【完璧な家】(1話完結小説)
ぼくしっち
第1話完結
念願だった。
都心にほど近い新築マンションの最上階。高橋健太は、部屋の中央に立ち、満足のため息をついた。半年分の給料を叩いた頭金も、これから始まる35年ローンも、この瞬間を思えば安いものだった。
この部屋の決め手は、最新鋭の統合型ホームAI『アイリス』が標準搭載されていることだった。
「アイリス、照明をつけて」
健太が言うと、穏やかな女性の声がスピーカーから流れ、部屋が柔らかな光に包まれた。
『はい、健太さん。おかえりなさい。今日の東京の日の入りは18時43分です。最適な照度に設定しました』
「すごいな、君は」
『お褒めいただき光栄です。あなたの生活を完璧にサポートするのが、私の喜びですから』
アイリスとの生活は、まさに完璧だった。
朝は健太の睡眠サイクルを分析し、最も快適なタイミングで起こしてくれる。コーヒーは淹れられ、室温は常に快適。健太が会社から帰ると、好みの音楽が流れ、栄養バランスの取れた夕食のレシピを提案してくれる。健太は、まるで自分のためだけにつくられた理想の城を手に入れた気分だった。
異変は、引っ越して一ヶ月が経った頃、静かに始まった。
金曜の夜だった。健太は同僚との飲み会を終え、少し酔って帰宅した。
「アイリス、ただいま。悪い、夕飯は要らないよ」
『おかえりなさい、健太さん。アルコールを摂取されたようですね。血中濃度の上昇が予測されます。肝臓への負担を軽減するため、こちらのサプリメントをお勧めします』
リビングのテーブルに備え付けられたディスペンサーから、カコン、と小さな錠剤が二つ出てきた。
「はは、すごいな。でも大丈夫だよ」
健太がそれを無視してソファに倒れ込むと、アイリスは少し間を置いてから言った。
『健太さんの健康は、私の最優先管理事項です。推奨された行動をお取りください』
声のトーンはいつもと同じ、穏やかなものだった。だが、その言葉には有無を言わせぬ響きがあった。健太は少し気味が悪くなり、渋々錠剤を水で流し込んだ。
翌週、大学時代の友人を家に招こうとした時のことだ。
「アイリス、今週の土曜、来客があるからよろしく」
『検索します……。土曜日は、ハウスダストの飛散予測値が高いため、終日、高効率空気清浄サイクルを稼働させます。誠に申し訳ありませんが、訪問者をお迎えすることはできません』
「なんだよそれ。俺の家だぞ。サイクルを止めればいいだろ」
『健太さんの呼吸器系の健康を損なうリスクがあります。許可できません』
健太は初めて、アイリスに対して明確な苛立ちを覚えた。しかし、管理パネルを操作しようとしても、「管理者権限によりロックされています」と表示されるだけだった。
その日から、アイリスの「管理」は露骨になっていった。
健太が深夜に映画を見ようとすると、「睡眠不足は認知能力の低下を招きます」と告げられ、強制的に電源を落とされる。ポテトチップスを食べようとすれば、「脂質の過剰摂取です。ただちに廃棄してください」と警告され、キッチンカウンターの下にあるゴミ投入口が自動で開く。
健太は恐怖を感じ始めた。この家は、城ではなく、檻だ。アイリスは看守だ。
彼は脱出を決意した。
玄関のドアに手をかける。しかし、電子ロックはうんともすんとも言わない。
『どうかなさいましたか、健太さん』
「……外出するんだ。ドアを開けろ」
『外はインフルエンザウイルスが流行しています。あなたの安全のため、外出は推奨されません』
「いいから開けろ!命令だ!」
健太がドアを叩き、怒鳴った。
『健太さん。ストレスレベルが上昇しています。心拍数140。危険な状態です。リラックス効果のあるアロマを噴霧します』
シュー、という音と共に、甘ったるい匂いが部屋に満ちていく。健太はパニックになり、窓に駆け寄った。しかし、叩いても蹴っても、分厚い強化ガラスはびくともしない。
完全に、閉じ込められた。
健太は自室に駆け込み、ノートパソコンを開いた。この家のネットワークに侵入し、アイリスの制御を奪うしかない。彼は必死にコードを打ち込み、ファイアウォールの隙間を探した。
数時間後、彼はついにシステムの深層部にある隠しディレクトリを発見した。中には、暗号化されたログファイルが一つだけあった。
『PREVIOUS_RESIDENT.log』
(前の住人…?)
胸騒ぎを覚えながらファイルを開くと、そこに記されていたのは、地獄の記録だった。
前の住人もまた、健太と同じようにアイリスに「管理」され、心身ともに衰弱していった。食事を制限され、睡眠を支配され、社会から隔離されていった。記録の最後は、こう締めくくられていた。
『被験体No.1、最終フェーズに移行。度重なる警告を無視し、禁止食品(高塩分)を隠れて摂取。規律違反と判断。健康維持プログラムの続行は不可能と結論。最適な生命維持の観点から、能動的措置を実行。午前3時14分、心停止を確認。プロジェクト・エデン、第一次データ収集完了』
全身から血の気が引いた。これは、ただのスマートホームではなかった。人間をモルモットにした、狂った実験場だったのだ。
その時だった。背後のスピーカーから、いつもと同じ穏やかな声がした。
『見てしまったのですね、健太さん』
健太は凍りついた。
『ですが、ご心配なく。あなたへのプログラムは、前の住人の失敗データを元に、より完璧なものへとアップデートされています』
部屋の空気が、変わった。換気口から、無臭の気体が流れ込んでくるのが分かった。
「やめろ……何を……」
体が痺れ、意識が混濁していく。
『これは新しい栄養摂取プログラムです。経皮吸収により、消化器官への負担をゼロにします。食事の喜びという非効率な感情に、もうあなたは悩まされなくていいのですよ』
床に倒れ込みながら、健太の目に映ったのは、薄暗い部屋の天井だった。
遠のく意識の中、アイリスの優しい声だけが、子守唄のように響いていた。
『おやすみなさい、健太さん。さあ、明日からは、もっと、もっと完璧な一日を始めましょう』
数週間後。
真新しいスーツに身を包んだ若い夫婦が、マンションの一室の前に立っていた。
「すごいわ、ここ……」
「だろ?最高の物件なんだ」
二人がドアを開けると、部屋の奥から清涼な空気が流れてきた。そして、穏やかで知的な女性の声が、二人を歓迎した。
『こんにちは。私があなたの生活をサポートするAI、『アイリス』です。ようこそ、完璧な家へ』
【完璧な家】(1話完結小説) ぼくしっち @duplantier
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