人魚の唇
もも
人魚の唇
好きでこの街に来た訳ではなかったけれど、日常の風景に当たり前のように存在する海のことは嫌いじゃなかった。
鼻の粘膜にべっとりとしがみついて離れない潮の匂い。
この中にどれぐらいの死臭が混ざっているのだろうと考えるのは、楽しかった。
命が生まれる場所は、命が還る場所でもあるのだ。
砂浜を歩けば、たくさんの死に出会う。
例えば、片割れを失った二枚貝。
例えば、根を失ったよく分からない海藻。
例えば、意識を失った人魚。
……人魚?
靴に入り込む砂に疎ましさを感じつつ、私は人魚に近付く。
閉じられた瞼の上で手の平を振ってみても、反応がない。
顔から首、鎖骨、胸、臍へと視線を移動させる。
腰のあたりまではヒトのように見えるのに、そこから下は魚の鱗にしか見えないものにびっしりと覆われていた。
そっと鱗に触れる。
予想外のぬくもりに驚き、思わず手を引っ込めた。
生きている。
私は改めて人魚の顔を見た。
長い睫毛。
濡れた髪や頬にまとわりつく砂。
軽く開いた薄い唇。
人魚など、昔の人々が金儲けのために作り上げた存在に過ぎないと思っていた。
なんだ、本当にいたのか。
この海に人魚が生息しているという話は聞いたことがなかったが、それは私が余所から越してきた人間だから知らないだけなのかもしれない。
昨晩はひどく海が荒れていたから、誤って打ち上げられたのだろう。
意識が戻れば、この人魚は再び海へ戻るに違いない。
死んだモノの気配が色濃く漂う、この海へ。
「ん……」
人魚の瞼がピクリとした。
目覚めが近いのかもしれない。
ヒトであれば太腿あたりにある鱗を一枚、ぺりりと剝がす。
手の甲よりも一回り小さいそれを握り締めると、私は人魚をその場に残したまま家へ帰った。
透明なガラスで作られたプレートの上に鱗を載せ、窓辺にある棚に飾る。
明け方、カーテンの隙間から射す陽の光を受けると、鱗は喜ぶようにきらきらと光を放った。
眩しく熱い昼の陽射しには、シャボン玉の膜に映る虹のような七つの色が浮かび、夜になると空の闇を思わせる重く暗い濁りが全面に広がる。
人魚の鱗はそこにある世界に馴染むように、その見せ方を変えた。
暇さえあれば、私は鱗を眺めて過ごした。
暇がなければ、予定を変更して時間を作った。
右手の親指と人差し指で端を摘まみ、目の前に鱗をかざしながら思う。
人魚はヒトを魅了する。
鱗一枚でこの美しさなのだから、これを何枚も下半身に纏った姿を見れば誘惑に溺れてしまうのは当たり前のことなのだ。
私は鱗を手に、外へ出る。
底の見えない海の上には、いつもより大きな月がかかっていた。
自分と月の間を隔てるようにして、鱗を透かし見た。
青みがかったその色は月の光によるものなのか、夜の静けさを吸い込んだ海によるものなのか。
瞼を閉じて、私は想像する。
潤いに満ちたしっとりとした人魚の唇が、意思を持ってゆっくりと開かれる。
口元から覗く赤い舌にはほどほどに厚みがあって、こちらが同じモノを差し出せば執拗に絡み付き、ヒトの領域を侵してくるのだろう。
自分の唇に右手の人差し指で触れる。
人魚の唇はどんな味がするのか、知りたい。
「ねぇ」
いつのまにかすぐそばに、あの時の人魚がいた。
夜の海など暗くて何も見えないはずなのに、人魚が顔を出している場所にだけ月の明りが照っているように感じる。
「私の鱗を剥がしたの、あなたでしょう」
人魚は剥がされた箇所を見せる様に、腰をグイと持ち上げた。
「それがないと仲間のところへ帰れないのよ。何でもするから返してちょうだい」
人魚は私の心を読んだように、ふふと笑いながら両手を広げる。
その声はこれまでに聞いたどの歌よりも確かな音階を伴い、私の耳をいっぱいにした。
「わかってる癖に」
そう言ってブロックから飛び降りた私を、人魚は優しく抱きとめた。
人魚の腕が背中に回されていることを感じながら、私の身体は重力と勢いのままに沈んでいく。
数えきれないほどの生と死が溶け合い、漂う中、鱗を受け取った人魚は私に顔を寄せ、唇を重ねた。
ついばむ様に、かじる様に、人魚の唇が私の唇をなぞり、貪る。
互いの口から
人魚の唇は、涙のように濃く苦い
人魚の唇 もも @momorita1467
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