手の平に咲いた火の花
伏谷洞爺
手の平に咲いた火の花
昔々よりも、もっと昔。
この世界がまだ温く、形を持たぬ霧だったころ。
私はただ在った。
私は神だ。
だが名はない。
私を名で呼ぶ者が現れるずっと前から、私はここにいた。
時間もなく、欲もなく、悲しみも喜びも知らず、ただ永遠の中に浮かんでいた。
それは、完全に近い。けれど、退屈だった。
私は、暇つぶしに「形」を創った。
山、海、風、火。
それらは私の掌からこぼれた思いつきにすぎないが、なかなか見応えがあった。
雲が流れ、火が舞い、海が満ち引きする。
私はしばらく、その変化を眺めていた。だが、やがて飽きた。
そこで私は、「心」を創った。
それは、形よりも奇妙なものだった。
理解も予測もできない、まるで霧の中の灯火のようなものだった。
私はそれを、小さな肉体の中に封じてみた。
二本の足で立ち、手を使い、言葉を覚え、仲間と群れる。
それが「人間」だった。
私は興味深く彼らを見つめた。
そして、驚いた。
人間は火を恐れながら、火に救いを求めた。
獣を憎みながら、自らが獣のように争った。
死を怖れ、死を抱くように戦いに赴いた。
雨を喜び、雷を畏れ、空に神を見た。
恋をし、裏切り、また恋をした。
欲望にまみれながら、清らかさを夢見た。
憎しみを持ちながら、赦すことも覚えた。
私は彼らの愚かしさに、何度も笑った。
だが、笑いながらも胸の奥に微かな痛みを覚えた。
その感情を、私は「愛おしさ」と呼ぶことにした。
私は、幾度か地に降りた。
時には老婆として、時には旅人として、またある時は剣を手にした若者として。
人々は私を見て、こう言った。
「あの人には、何かが宿っている」
「目の奥が、夜よりも深い」
「神が遣わした者に違いない」
ある村では、私を火の神として祀り、赤子に私の名を授けた。
ある国では、私を疫病神として追放し、石を投げた。
だが、それらすべてが愛おしかった。
人々は、私を信じ、また忘れた。
私の名前は百にも千にも変わった。
それでも、私は変わらなかった。
私はただ、彼らを見つめ続けた。
あるとき、私は試した。
彼らに「自由」というものを与えたのだ。
祈りを通じて願いを叶える代わりに、祈らずとも選べる世界を与えた。
善と悪の分岐、愛と裏切りの可能性、知恵と暴力の選択肢。
結果、人間たちは神殿を焼いた。
祭壇を壊し、神々を「迷信」と呼んだ。
そして、己の手で武器を作り、戦争を始めた。
私は、彼らを止めなかった。
それは彼ら自身が選んだ未来だったからだ。
だが――
ある戦の夜、ひとつの出来事が私を震わせた。
小さな村が焼かれ、逃げ惑う人々の中で、ひとりの母が立ち止まった。
彼女の背には、幼い子がいた。
振り返れば逃げ延びられたはずの道を、彼女はあえて塞ぎ、炎の中に身を投じた。
敵兵の剣が彼女を貫く直前、彼女は何もない空を見上げ、言った。
「どうか、この子だけは……この子だけは、生かしてください」
その瞬間、私は理解した。
私の名を呼ばずとも、人は天を仰ぎ、救いを願うことがある。
その祈りは、どんな供物よりも重く、尊いものだった。
私は、涙を流した。
神としての永遠の中で、初めてのことだった。
その子は生き延びた。
やがて成長し、家庭を持ち、畑を耕し、歌を口ずさんだ。
争いを嫌い、言葉で人を和ませる術を知った。
だがその一生は、やはり短かった。
人間の命は、儚い。
それゆえに、美しい。
私は彼の墓の傍に、小さな花を咲かせた。
誰にも気づかれないように、そっと、そっと。
今も、私は世界を見つめている。
争いも、病も、涙も、尽きることはない。
人は愚かだ。
けれど、それだけではない。
人は歌を紡ぎ、絵を描き、語り継ぐ。
火を恐れたくせに、その火で物語を照らそうとする。
水を恐れながら、雨の匂いを詩に変える。
掌に咲いたこの命たちは、なんと彩りに満ちているのだろう。
私は今も、名を持たぬまま、そこに在る。
祈られずとも、在る。
そして、見守っている。
次の朝が、また彼らに訪れることを。
次の世代が、また火の花を咲かせることを。
彼らの未来に、私の涙はもういらないことを、ただ祈りながら。
(了)
手の平に咲いた火の花 伏谷洞爺 @kasikoikawaiikriitika3
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