第10話 感情の彼岸

 あれから一週間が経った。


 共鳴体質調査課のオフィスは、以前と変わらない日常を取り戻していた。しかし、何かが決定的に変わっていた。


 響は新しいサイレンサーを装着していた。以前より軽く、そして制御しやすい。霧島との共鳴を経て、自分の能力をより深く理解できるようになったからだ。


「新しい案件です」


 ルナが報告書を持ってきた。


「港区で、奇妙な感情汚染が。でも今回は、負の感情じゃないんです」


「ポジティブな汚染?」


「はい。その場所に行くと、なぜか希望を感じるそうです」


 響は微笑んだ。母との対峙以来、負の感情だけでなく、正の感情の異常も報告されるようになっていた。


 まるで、世界のバランスが変わったかのように。


 霧島が会議室から出てきた。


「準備はいいか?」


 彼の雰囲気も変わっていた。感情を完全に制御できるようになり、以前の冷たさが消え、温かみのある表情を見せるようになった。


 三人は現場に向かった。


 車の中で、響は窓の外を眺めながら考えていた。


 母は本当に消えたのだろうか?


 原初の感情は、完全に消滅したのだろうか?


 答えは、否だった。


 響には分かっている。あれは一時的な勝利に過ぎない。原初の感情は、人類が感情を持つ限り存在し続ける。


 そして、いつかまた姿を現すだろう。


 でも、それでいい。


 響は思った。完全な解決など、この世界には存在しない。大切なのは、その都度立ち向かい、乗り越えていくこと。


 現場に到着すると、確かに異常な感情エネルギーを感じた。


 しかし、それは温かく、優しいものだった。


「Em値3200。でも、これは……」


 ルナが驚きの声を上げた。


「複数の感情が調和してる。喜び、感謝、愛情。全部がきれいに混ざり合って」


 響は共鳴能力で読み取った。そして、理解した。


 ここは、小さな公園だった。近所の人々が集まり、子供たちが遊ぶ場所。


 そして最近、ある老人が毎日ここに来て、子供たちに昔話を聞かせていた。


 老人の純粋な愛情と、子供たちの無邪気な喜びが共鳴し、この場所に定着したのだ。


「これは問題ないですね」


 霧島が判断を下した。


「むしろ、守るべき場所だ」


 響も同意した。すべての感情異常が悪いわけではない。時には、美しい奇跡も起きる。


 帰り道、響の携帯にメッセージが届いた。


 送信者不明。しかし、今度は恐怖を感じなかった。


『よく頑張ったね、響』


 文面は短かった。


『でも、これは始まりに過ぎない。レベル6の真の力は、まだ目覚めていない』


『その時が来たら、また会いましょう』


『愛してる ――未来のあなたより』


 響は携帯をしまった。


 未来の自分からのメッセージ。それは警告か、それとも励ましか。


 分からない。


 でも、一つだけ確かなことがある。


 響は振り返り、霧島とルナを見た。


 信頼できる仲間がいる。


 そして、自分の中にある力を、正しく使う意志がある。


 それがあれば、どんな未来が待っていても大丈夫だ。


「どうした?」


 霧島が尋ねた。


「いえ、なんでもありません」


 響は微笑んだ。


「ただ、これからも頑張ろうと思って」


 ルナも笑顔を返した。


「はい! 次はどんな事件が待ってるか、楽しみです」


 三人を乗せた車は、夕日に染まる東京の街を走っていく。


 どこかで、新たな感情の異常が生まれているかもしれない。


 でも、大丈夫。


 共鳴体質調査課が、それを解決する。


 科学で99%を解明し、残り1%の神秘を受け入れながら。


 響は窓の外を見た。


 夕焼け空に、一瞬、螺旋雲が見えた気がした。


 しかしそれは、ただの自然現象かもしれない。


 あるいは――


「結局、1%は説明できないままですね」


 響がつぶやくと、霧島が答えた。


「それでいい。その1%が、俺たちを人間たらしめているんだ」


 響は頷いた。


 そして、新たな事件現場へ向かう。


 今度は、恐れることなく。


 なぜなら響は知っている。


 感情の彼岸に何があろうと、一人ではないということを。


 響のサイレンサーに、微かな光が映った。


 それは夕日の反射か、それとも母親の愛情の名残か。


 あるいは、まだ見ぬ未来からの信号か。


 答えは、誰にも分からない。


 そして、それでいい。


 すべてを知る必要などない。


 大切なのは、感じること。


 そして、共に生きること。


 物語は、ここで一度幕を閉じる。


 しかし、響たちの調査は続く。


 人が感情を持つ限り、永遠に。

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共鳴体質調査課 ようさん @yousanz

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