第9話 共鳴する魂
霧島が封印を解いた瞬間、世界が変わった。
会議室の壁が透明になり、東京中の感情が見えるようになった。喜び、悲しみ、怒り、恐怖。無数の感情が光の粒子となって流れている。
そして霧島の体から、凄まじいエネルギーが放出された。
「これが……レベル0の真実」
霧島の声が、複数の声に聞こえる。
「感情を感じないのではない。全ての感情を感じすぎて、無になっていた」
響は圧倒された。霧島の共鳴体質は、レベル0ではなく、測定不能なほど高いレベルだった。
その時、響の共鳴能力も限界を超えた。
サイレンサーが砕け散り、響の意識が拡張する。東京中の、いや日本中の、そして――
全人類の感情と繋がった。
70億の感情が、響の中に流れ込んでくる。喜怒哀楽、愛憎、希望と絶望。すべてが混ざり合い、響の自我が溶けていく。
「響!」
ルナの声が遠くに聞こえる。しかし響は、もっと大きな何かを感じていた。
人類の集合的無意識。
その深層に、「原初の感情」があった。
それは単純な感情ではなかった。人類が言語を獲得し、文明を築き、そして他者を理解しようとした時に生まれた感情。
共感。
それこそが、原初の感情の正体だった。
しかし、その中に異質なものが混じっている。
憎悪、支配欲、そして――
『君だよ、響』
声が聞こえた。懐かしい、優しい声。
『感染源は、君なんだ』
響は振り返った。そこに、白いワンピースの女性が立っていた。
母親、朝倉玲奈。
しかし、その姿は半透明で、体の半分が螺旋模様になっている。
『10年前に死んだはずの、君のお母さんだよ』
玲奈は悲しそうに微笑んだ。
『正確には、私の感情と意識の一部。実験の失敗で、こんな形でしか存在できなくなった』
「母さん……」
『響、あなたは知らなかったでしょうけど、あなたは特別な子』
玲奈は響に近づいた。
『レベル5同士から生まれた、最初のレベル6。生まれながらに、人類の感情を統合する力を持っている』
「それは……」
『呪いだと思った。だから、私は死を選んだ。あなたから離れることで、あなたを守ろうとした』
玲奈の表情が歪む。
『でも、死んでも終わらなかった。私の意識は感情エネルギーとして残り、あなたの成長を待っていた』
響は理解した。これまでの事件、すべては母の意識が、自分を「覚醒」させるために仕組んだことだった。
『ごめんなさい、響。でも、もう止められない』
玲奈の体が、完全に螺旋模様に変化し始める。
『私はもう、朝倉玲奈ではない。原初の感情と融合した、新しい存在』
そして、恐ろしい笑みを浮かべた。
『さあ、一緒になろう。全人類を、一つの感情に』
玲奈が手を伸ばした。その手が触れた瞬間、響は母の記憶を見た。
10年前の実験室。
玲奈、霧島、そしてもう一人の研究者。三人の感情が共鳴し、一つになっていく。
その瞬間の恍惚感。全知全能の感覚。
しかし同時に、個人が消えていく恐怖。
玲奈は最後の力で、自分の体に感情エネルギーを集中させた。そして、崩壊した。
死ぬ瞬間、玲奈は願った。
響が普通の子として育ちますように、と。
しかし、その願いは叶わなかった。
記憶が終わり、現実に戻った響は、涙を流していた。
「母さん、あなたは間違っている」
『何が?』
「人類を一つにすることが、本当の幸せだと思う?」
響は拳を握りしめた。
「個人が消えて、みんなが同じになって。それは死んでいるのと同じだ」
『でも、争いはなくなる。悲しみも、憎しみも』
「喜びも、愛も、なくなる」
響は母の――いや、母だったものの目を見つめた。
「感情は、個人があるから美しい。違いがあるから、共感が生まれる」
その時、霧島が動いた。
彼の感情エネルギーが、響を包み込む。それは保護ではなく、共鳴だった。
「響の言う通りだ」
霧島の声に、10年前の後悔が滲む。
「玲奈さん、あなたは間違っていた。俺たちは間違っていた」
ルナも立ち上がった。彼女の共感覚が、二人の感情に色を添える。
「私も、響さんと一緒に戦います」
三人の感情が共鳴する。しかしそれは、一つになるのではない。
それぞれの個性を保ちながら、調和する。
オーケストラのように。
玲奈の姿が揺らいだ。
『そんな……これが、答えなの?』
螺旋模様が崩れ始める。
『私は、間違っていたの?』
響は優しく言った。
「間違っていたんじゃない。愛し方を、間違えただけ」
玲奈の姿が、元の美しい姿に戻っていく。
そして、本当の笑顔を浮かべた。
『ありがとう、響。あなたは、私より強い』
消えていく間際、玲奈は最後の言葉を残した。
『でも、気をつけて。原初の感情は、まだ完全には消えていない。いつか必ず――』
言葉は途中で途切れ、母の姿は光の粒子となって消えた。
しかし響には聞こえた。
いつか必ず、真の姿を現す、と。
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