第5話「この人が…この人が娘を…!」
第5話『砕けた約束と、ひとひらの真実』
俺の拳が、父親の顎を打ち抜いた。
その瞬間、俺が守ると誓ったはずの「約束」が、ガラスのように砕け散る音がした。
鈍い音と共に、父親が床に崩れ落ちる。ウィスキー瓶が手から滑り落ち、甲高い音を立てて割れた。部屋中に、強烈なアルコールの匂いが充満する。それは、この家に染みついた、隠蔽された腐敗の匂いそのものだった。
静寂。
俺は、熱を持つ自分の拳を見下ろした。何故、手を出した。拳なら耐えられたはずだ。だが、あの瓶が、酒の瓶が振りかぶられた瞬間、俺の中の、固く閉ざしていたはずの扉が蹴破られたのだ。過去の忌まわしい記憶が、怒りとなって俺の腕を動かした。
ゆっくりと顔を上げる。そこにいたのは、信じられないものを見るように目を見開き、小さく後ずさる、美咲の姿だった。その瞳が、俺に語りかけていた。「あなたも、同じだったの?」と。彼女の「気をつけて!」という必死の祈りを、俺は自ら裏切ったのだ。
その数秒の静寂を破ったのは、母親だった。
彼女は悲鳴も上げず、慌てもしない。ただ静かに、しかし素早くリビングの隅にある電話の子機を手に取った。俺と美咲がその異様な落ち着きぶりに気づいた、まさにその時。母親の口から、完璧に作り上げられた嘘が、涙声の演技と共に紡ぎ出される。
「もしもし、警察ですか!? た、助けてください! うちの主人が……! 娘の……娘の彼氏に、いきなり殴られて……!」
その声に、俺は凍りついた。違う。俺は彼氏じゃない。そして、お前の夫は、美咲の彼氏も殴ったんだろうが。だが、そんな俺の心の叫びは、母親の次の言葉でかき消される。
「ひどいんです、急に家に怒鳴り込んできて……! ああ、血が、血がたくさん……! お願いします、すぐ来てください!」
血など、一滴も流れていない。しかし、その一言は、俺を社会的に抹殺するための、冷徹な一撃だった。外から、遠く、しかし確実に近づいてくるサイレンの音が聞こえ始める。もう、終わりだ。俺は「侵入者」で「暴行犯」。美咲を救うどころか、彼女の家の悲劇に、新たな不幸を上塗りしただけだった。
すべてが終わった。
誰もが、そう思ったはずだ。
しかし、サイレンの音が近づくにつれ、絶望に打ちひしがれていたはずの美咲の震えが、ふと、止まった。
彼女は、ふらつきながら立ち上がる。その瞳には、もはや怯えも失望もなかった。そこにあったのは、すべてを見通すかのような、氷の冷静さ。
彼女は、床に転がっていた、もう一本の、まだ割れていない酒瓶を両手で拾い上げた。
その重々しいガラスの塊を、震える腕で、ゆっくりと、しかし確実に、高く掲げた。
「美咲、何を……!」
俺が制止しようとするより速く。
母親が「やめなさい!」と悲鳴を上げるより速く。
ガッ!!!
鈍い、肉と骨を砕くような音が、リビングに響き渡った。
美咲は、その重たいウィスキーの瓶を、自らの額に、力いっぱい叩きつけていた。
一瞬の静寂。
そして、割れた額から、真っ赤な血が、滝のように流れ落ちる。
その血は、彼女の眉を、睫毛を、頬を伝い、純白だったブラウスを、見る間に赤黒く染めていく。血で濡れた前髪が額に張り付き、その瞳は、もはや怯えた子供のものではなかった。地獄の底から甦った、復讐の女神の瞳だった。
流れる血の中、美咲は、生まれて初めて、両親を真正面から見据えて、怒号を響かせた。
「『血が』? ……ああ、そうだよ。これが『血』だ!!」
その声は、部屋中の空気を切り裂いた。母親の顔から、血の気が引く。自分のついた嘘が、最悪の形で現実になってしまった。
「あんたたちがずっと見たかったのは、これだろ!? 私が傷ついて、泣いて、ボロボロになる姿だろ!? 満足か!? これで警察に、全世界に言えるな!『娘が、こんなになるまで、あの男にやられた』って!」
「もう、終わりにしてやる……!」
美咲の言葉は、この家に渦巻くすべての呪いに向けられた、決別の叫びだった。
「この家も、あんたたちのくだらない芝居も、私の人生も! 全部、ここで、終わりだ!! あんたらは、終わりだよ!!」
その時、玄関のドアが乱暴に叩かれ、数人の警察官が踏み込んできた。
「動くな! 全員、手を上げろ!」
彼らが目にしたのは、この世のものとは思えない、あまりにも壮絶な光景だった。
額から血を流し仁王立ちする美咲。呆然とする俺。床に座り込む父親と、顔面蒼白の母親。
経験豊富なベテランらしき警察官が、状況を把握しようと鋭い視線を巡らせる。
母親が、我に返ったように泣き叫んだ。
「この人が…この人が娘を…!」
しかし、美咲は、その嘘を遮るように、静かに、しかし明瞭に口を開いた。
「……この人に、やられました」
彼女は、そう言って、床に座り込む父親を指さした。
「え……?」母親の演技が、完全に止まる。
美咲は、続ける。その言葉は、一言一句、揺るぎない。
「彼が、私を助けようとしてくれました。でも、父が、このウィスキーの瓶で、私を……」
ベテラン警察官の目が、鋭く光った。彼は、この家のことを知っていた。近隣住民から、これまで何度も寄せられた、虐待を匂わす通報。しかし、巧みな嘘で常に回避されてきた、もどかしい過去。
彼は、美咲が自らを殴った瓶ではなく、父親が倒れた時に手放した、もう一本の瓶を指さした。
「……あの瓶、確保。指紋を採れ」
そう。すべては、美咲の計算通りだった。
彼女が凶器として使った瓶には、当然、彼女の指紋が付いている。だが、父親が俺を殴ろうとした瓶には、父親の指紋がべっとりと残っているはずだ。そして、俺の指紋は、どちらの瓶にもない。
すべてのピースが、この瞬間に、パチリと音を立ててはまった。
血を流す被害者(美咲)
その被害者の明確な証言
加害者(父親)の指紋が付いた凶器(の可能性があるもの)
これまでの虐待を匂わす多数の通報履歴
ベテラン警察官は、座り込む父親に、冷たく、そして事務的に告げた。
「……佐藤さん。あなたを、娘さんに対する傷害の現行犯で逮捕します」
「ち、違う……俺はやってない……!」
父親の狼狽した弁明は、もはや誰の耳にも届かない。母親は、自分のついた嘘が、自分の脚本が、娘によって完全に書き換えられ、最愛の夫を犯罪者にしたという現実に、その場に泣き崩れる。
美咲は、流れる血も拭わず、ただ静かに、その光景を見ていた。
彼女の積年の恨みは、ついに、この「笑顔の牢獄」の扉を、内側から破壊したのだ。
俺は、その一部始終を目の当たりにして、ただ戦慄していた。
自分がやろうとしていたことが、いかに浅はかで、無力だったか。
そして、目の前に立つ、血まみれの少女が、どれほど強く、賢く、そして孤独な戦いを続けてきたのかを、ようやく理解したのだった。
俺の人生のヘッドライトは、誰かの過去を照らそうとして、一度は砕け散った。
だが、その砕けた光の先で、彼女は、自らの血で、夜明けの道を照らし出したのだ。
本当の夜明けは、まだ、遠い。しかし、間違いなく、始まっていた。
シンクロニシティ-ヘッドライト 志乃原七海 @09093495732p
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