水鏡に滲む
蒼
水鏡に滲む
沈んで行く夏の日。ここへ訪れることのできる、最後の一日。
薄い陽炎が田んぼ跡に漂う。 古い木造校舎の窓から差し込む陽光が、埃の舞う教室を白に染める。
開け放たれた窓から、蝉の声が遠く響き、湿った土の匂いが鼻をくすぐる。
「ああ、帰って来たんだな」
男は教壇に立ち、古い黒板を指でなぞった。 チョークの粉を想起させる土埃が指先に付き、懐かしい感触が蘇る。
カーテンを靡かせ吹き込んでくる青い風、チャイムの音、笑い声。 遠い夏の日々が脳裏に映る。
白色ひとつの校舎とは裏腹に、記憶は色鮮やかに響き合う。
七日後、ここはダムの底に——
〝チリン〟
男の呟きを遮るように、風鈴のような音色が響いた。
窓枠に吊るされた錆びた鍵束が、風に揺れて触れ合ったのだ。
誰が最後にこの教室に鍵をかけたのか、もう思い出すことはできない。
だが、その記憶のほころびすらも、ここに流れていた時間の証だった。
男は教壇を降り、鍵束を持つと、廊下へ出る。
板張りの床がわずかに軋み、男はゆっくりと廊下を歩き出した。壁の掲示物はすでに剥がれ落ち、ところどころに画鋲だけが錆びついたまま残っている。
掲示板の下、かつては下駄箱が並んでいたであろう空間には、埃の溜まった蜘蛛の巣が広がっていた。
突き当たり、理科室へ続く重たい扉の前で足が止まる。
小学生の頃、誰かがここで薬品をこぼし、窓を開けてもしばらく鼻にツンと来る匂いが残っていたのを思い出した。今はもう何の匂いもない。ただ、空気だけが過去を包んでいる。
踵を返し、渡り廊下を抜けた先にある中庭へ出る。陽射しが強まり、雑草の間を蝶がゆっくりと舞っている。
その片隅、ひときわ背の低い桜の木が見えた。 そこだけ、時間が止まったようだった。
幹の根元に、石が小さく積まれているのが見えた。
卒業式前日、皆でタイムカプセルを埋めた場所だ。
「十年後、みんなでまた掘り起こそうね。」
誰のものだったかも思い出せない声が、確かに脳裏に響いた。
しゃがみこみ、石をひとつずつ除けていく。掘り返された形跡はない。
ここにある。まだ、ここに。
童心を取り戻すかのような、幾分の高揚感とともに、それは姿を現した。
金属製の小さな箱。錆びは浮いていたが、鍵はかかっていなかった。蓋を開けた。
錆が擦れる嫌な音、乾いた音と共に、過去が溢れ出す。 色あせた写真、ベイブレード、落書きされたトレーディングカード、手紙、ガリガリ君のアタリ、交換ノート…。
そして箱の底に、裏返して隠すように押し込まれた、一枚の封筒があった。
表に返すと、いかにも子どもらしく懐かしい、震える筆跡で、こう書かれていた。
『ぼくが ころした』
男の手が止まる。風が、鍵束を鳴らす。
封筒の中を開く。黄ばんだ便箋に、こう綴られていた。
〝ごめんなさい
ほんとうはじこじゃない
あのとき行かなければよかったのに
ぼくはわざと押した
だれにも言わなかったけどずっとこうかいしてる
しょうらいダムができて
ぜんぶしずんだら
神さまは ゆるしてくれるかな?〟
手紙を握りしめたまま、男は目を閉じた。
誰が書いたのか、分からない。
あの日のことは誰も口にしなかった。
皆、忘れたふりをして、最初から何も無かったように、事故など無かったのだと着飾るように、平穏な場所であり続けるうちに、村を離れた。
七日後には、ここはすべて湖底に沈む。
男は手紙を箱に戻し、蓋を閉じる。
虚空に固定されたように、箱から手が離せず、時間が止まっていたようだった。
どれほどの時間が経ったのか、のどかな廃村には似つかわしくない、エンジンの音が、やまびこのように遠くから響いていた。
ダムの工事関係者だろう。
我に返り顔を上げると、日が傾き始めていた。
男は最後に校舎を振り返った。誰もいないはずの教室の窓に、ふと、誰かの影が見えたような気がした。
風が止んだ。鍵束は、もう鳴らなかった。
その音の消失が、決定的な何かの終わりを告げたようで、男は無意識に指をほどき、錆びた箱をそっと中に戻すと、元通りに石を積み直した。まるで、自分自身の記憶に蓋をするように。
ゆっくりと立ち上がると、ひときわ重力を感じた。手紙の文面が脳裏にこびりつき、業を忘れるなとでも言いたげに、焼き印のように心に残る。
『ぼくが ころした』
「なぜ、見つけてしまったのだろう…。」
誰にともなく呟いたその声は、ひとりきりで記憶を取り戻した男に応えるように、四方を壁に囲まれた中庭に小さく反響した。
男は中庭をあとにし、渡り廊下を渡って校舎へ戻る。夕陽が木造の窓枠に差し込み、廊下に長い影を落とした。
足音はもう、かつての自分のものではなかった。重く、鈍く、迷いのようなものを引きずっていた。
教室に戻ると、鞄の中にあった地図を取り出し、机も椅子も無い伽藍洞の床へ広げた。
赤くマークされた点。それは、この学校の位置だ。水位計算図も添えてある。
七日後、ここは屋上にある錆びたアンテナまで、完全に水底に沈む。
全てをダムの底に沈めれば済む。 そうだ。今までと何ら変わらない、平穏な村のままだ。しかし―—
男はひとり、自身が学んだ教室で、かつて自分の席があった場所で、答えの無い問題の解答を求められていた。
業の出口を求めて彷徨う中、背後の廊下で軋む音がした。
反射的に振り返る。
誰もいないはずの校舎に、確かに足音があった。
静かに立ち上がる。
誰かが、自分と同じように、ダムに沈む前のこの村をひと目見ようと、後をつけていたのか。いや、違う。
身体の奥で何かが軋み、意識が、一点に集中する。
そのとき、手の中の紙が汗を吸い、ぬるく肌に馴染んでいた。
—まだ手紙を握っていたのだ。
そしてその感触が、脳裏に焼き付いたあの文字を呼び起こしていた。
〝いかにも子どもらしく懐かしい、震える筆跡〟
懐かしさを感じたのは、誰よりも見ていたからだ。
あれは、幼い頃の自分の文字に、あまりに似ていた。
本当は気付いていた。忘却の水の中、きっと、こうして向き合う日が来ることを。
記憶の扉が、音もなく開いた。
あのとき、階段の上で子どもらしい、じゃれあいのような喧嘩になった。
皆が止める中で、彼だけが引かなかった。押し合いになり、転がり落ちたのは——
奥底へ沈めていた記憶が、決壊する。
押したのは、自分だった。
〝ぼくが ころした〟
それは、誰かの告白ではなかった。
自分への、未来の自分への、置き手紙だった。
耳鳴りが起きるような、けたたましい沈黙が、教室を支配する。
〝チリン〟
——足元で鍵束が鳴り、風が通り過ぎる。
やっと みつけたんだ。
振り返った男は、言葉が出なかった。呼吸の仕方を忘れていた。
きみは わすれてた。でも、ぼくは ずっと おぼえてたよ。
その声に聞き覚えがあった。
映像が脳に到達するより先に、身体が答えていた。
「ありえない…。」
絞りだした声は、からだの中のあらゆる酸素を吸い取った。
ゆっくりと後ずさる。だが、足は床に縫い付けられたように重い。
きみだけ いなくなったままだったから。
背後の窓が開いた。
瞬間、強い力で突き飛ばされた。
男の体は宙を舞い、校舎裏へと落ちていく。
空が赤く染まり、遠い水面が美しく、きらめいて見えた。
そして、そのまま、沈んだ。
音もなく。浮かび消え行く泡のように、水底に佇む石のように、ただ静かに。
やがてエンジン音が近づき、工事車両が校舎前に停まる。作業員の一人が無線で言った。
「確認終了。明日からの注水、予定通り実施可能です。」
誰も、男の姿を探そうとはしなかった。 まるで初めからそこには、何ひとつ在ったことなどないかのように。
地に落ち、染み込む雨のように溶け込み、記憶の隙間からさえ静かに姿を消していた。
数日後、タイムカプセルも、桜の木も、教室も、彼らも
——全て、ただ、静かに、水の奥へ。
水鏡に滲む 蒼 @ao_nogis
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