第2話
「あ……」
星を見上げていた
波の音がする。
この辺りは浅瀬が近いため、夜間の進軍は控えることになった。
なんとなく、吹き付ける風が
流れた星は消えた。
何故消えたのだろう。
燃え尽きたのだろうか。
遠く、見えなくなったのだろうか。
(それとも)
……遠い旅路の果てにどこかに辿り着けたのだろうか。
ザザン……
波が船に打ち返す。
あの星の群れの向こうで、
考えて、戦場で感傷に浸るのは控えなければならないと、陸遜は自分を諌めた。
腰掛けていた木箱から立ち上がり、甲板をゆっくりと歩く。
もうすぐ江陵につく。
蜀はどう出るだろう。
派兵をして来るだろうか。
だとしたら、誰が出て来るだろう。
蜀は赤壁では大きな犠牲を出してはいない。
主に騎馬将として名を馳せる将軍たちは、健在だ。
こちらは編成を急いだとはいえ、決して新兵ばかりというわけではない。
周瑜があの決戦を経てなお、呉軍の兵を残してくれた。
(あの方はすでに
だから陸遜に、
諸葛亮を周瑜が殺めるべきと考えたのは彼の人柄や、言動が悪意に満ちているからというわけではない。
敵国の軍師である以上、脅威になるから斬ろうとした。
――
陸遜はそう思い続けていた。
これからも、思い続けようと思う。
……諸葛亮のことは、今も敬愛している。
あの人はきっと自分の私欲などではなく、
彼は自分を憎んでいるかもしれない。
次に会った時には裏切者が、という目を向けられるかもしれない。
だがそれは仕方ない。
現世では道が交わらなかった人なのだ。……そう思うしかない。
自分に【
……それとも、自分もいつか誰かに討ち取られるのだろうか。
討ち取られるとしたら、
(……それは一体、誰なのだろう……)
ちくり、と胸を指すように
それに愛剣を叩き折った
あの揺るぎない黄玉の瞳もまた、戦場で何度か会い見えているが危険な牙を持っていると思う。
自分が死ぬ時、世界は今よりも戦の気配が去っているだろうか?
穏やかな死に際になるのだろうか?
それとも、苦しいだろうか?
二十歳になったばかりの若者は星空を見上げて、そこに問いかける。
側にあった木箱に、もう一度ゆっくりと腰を下ろした。
『陸遜、……泣くな』
血に塗れ凄まじい傷を負っていたが、自分はまだ戦えるから安心しろと、死に際まで陸遜を鼓舞しようとしてくれた。
周瑜が少しでも長く生きるようにしてやってくれと、最後まで願った孫策の死に顔は、穏やかで優しかったと思う。
陸遜は、周瑜の死に顔を見なかった。
……見れなかったのだ。
彼に対する罪悪の念が強すぎて、周瑜の死に顔がもし悲愴でも、美しくても、優しくても、……見つめられないと恐れて、遺体と対面することが出来なかった。
長く師事を受け、深い恩義がある彼の死を見つめられなかったことは、陸遜の心に深い影を落としたが、陸遜は喪に服した一月の間にいつか、周瑜が頷いてくれるような戦功を自分が上げれたと感じられた時は、その時は周瑜の墓前に行ってそのことを詫びようと思っている。
『……よし。』
陸遜が周瑜に面と向かって文句なく褒められたのは、数えるほどしかない。
彼はほとんどの場合、陸遜の仕事に対し何も言わなかった。
敢えて言うとしたら眉を顰め、こんな程度かと叱責されることの方が多かったから、陸遜は周瑜に褒められることを望むのではなく、まず、何も言われないようにしようと心掛けるように努めた。
『よし。いいぞ、陸遜。よくやった』
それでも時々、周瑜は陸遜を言葉に出して誉めてくれた。
『よくやった』
周瑜はそういう、ひとだったのだ。
あの人の死を見つめられなかったことは、いつか恩義で返したい。
陸遜はこの一月でそんな風に考えるようになった。
ザザザ……、
波が静かにさざめく。
今日は明るい、月の光が水面を輝かせている。
「陸遜様」
後ろから声が掛かった。
少しぼんやりしていた様子の陸遜は、一拍おいてから、振り返る。
「
甲板の暗がりに、
「すみません。驚かせてしまいましたか?」
彼はそこで立ち止まって、振り返った陸遜に声を掛ける。
陸遜は小さく微笑った。
「いいえ。すこし、夜風に当たっていただけです。
淩統殿は……」
この船は
他の武将は隣接する別の船に乗り込んでいて、この船には呂蒙軍の兵士たち、総大将の近衛軍、その副官である淩統の麾下の兵士たち、そして呂蒙の補佐官として配属されている陸遜の部隊。その副官に連れて来た
他の船は二つないし、三つの部隊が共に分かれて乗り込んでいるが呂蒙、淩統、陸遜の部隊は本陣・第一軍とされ戦場では大きな一つの部隊なので、一つの部隊だけが乗り込んでいるのはこの船だけであり、幾分雰囲気もゆったりとしている。
「私も船室に籠るのがあまり好きではないので、仕事が早く終わったから少し夜風に当たりに」
自分と同じだと陸遜は柔らかい表情で笑った。
それを、声を掛けたことに対する拒絶ではないと受け取った淩統は、止まっていた所からゆっくり歩き出して、側にやって来た。
陸遜と同じように、そこに置かれていた木箱に腰を下ろす。
船の外を見る。
今宵は月が綺麗だ。
「淩統殿は船が苦手ですか?」
ん? と淩統が陸遜を見る。
「船室に籠るのが好きでないと言われたので……」
「ああ……。いいえ。船の上は好きですよ。
私は
慣れていますし」
そうか、と陸遜は頷いた。
確かに淩統は船の上に慣れている雰囲気がある。
無論、
「――まぁ、どこぞの水賊上がりほどじゃあないですけど」
丁度同じことを言われて刹那、陸遜は瞳を驚かせた。
淩統は向かい合った所で、微かに微笑んでいた。
その顔からすると、陸遜の思考を先読みしたようだ。
彼が思った通りの反応をしたので、笑ったのだろう。
淩統の笑った顔は勿論、陸遜を嘲るようなものではなかった。
戦場でその不和が混乱を招いて、結果としてその戦いで陸遜が死傷を負った頃から、
自らを改め甘寧に対する怒りを飲み込み、いつしか陸遜の側で助力をしてくれる人になって行った。
その戦いの前にも顔見知りではあったが、今ほど親しくはない。
(淩統どのは変わられた)
彼はその時々で陸遜と共に出陣はして来たが今回ほど長期の遠征で、これほど間近に働くことになるのは、初めてだった。
この江陵方面軍の遠征がいかなることになるかは蜀の出方次第で分からないが、これから本格的な梅雨の時期になる。
雨が酷ければ、戦況はあまり動かないことが多い。
少なくとも夏。
動きが無ければもしかしたら全軍ではないかもしれないが、幾つかの部隊は江陵防衛線に着任することになるはずなので、中には年内に、建業には戻らない者もいるかもしれないと陸遜は読んでいた。
長くなるかもしれない。
それは、どうすればこの遠征が短くなるかということを考えた時に、蜀が再度の同盟を提案して来るか、開戦して勝敗が付くかのどちらかだと思ったので陸遜は自然と、今回の遠征は長くなりそうだと考えていた。
蜀が万が一再度の同盟を提案して来ても【
開戦する可能性はあるが
蜀もそう考えるはずだと迷いなく陸遜はそこまで考えて、そう思う理由に孔明の姿を思い出した。
真っ直ぐに人を見つめる、澄んだ濃緑の瞳を。
(……あの人がいるならば、そんな愚かなことはしない)
そんな風に、命を狙った今でも諸葛孔明の人柄を信じている自分がいる。
(分からない。もしかしたら、私を殺すのはあの人かもしれない)
陸遜は先程は思いつかなかった自分の命を奪う可能性がある者の中に、孔明の名を刻んだ。
不思議と、悲愴感はない。
あの真っ直ぐな魂の人に討ち取られるのなら、それも幸せかもしれない。
(無論、ただでこの命を渡す気は微塵も無いが)
「……陸遜さま?」
急に押し黙った陸遜に、淩統が声を掛ける。
「あ……すみません、」
「考え事ですか? 軍師どのというのはいつも何かを考えていなければならなくて、大変そうだ」
陸遜は笑った。
「いえ。違います。考えていたのは、貴方のことです」
「え?」
「淩統殿は、とても変わられたと思って」
陸遜は立ち上がる。
「……覚えておられますか?
初めてこういう風に貴方と向き合って、話した時のことを」
淩統も立ち上がり、ゆっくりと甲板を船尾の方へと歩き始めた陸遜の後ろをついていく。
「――恐らく、私が貴方に、戦場の持ち場を替えてくれないかと頼んだ時じゃないでしょうか」
「はい」
陸遜は頷く。
「初めてしっかりと話をしたのはあの時でしたけど、その前にも、軍議などで顔を合わせたことはありました。軽い挨拶くらいでしたけど……」
「……あの頃の自分のことは、未熟すぎてあまり思い出したくないな……」
振り返ると淩統が額を押さえて苦い顔をしている。
「あの時も、貴方には本当に失礼な頼みごとをしてしまった。
建業に着任して間もなく、甘寧と顔を付き合わせることが多くなって。
……奴への憎しみが強く胸にあったから、それを出さぬように自分を戒めて……いつもイライラしてた。暗かったでしょう、俺は」
陸遜は笑った。
「淩統どの」
数歩彼は戻って来て、淩統の肩のあたりに触れた。
「そんなことはありませんよ。
あの時貴方と話す前から、私は貴方のことを知っていましたが、私の貴方の印象は暗くなどありません。
貴方のお父上のことは私は存じ上げませんが、呂蒙殿や周瑜様も貴方の真っ直ぐな御気性はお父上に酷似されているとおっしゃられていました。
若い兵の面倒もよく見られ、常に淩操殿の軍は兵の士気が高かったと……。
きっとそこにおられると戦場であろうと、味方を不安にさせぬような明るい魂を持っておられた方なのでしょう。
貴方はその御子息。
私は貴方を見て、貴方のお父上がどういう人であったのかを少しですが、想像できるような気がするのです。
当時の、
人は誰しも痛みや悲しみを負った直後は、それに耐える為に慎重になります。
……わたしもそうでしたから、よく分かります」
淩統の脳裏に、桃の花びらの舞う中で、俯いている陸遜の横顔が思い出された。
「陸遜様……」
「私があの日、貴方と話すまで貴方に抱いていた印象は、とても明るいものですよ。
今は甘寧殿とのことを心で整理なさって、あの頃の貴方の印象が戻って来たとも思いますけど……でも、違うようにも感じる」
淩統は陸遜を見下ろした。
長身の淩統が正面で見下ろすと陸遜はかなり、顔をこちらに上げる。
月の光が差し込んで、琥珀の瞳が輝いていた。
陸遜は優しい表情をしている。
「貴方は近頃、あのころとは違う顔で笑うようになった」
「……そ……うですか……? 自分では、あまり、……分かりませんが」
淩統が自分の顔の輪郭を確かめるように触れたので、陸遜は小さく笑った。
「こちらを、勇気づけてくれるような、温かい笑い方をされるようになりました」
微かに息を呑んだ。
それは、貴方に対してだけなのだと、彼自身は分かっていたからである。
「……いえ……」
「特に
……きっと、私が未熟な真似ばかりをするから、心配して下さったのでしょう?」
「……。」
「龐統のことは、皆が彼を仕官させない方がいいと言っていたのに、私が意固地になり建業に留めさせてしまったことですから。
甘寧殿にも、とても叱られましたし」
甘寧でも陸遜を叱るようなことがあるのか、と淩統は少し驚いた。
とはいっても、あの男が陸遜を怒鳴り散らすという図が全く思い浮かばない。
「……陸遜様、」
「はい」
淩統は一瞬迷った。
彼はその名は、もう出さない方がいいと思っていたからだ。
陸遜の傷が深くなると思っていたから。
だが陸遜があっさりとその名を出したので、本当は言いたかったことを言っておこうと決意する。
「陸遜様、龐統のことですが……。
結果はどうであれ、……奴は、
俺は、呉を裏切り、貴方を苦しめた奴は許す気はないです。
……無いですが。あの男は決して心が邪悪で、邪心を持っていて、裏切ったわけではないということは、……分かっているつもりです」
陸遜が淩統を見上げる。
「奴の動機は、俺には理解出来ませんが、それでも悪人ではないことは分かります。
だから貴方は、奴の善意に賭けた。
結果として、その心は届かなかったかもしれない。
奴は呉を去り、蜀に降った。
奴は最初から蜀に、……諸葛亮の側にいるべき存在だったんです。
帰るべきところに、帰った。
ただそれだけのこと。
しかし奴の心の内は貴方だけではなく、きっと建業の誰でも、予測など出来なかったはずです。
周瑜殿でさえ……。
周瑜殿が龐統を嫌ったのも、奴が呉に対して愛着も忠義も持っていなかったから。
呉の為に働かない人間だと思ったから取り立てなかっただけのこと。
貴方は、呉にいたいという龐統の願いを聞き届けた。
孔明の軛から解放されたいという願いを、信じた。
俺は、誰も信じてくれずとも、たった一人でも、強く信じてくれる者がいることで救われるということもあると思うんです。
だから貴方のしたことは、きっと間違いじゃない。
龐統にも……何かがきっと届いているはずです」
「……届いていたとしても、彼は【臥龍】の側に行くしかなかった。
そうではないとしても彼は、そう信じた」
「呉に来ないまま孔明の元に行ったら、龐統は孔明を殺していたかもしれません。
呉に来て、あの戦いの中で孔明の危機を感じ初めて奴の中で、自分が何を成すべきか分かったのかもしれない」
「……本当に大切なものに、彼は気づいたんですね」
陸遜は視線を流し、海の向こうの夜空を見上げた。
「俺は……、
……わたしは、貴方がただ一人龐統の心を救う為に動いたと、そう思いますよ。
そういうことは今回はそうならなくてもきっと別の時に、別の誰かを救うようなことですから、……だからこれ以上、奴のことで自分を責めないで下さい」
少しの沈黙のあと。
「――――……
そこに立つ淩統の元からは、風に吹かれて騒ぐ陸遜の表情までは見えなかった。
「私は、次の戦場では龐統を殺します」
淩統は陸遜の後ろ姿を見つめた。
彼の話す、言葉を。
「……ここにいた時は彼が心から誰かと共に、生きて欲しいと願っていました。
でも、もう生は願いません。
敵になったのですから。
もし、次に戦場で会い見えた時は――死を願います。
――いえ。
死を与えてみせる」
微かに、握り締める陸遜の手が震えた。
(この人はこうやって)
震える陸遜の手を、淩統は両手で包み込んでやりたかった。
それは自分の役目ではないと思ったから、ぐっ、と拳を握り締めて堪える。
(斬る時は、心を定めて)
自分なら、裏切者がの一言で龐統をむしろ喜んで斬り捨てただろう。
……陸遜という青年は、こうして人の命を強く見つめる。
生きる者も、
殺める者も、
同じ大切さで。
陸遜の幼い頃を淩統は知らないが、何故彼はこれほど若いのにそんなことが出来るのだろうと不思議に思った。
話に聞く育ての親だったという
自分を守って、死んでいった者がいる。
自分を生き延びさせてくれた者がいる。
彼はそう思うから、奪うことにも慎重になるのだろう。
単なる武人の生業と割り切らず――。
だがそれは、とても辛いことだと思う。
楽なのは、割り切れた方が楽なはずだ。
淩統もそうしている。
自分は武人だから、戦場で殺すのが仕事なのだと。
今殺した男に、息子がいるのかもしれないなどといちいち考えていては、こちらの精神が持たないのだから。
龐統が呉にいた時は、斬らなかった。
そう思うことで淩統は龐統を、呉にいる時に殺しておくのだったという考えから、自分を切り離すことが出来た。
敵味方が入り混じる。
……この戦乱の世では仕方のないことだ。
味方なら守る、敵なら斬る。
そう、信じるだけ。
だが淩統はあえて楽な方に考えようとしない陸遜の不器用さが、とても好きだと思った。
こういう人を戦場で一人、死なせてはいけない。
彼が強く思ったのはそれだけである。
「……わたしがもし今、……間違っていることを言っていると思うのなら……そう言っていただけると助かります」
「陸遜様」
淩統は陸遜の隣に立った。
星空を見上げる。
「なにも間違ってはいません。」
陸遜が淩統の横顔を見る。
「貴方は【
では【
「
「奴は貴方を裏切ったんじゃない。
ならば俺が殺したところで、因果は同じ」
だから。
「……だからどうか、何もかもを一人で背負い込まないで下さい」
この遠征に発つ前甘寧も、そんなことを言ってくれた。
独りになるなと。
周瑜の為に生きて、周瑜の為に死ぬなと。
淩公績も甘寧と同じ心で、自分を独りにさせまいと寄り添おうとしてくれている。
ありがとう、と陸遜の小さな声が聞こえて淩統は少しだけ安堵した。
(もうすぐ戦地に着く。心に刻み込もう)
彼らの与えてくれた優しい言葉を。
周瑜の苛烈な死に際ではなく、いつか穏やかな心で彼の元に、戦勝の報告に行く時のことを。
忘れてはいけない。
独りになってはいけないことを。
死に執着し過ぎれば、きっとこの首は逆に討ち取られる。
この一月心が不安と痛みで、仕方がなかった。
あの苦しみを、甘寧に負わせてはいけない。
(しっかりと目を開いて)
目の前の物事を見つめるのだ。
そして周囲で動いてくれる者達のことも、決して忘れてはいけない。
戦の責任を一身に担う彼のその重荷を少しでも共に背負ってやることが、ここでの自分の使命だ。
蜀に消えた龐統よりも、呂蒙の命が軽いなどということは絶対にない。
(死に取りつかれてはいけない)
孫策や周瑜にはしてやれなかったことを。
心を定めれば、呂蒙にはきっと出来る。
(その為に、私が今ここにいる)
遠い星空を見上げながら、陸遜は誓った。
【終】
花天月地【第2話 星は流れて】 七海ポルカ @reeeeeen13
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