夕焼けはあかね色

八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子)

 あなたはきっとあちら、あなたはきっとこちら、さて、どちらなのだろう。

 目が覚めると狭いベッドの隣に柔らかさが触れた。

 可愛らしい小顔の女がくすぐったくなるような寝息を零して、腕をほどよい乳房で慰撫しては、蛇が獲物を狩るように包んでいた。

 その寝顔は一瞬の迷いも抱かぬほどに穏やかで、そして、慎ましやかに閉じられた瞼の隅に小川が流れた跡が残っている。ぼんやりと時計の針が時を刻む音と寝息のリズムにしばらく思考を漂わせてから、ここに至るまでの経緯を思い浮かべようとするのだが、ずきりと痛みが頭を駆けてゆく、包まれていない手で押さえてみると、額の半分近くにガーゼと包帯が巻かれていた。


「いってぇ」


 思わず声を漏らしてしまい、何も悪いことなどしていないのに、そっと隣をうかがうが、瞳と寝息は揺れ動くことはなかった。

 額の手を放してみればカサカサとした何かが指につき、パラパラと落ちた。

 朝焼けか夕焼けか、カーテンより漏れたそれに照らしてみれば、赤黒い、乾いた血液で、どうやら頭の痛みはそこから来ているようだ。

 どうしてこのような怪我を負ってしまったのか、思い出そうとしても、ずきりが邪魔をして思い返すことができない。しばらくその痛みと戦ってはみたものの、結局として勝てず、仕方がなく私は周りを観察してみることにした。

 漏れた光に照らされた室内は借りているアパートではない、壁にかかった時計も、インテリアも、室内の壁紙でさえ、私のなにかへと触れるものはない。

 見知らぬ洞窟の穴のように、そのすべてが異質であった。

 だが、異質の中に異質ではないものがあり、それが私を安堵させてくれている。

 隣で眠っている女の匂い、いや、香りだ。

 柔軟剤などの科学的な香りでもなく、そして、自然的な香りでもない、それは間違いなく、女の香りで、それが私の鼻腔から入ってしまうと、全身を駆け巡って、生命活動のすべてに安息を与えて弛緩させてゆく。

 ずきりも、香りに無力で和らぎ、そう、すべての何の意味も消し去ってしまうほど、女の香りは慰撫してしまうのだ。

 いささか自信が持てないが、私は大学4回生で、一昨日は大学で講義を受けていた気がする、それがどのような講義だったかは思い出せない、だが、確かに耳にした覚えはあり、そして女の香りがそれを散らすこともないから、きっと間違ってはいないと思う。

 

 ずきりと痛みがくる。

 女の香りがそれを散らす狭間でおぼろげに見える何かを、私は脳内でさっと写し取り思い浮かべてみた。

 木漏れ日があった、そう、木漏れ日、それが苔むした古い石畳の上で散っている。苔は艶やかな濃淡と石畳の一部で抉り取られて土を見せていた。

 足跡だろうか、歩幅はそれほど広くはないようで、そして石畳の先の小砂利の敷かれた地に、何者かが倒れこんだ跡と、べっとりした赤を帯びた握りこぶしほどの石が転がっている。

 それは昼間のようで、きっと真夏近くの、小夏の一刻だろう。


 ずきりと再び痛む。

 再び何かが見えて、私はそれを映し取って思い浮かべると動きが加わった。

 木々の葉の揺れに木漏れ日が振れていた、抉り取られたような苔と飛び散ったそれらが、石畳の坂を転げ落ちてゆく。

 何者かが倒れこんだ跡には女がいた。

 黒髪の美しいロングヘアと可愛らしい小顔が玉のような汗と恐れおののきを湛えて、涙を流してこちらへ何かを叫んでいる。それを見つめるのは私だ、視界が上下に揺れていて、きっと息が上がって肩で呼吸をしているに違いない。

 そう、マラソンのあとのように。

 片目の視界を何かが赤黒く染めて、それを袖口で拭うと真っ赤に染まり、それを見た女が赤で染まった握りこぶしほどの石を、震える手から取り零すように落とす。

 ああ、この傷は女が付けた、でも、それに苛立ちを覚えることはなく、むしろ、それだけは誇らしかった。


 再びずきりと痛む。

 何かが見え聞こえて、私はそれを映し聴き取った。加えれば五感すべてが調和して色濃くなってゆく。

 木々の葉の揺れと鳥のささやきに松蝉の鳴きが心地よいリズムで、木漏れ日を彩っていた。女は走った先で躓いて転び、こちらに振り返って荒げた呼吸を正すこともなく、こちらに向かって叫んだ。


『私のことはほっておいて』


 それはすべてを劈いてしまうほどに力強く、それでいてはかなさを宿していた。


『ずっと先生は俺のだ』


 私が怒鳴って吐き出した息を整え、額を拭って汗と血の混ざったものを袖で拭う。女が赤で染まった握りこぶしほどの石を、震える手から取り零すように落とし、やがて、天を仰ぐようにまっすぐに上を向いて涙を零してゆく。

 そして、小さく泣いた。

 それは整えぬ息で掠れてしまっていた。

 けれど、その秘めたる声音は確かに届く、私は息を整えることを止めて絞り出すように息継ぎをして駆け寄り、心身を二度と手放さないと固く抱き、それはやがて互いを包み合うものとなってゆく。


「ごめんなさい」


 女の声と香りがかすかに揺れ薄れて、紡がれた言葉に私の意識は引き戻された。


「謝らなくていいよ、先生」

「うん、でも、一回だけ」

 

 女の慈しみ深い表情が私を愛撫し慰撫してゆくと、額の手の温かみは傷口の痛みを引き裂いて消し去って癒しを与えてくれる。


 それが色あせず忘れえぬ記憶を呼び覚ました。

 女は高校の国語の教諭だ。

 私は生徒で実に頭の悪く、出来の悪い生徒だった、成績は下から数えて数歩、素行態度は生徒指導の教諭をぶん殴って停学処分を受けた、これで察することができるだろう。

 思考するより手が動く、動物のような男だった。

 傷は絶えない、周囲と軋轢の間で、正常な世界のすべてと不仲だった。

 そんな生徒に手を差し伸べたのが女だ。

 そう、先生であった女だ。

 人一倍に正義感が強くて、人一倍に優しさ帯びた、女神のような女、小さな背で力が弱い、けれど、どんなことにも怯むことはない。

 私はことあるごとに呼び出されて指導を受けた。

 殴りつけた生徒指導の先生が、二人以上でと注意をしていたのに、私に対して常に一対一で立ち向かってきた、もちろん、私は自らより非力なものに対して、力の行使などということは嫌いで、無視をしたり、逃げたり、と方々に手を尽くしては避け続けもしたが、女がすべてにおいて一枚上手だった。

 それがついに崩れ去ったのは高校2年生の夏休み、三階建ての一番奥、最果ての教室で補講を終えた夕暮れに、女が教室の端で泣いているのを偶然に見かけた。

 手紙か何かを手に持ち泣いている女が珍しくて、馬鹿さ溢れる私は何か一言でも揶揄ってやろうと教室のドアを開ける。

 途端に飛んできたのは、優しさのかけらもない、罵声だった。


「入ってくんな、クズ、消えちまえ」


 耳を疑うほどの言葉に込められた不快さは、動物でさえも推し量ることができるだろうと思えるほど、そして馬鹿はその言葉で瞬間的に頭に血潮が沸き上がる、そう、今までの姿すべてが嘘であったと、そう、思われていたのだと短絡的に解釈し、その怒りを獣に纏わせて、女を野生のままに手荒く殴りつけた。

 どうしようもなく立ち上がった私の制服の袖が、女の手で引っ張られた。

 苛立ちの収まらない人間味を失った私はそれに抗おうとしたのだが、その小さな体でどこにそのような力があるのかと思えるほどの剛力で、私はあっという間に組み伏せられて、私の腰の上に女はしっかりと贖えぬほどに馬乗りに跨った。

 そしてただ一言、こう、告げた。


「ごめんね」


 そして女の唇が私に触れる、そして、汚らわしい我が身を慎ましやかに包んだ。

 錯乱するなどという愚かなことを私が起こさなかったのは、あの最低で災厄な場で唯一の善行であったと思う。

 その瞬間、私のすべては矮小化して、酷くつまらないものになった。

 いや、すべてを恥じた、生きてきたすべてを、呼吸することすらも、心臓を動かすことすらも、恥で愚かしいと確信してしまう。

 深い反省などというもの数億光年先、愚かしくも生きながらえているのが、私であると考えに至る衝撃に、私は自らの罪の深さに初めて怯えた。

 そう、虚勢も張れぬほどに怯えて、恥ずかしいことに、馬鹿馬鹿しいことに、小さな子供のように、涙をぼろぼろと零し、そして、大きく口を開けて、そして声を発してしまった。

 けれど、教室の外へ漏れることはなかった。

 女の胸元にしっかりと引き寄せられて、いや、優しく埋められて、きつくきつく抱きしめられる、その物語らぬ、未知の慈愛に、身勝手に両手を回してきつく抱きしめて、私は慈悲に縋りついた。

 夕焼けは落ち、やがて月が天頂を統べるまで、私はただひたすらに、今までのすべての罪を悔いて懺悔するように女に縋りつき、女は全身全霊で縋りつきを慰撫し、そして慈悲をもって贖罪の時を与えてくれた。

 先生という言葉の真意に触れたことがあるとすれば、まさにこの時であったと思う。

 その日、どう自宅に帰りつき、どう、過ごしたのか、まったくと言っていいほど記憶はない。ただ、翌日から、人が変わったように、それこそ、すべての意地と虚勢を排してしまうことができるほど、私は姿形を頭の先より爪の先に至るまで、心の浅部から深部までを達観できるほどに生まれ変わり、女の前で罪人が許しを請うように、いや、生きることを謝罪するように、深々と頭を下げて詫びた。


「土下座したらどうしてやろうかと思ったわ、でも、受け入れます」


 私の足は立つことを拒絶して、そのままへたり込んでしまうほどに、その頬にガーゼを張った微笑みが、すべてに満ち溢れた神々しさを纏っていた。

 女は、いや、先生は慈愛に満ちた人だった。

 だから、ある男を愛していたし、精一杯に尽くしたというのに、酷い捨てられた方をして、あの夕暮れの教室で、一人寂しく、制御できぬまでに荒れてしまったすべてを隠し流してしまおうと身構え、そして、馬鹿な私の姿にすべてをぶつけてしまったのだと詫びた。

 その深い意味を理解するまでに時間をかなりかけたが、教えを乞い、数多くの文学にも触れることで、新しい私は新しい私へと、多少古臭く思考する、人間の末端ほどまでには成長ができたと思う。まぁ、まだまた、道半ばだけれども。

 だが、先生を捨てた思いがぶり返しを見せて、それが、先生を悩ませる事態になるまでとなっていたことを知ったのは二日前のこと。

 久しぶりに地元の友人と電話をしていて先生の話となり、ここのところ先生がストーカーの被害にあっていることを知った。もちろん、先生とも連絡は取りあっていたが、それを秘めたのだと思う。多少人間になったものを気遣ってくれたはずなのだが、その心地よい草原のような思いは、私の怒りで一瞬のうちに焼き尽くしてしまった。

 相手はすぐに思い浮かんだ、先生を捨てて去った奴だと。

 結果は愚かしいものだ。

 私は先生の教えを破って人間以下の畜生になり、地元へ帰りつくと先生を探して歩き回り、先生が自らを落ち着かせるために、そして、私を誘ってくれた山裾の神社で、殴られて倒れこんだ先生の手に拳ほどの石がしっかりと握られていた。

 風の如く体がしなったのはどれくらいぶりかと考えるほど、あっという間にその間合いに入り込み、先生の全力を額で受け止め、背で男の軽い拳を受け止めた。

 男の拳は自らの過去を振り返っているようで甚だ不快だった。

 乾坤一擲のすべての思いを男の顔に叩きこむと、先ほどまでの餓鬼のように醜いなりを、ただ涙する愚かしい人へと落ちぶれさせて、脱兎のごとく逃げていくさまに、私の畜生の心が解かれていく。

 先生は固まったままで、やがて目に光を宿すと逃げ出すように、離れてゆく後ろ姿を追いかけて、最後の最後に、嘘偽りのない心からの言葉を投げつけた。


「ねぇ、たくみ」

「え?」

「もう、たくみって呼ぶ、こうなったのだもの、最後まで責任とってもらわなきゃ」

「もちろんだよ、先生」

「あかね、私はあかねよ」

「あかね」

「たくみ」


 恥ずかしくもなくすっと出た名を呼び合って、私とあかねは唇を合わせて、再び、ゆっくりと互いを包み合ってゆく。

 ずきりとした痛みは、あかねの香りが巡って癒してゆく。

 もう、愚かしいことはしない、いや、してはならない。

 夕焼けはあかね色、その深き意味を見失うことがないように、大先輩の背中を見つめながら、自らの道を模索して、つがいで歩んでいくのだから。

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夕焼けはあかね色 八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子) @suzunokisuzunoki

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