!


 夢中で、アレンジなんかを付け足しながら演奏していた。最後の一音を鳴らしたくなかった。それでも、曲は終わる。まだ弾きたいという感情は、実に数年ぶりだった。


 惜しみつつも、最後の和音を奏で終わる。振り返って気がついた。暗雲が晴れて、満月が私を照らしていたのだった。かぐや姫は後ろの方で小さい口を開いたまま、間抜け面をしていた。


「どうでした?」


 自信満々の、一番の笑顔を見せつける。きっとこの美しい姫を魅了できたのだろう。かぐや姫は満面の笑みで、私の手を取り叫んだ。


「美しかった……!ㅤ今まで聴いた音色の中でも、一等輝いて見えました!」 


 そうだ。これだ。私はこの笑顔が見たかった。良かった。ようやく思い出せた。


 かぐや姫はピアノの鍵盤を少し触ってみたりして、しばらく余韻に浸っていた。安堵からかすっかり力が抜けてしまった私は、ぼうっとそんな彼女を眺めていた。


 ふと、ポロンポロンと音を出していた彼女の指がピタリと止まる。かぐや姫は真っ直ぐこちらを見た。その綺麗か桜色をした唇はかすかに震えていて。


ㅤ意を決したような表情で、静かに私に問う。


「彼らは、不老不死の薬を飲まなかったのでしょうか?」


 どきりとした。隠し続けた真実。賢い彼女は悟っていたのだ。


「私が、会うことはもう叶わないのでしょう?」


 悲痛を帯びた声色で、私に縋るように喋っていた。どうしようもない悲しみが、私の心を支配する。


ㅤ何かを言おうとして、口を開いた。でも、何も言葉が出てこなくて、また閉じて、唇を噛んだ。


「……本当は、なんとなくわかっていたんです。考えられないようにされていたとはいえ、私は彼らを忘れていたのですから。彼らばかりが私を待ち続けるはずがないのです。そんなの、不公平だもの。残念ではありますけどね。帝の、間抜け面を眺めてみたかった。まだ、正式にお互いの顔を見たことすらないのですよ?ㅤあはは……」


ㅤかぐや姫は力無く笑って見せた。その目にはじんわりと涙が浮かんでいく。


「逢いたかった……。逢いたかったなぁ……。父上、母上……、帝……。ごめんなさい……」


ㅤかぐや姫は、震えた声で苦しそうに呟いた。弱くて悲痛な謝罪の言葉が、可哀想で、可哀想で。私の胸をじくじくと突き刺した。


 かぐや姫は再び鍵盤を指で押し始める。私は何も言えないまま、じっとかぐや姫を見守っていた。それしかできなかった。


「でも、戻ってきてみて良かった。神月殿に、会えましたから」


「え? 私?」


 とんでもなく恐れ多いことを言われた気がする。彼女はくるりと振り向いて、潤んだ瞳を拭いながら私に抱きついた。


「本当に、素晴らしい演奏でした。どこまでも自由で、繊細で。寂しいような寂しくないような。不思議な心地でした。ありがとう……!」


ㅤ私も、かぐや姫の背中に腕を回して、軽く抱き締めてみる。華奢な身体は、小さく震えているようだった。


「私はこれから月に帰って、積年の恨みを晴らすつもりで、ひと暴れしようと思います!ㅤ無理難題を従者に押し付けたりしてね。私は、孤独じゃありません。きっと、あなたが私の心を照らし続けてくれるでしょう……!」


 ぎゅうっと、彼女の力が強くなる。私も彼女をもっと強く抱き締めた。ほのかに暖かくて、ぬるま湯に浸かるような、ずっとこうしていたいと心から思うほどに心地よかった。


ㅤ私とかぐや姫の透明な視線が交差した。かぐや姫はどこか晴れやかな表情をしていて、にこやかな笑みをたたえていた。


「私もね、貴女の光に照らされたんてす。だから、私はもう大丈夫。月が私を照らす限り、私はもう、孤独じゃないから」


 自然と涙が零れ出た。私たちはもう自由なんだ。操り糸をぶっちぎって、一人で、例えくたくたと情けない動きになっても踊り続けられる。


 かぐや姫は私を離して、勝手に私のスクールバッグから一枚の衣を取り出した。


「あっ、これは天の羽衣ではなく、月に帰るための道具です。ご心配なさらず。もう二度とあんなのに袖を通しません!ㅤ帰ったら破ってやる!」


 ぷんぷんと怒りながら、乱雑にそれを着た。もうお別れの時間なのだ。それを実感してまた涙が溢れてきた。そんな私を見かねてか、もう一度かぐや姫は私を抱き締める。


「大丈夫ですよ。月が空にある限り、私たちは離れることはありません。いつか、私の使いの者に、世界一の演奏者を連れてこいと命じるつもりです。その時はあなたが来てくださいね。歓迎しますから」


「それって、無理難題じゃないですか? 世界一の演奏者なんて、私の他にもごまんといますよ」


 衣の裾で私の涙を脱ぐうかぐや姫は意地悪な笑みを見せた。


「私にとっては、誰がなんと言おうとあなたが一番です。あなたに来て欲しいの。偽物なんか許しません。あの皇子達が用意した物のようなね」


 そういえばそんな話もあったなぁ。彼らの愚行を、随分と根に持っているらしい。


「それでは、私は帰ります。また会いましょう」


 かぐや姫は満月が雲から姿を現したと同時に、空気に溶け込むようにすらりと姿を消した。


「さぁ、私も帰ろうっと。まずは真っ向から話し合ってみて、それから……。かぐや姫様みたいに、ひと暴れしてみようかな」






🌙




 

 あの十五夜の、かぐや姫との別れから何年経ったか。


ㅤ私は今、クラシックもアニメソングもジャズもなんでもこざれのピアニストをしている。クラシックしか弾かせてもらえなかったあの頃は、こんな毎日想像していなかった。まぁ、ウン百万円するようなグランドピアノを壊してみたり、先生の目の前で楽譜をビリビリに破いたりして勘当みたいな形で家を出たから、そりゃそうなるけど。


 学生コンクールで何度も金賞をとったという栄誉は過去の大暴れエピソードでかなり消えてしまったけれど、今は毎日が音楽で心が満たされている。


ㅤピアニストとして得た富で、大きな窓がついた部屋を作った。そこにあの田舎に置いてあったのを買い取ったアップライトピアノを置いて、月明かりに照らされながら毎晩好きな音楽を奏でるのだ。かぐや姫にこの音が届くように願いながら。


 そしてここ最近、世界中の有名な音楽家が行方不明になってはその行方不明期間の記憶を失って帰ってくるという珍事件が多発しているらしい。犯人も動機も手法もわからないその事件について、心当たりがあるのは、私とこの月明かりに照らされたピアノだけでいい。


 

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