隣の音
ぼくしっち
第1話(1話完結)
俺がそのアパートに越してきたのは、初夏のことだった。
都心から少し離れた、木造二階建ての古い建物。決め手は、なんといっても家賃の安さだ。在宅で仕事をする俺にとって、静かな環境と安い固定費は何よりありがたかった。
俺の部屋は二階の角部屋、202号室。隣は203号室。
引っ越して数日経った夜、隣から物音が聞こえてきた。トントン、と何かを叩くような音。続いて、椅子を引くような、ギィ、という軋む音。
(ああ、壁が薄いんだな)
その時は、それくらいにしか思わなかった。隣にも人が住んでいる。当たり前のことだ。
それから毎日、隣の音が聞こえるようになった。
夜中に響く、くぐもった咳払い。早朝に聞こえる、床をズルズルと引きずるような音。時折、壁の向こうで何かが床に落ちたのか、ドン、と鈍い衝撃が伝わってくることもあった。
顔も知らない隣人だったが、その生活音から、なんとなく不規則な生活をしている人なのだろうと想像していた。俺も似たようなものだから、お互い様か、と気にしないように努めた。
異変に気づいたのは、一ヶ月ほど経った頃だ。
その日、俺は深夜まで仕事に追われていた。静まり返った部屋でキーボードを叩いていると、隣から、いつものように音がした。
コツ、コツ、コツ……。
壁を、爪か何かで引っ掻いているような、神経質な音だった。それが延々と続いている。さすがに気味が悪く、集中力が削がれていく。
イラ立ちが募り、俺は思い切り壁をドン!と殴った。
「うるさいぞ!」
瞬間、音はピタリと止んだ。
静寂が戻る。俺は「やりすぎたか」と少し後悔しながらも、仕事に戻ろうとした。
その時だった。
コン、コン。
自分の部屋のドアが、控えめにノックされた。
心臓が跳ねた。こんな夜中に、誰だ? 隣の住人が、文句を言いに来たのか。
俺は息を殺してドアに近づき、恐る恐るドアスコープを覗いた。
誰もいない。
薄暗い共用廊下が伸びているだけだ。風のせいか、あるいは聞き間違いか。
そう思い、ドアから離れようとした、その時。
コン、コン。
また、ノックの音がした。今度はさっきより、少しだけ強い。
間違いなく、俺の部屋のドアが叩かれている。
もう一度スコープを覗く。やはり、誰もいない。廊下の豆電球がチカチカと瞬いているだけだ。
背筋に冷たい汗が流れた。ドアチェーンをかけたまま、俺は震える声で尋ねた。
「……ど、どなたですか?」
返事はない。
ただ、ドアの向こうから、ズル……ズル……と、何かを引きずるような音が聞こえる。それは、いつも隣の203号室から聞こえてくる、あの音だった。
音が、廊下を遠ざかっていく。やがて、隣の部屋のドアがギィ…と開いて、バタンと閉まる音がした。
翌日、俺は眠い目をこすりながら階下の大家さんの部屋を訪ねた。昨夜のことは怖くて言えず、当たり障りのないように切り出した。
「すみません、隣の203号室の方って、どんな方です? ちょっと物音が気になって…」
人の良さそうなおばあちゃんである大家は、きょとんとした顔で俺を見た。そして、ゆっくりと首を横に振った。
「あら、健太さん。203号室は、もう五年も空き部屋よ」
血の気が引いていくのがわかった。
「え……? でも、毎日、物音が……」
「おかしなこと言うねえ。あそこは前の住人が孤独死してから、借り手がつかないのよ。気持ち悪いって、みんな避けるから」
大家の言葉が信じられなかった。じゃあ、俺が毎日聞いていたあの音は? 昨夜、俺の部屋をノックしたのは?
混乱する頭で自室に戻ると、部屋の真ん中に、一枚の紙が落ちていた。
朝、家を出る時には、確実になかったものだ。拾い上げると、それは古い便箋の切れ端のようだった。鉛筆で書かれたような、拙い文字が並んでいる。
『つぎは きみの ばん』
俺は絶叫した。
その日を境に、音は俺の部屋の中から聞こえるようになった。
壁の中から聞こえる、爪で引っ掻く音。誰もいないはずのクローゼットから聞こえる、すすり泣く声。ベッドの下から聞こえる、ズルズルと何かを引きずる音。
そして、今も。
俺の背後で、椅子がギィ、と軋む音がしている。
俺はもう、振り返ることができない。
隣の音 ぼくしっち @duplantier
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