その翡翠き彷徨い【第46話 ある少女の独白】

七海ポルカ

第1話



 ……これは私が十五歳の時のことです。



 私の家はサンゴール地方の更に北にあるディノビアという街で宿屋をしていました。

 ディノビアはベルイード渓谷を避けて、陸でマルメ港を目指す陸路の道中にあるので、その中継場所として旅人がとても多い街です。

 宿屋や酒場には年中旅人が集い、賑やかな街でした。

 旅人を見るのが私は幼い頃から好きでした。

 屋根裏に与えられた自分の部屋から、街の通りを見下ろして旅人を見つけると、あの人はどこから来てどこを目指すのだろうと、想像したりするのが大好きだったのです。


 ある夜のことです。


 すでに深夜でした。

 酒場は閉じる時間になったので、私はベッドから出て下へ下りて行きました。

 これは宿屋の娘である私にとっては日課のことで、その日も何も変わったことの無い普通の日だったと思います。


 奥で食器を洗っていると入り口の扉の鈴が鳴った気がして、店内の方を覗いてみると一人の男の子が突然ふらりと入って来たのです。

 彼は床を拭いていた私の母に突然入って来たことを詫びてから、掃除の手伝いをするので何か食べさせてほしいと言って来ました。

 旅人が多い街なので、お金のない人が苦し紛れに飛び込んで来ることはあまり珍しいことではないのですが、男の子が一人でというのは初めてのことでした。

 宿屋の裏で水を汲んでいた父が戻って来ると少年はもう一度、朝までに掃除を済ませるから、椀一杯の食べ物を食べさせてほしいと同じことを言いました。


 身なりは酷く汚れていて、疲れたような顔をしていました。

 父と母は困ったようでしたが、結局少年が深く頭を下げて頼むので、それを承諾しました。

 まだ困惑したように様子を窺う父と母の前で、男の子は母から雑巾を受け取ると何かもう懸命に、何も考えず床やテーブルを拭き始めました。

 歳は……よく分かりませんが十五歳前後くらいかと思います。


 しばらく父はそれを見ていましたが、母にカウンターを片付けるように言うと、自分はまた裏口の方に戻って行きました。

 私は食器を片付けると、部屋に戻って眠りなさいと上へ戻されてしまいましたが、一度ベッドに入って、空の色がうっすらと変わり始めた数時間後、どうしてもその男の子のことが気になって、もう一度こっそり下へと下りて行きました。


 男の子は机を片付けて窓を拭いている所でした。

 思ったより店内は綺麗になっていました。

 彼は何も喋らず黙々と雑巾を動かし続けていました。

 しばらくして母がもう掃除は終わりでいいと声を掛け、男の子をカウンターに座らせました。


 そしてそこに食事を出してあげました。

 椀一杯でいいと言っていた男の子はちゃんとした料理が並んだのに驚いて、少し俯きがちにお金を全く持っていないので、こんなに頂けませんと正直に言いましたが、母はいいから食べなさいと男の子に勧めました。

 男の子はありがとう、と言ってフォークを持って食事をしようとしましたが、なかなか手が進みません。

 そうするとしばらくして母がまた声を掛けました。


「……どうしたんだい? 食べられないかい?」


 男の子は慌てて首を振りました。

 口に物を運びますが、やっぱり辛そうな感じがしました。

「あんた……しばらく食べてないんじゃないかい?」

 男の子は少しの間、熱を出して寝込んでいたから三日ほど食べてない、と言いました。

 すると母は一声かけて厨房の方に入って行きました。

 十分ほどして、完全に男の子の手が止まっている所へスープを持って出て来ました。

「突然お腹に物を入れちゃダメよ」

 母がスープを勧めると、男の子はゆっくりそれに手を伸ばしました。

 それは食べれたようで、母も安堵したような顔をしました。


 そのうちに父が戻って来て、母と男の子がいるのを見ると、今日は風呂に入って空いている部屋で寝るといいと言いました。


 父がお客さん以外を客室で寝かせていいということは、今までにありませんでした。


 その日から数日男の子は家にいて、宿と酒場の手伝いをしていました。

 無口ですがよく働く子でした。


 三日間の夜、酒場を片付けると、父と母が少年にどこから来たのかを聞いていました。

 南の方から来たと男の子は言いましたが、多くのことは話さなかったようです。


 ただ、マルメに行って船に乗るつもりだとだけ答えました。


 父は、冬はベルイード渓谷が雪で通れなくなるので、陸路でマルメへ向かう旅人が増えるから酒場や宿では人手が足りなくなる、そんなに金は出せないが、しばらくここで店の手伝いをしないかと男の子に言いました。

 人手が足りなくなるのは事実ですが、私が手伝うので今までうちで人を雇ったことはありません。

 でも母は、何も言わずに父に任せていました。

 男の子はありがとうございます、と父と母に深く頭を下げました。


 身の上は話しませんでしたが「メリク」とだけ名前を言いました。


 彼はその日から、裏手にある物置小屋を少し片付けて、そこを寝る場所に使っていました。

 一月ほどのことだったと思います。

 男の子はよく働きました。

 一週間もすれば、母は男の子だと重い仕事も任せられて助かると笑ってみせたほどです。

 父がなにか仕事を任せると、それをしっかりとやりました。

 一日中店を手伝い、片付けまでしてお風呂に入り眠って、朝早くちゃんと起きて働いていました。

 最初はひどく汚れて入って来たので母は心配していましたが、男の子が礼儀正しいのでちゃんとした教育を受けた子なんじゃないか、と言いました。

 父はだが、ただ良い家の子という感じでもないな、と言っていました。


 一月ほど経ったある日の朝起きると、男の子の姿がありませんでした。


 カウンターにこの一月で父が男の子に払ったお金が、小袋に入れて置いてありました。

 そこに一緒に置いてあった手紙に『マルメから船で西の方へ渡るつもりなので、船に乗るお金だけいただきます。本当にお世話になりました』と、とても綺麗な字で書いてありました。


 その男の子の字を初めて見て驚きました。

 こんなに綺麗な字を書く人を、私は見たことがありませんでした。


 母は、黙って出て行くような子には見えなかったが、と言っていました。

 父は、言えない事情が何かあったんだろう、と言っていました。


 少年が使っていた小屋は綺麗に片付けられていて、使っていた毛布もきちんとたたまれていました。

 積み上げていた木箱の間に隙間があって、彼はここでいつも身体を丸めて眠っていたのです。

 私はそこにちょっと座ってみました。

 上を向くと丁度見上げたそこに天窓が見えました。

 ぽっかりと月が浮かんでいました。

 その時初めて、あの男の子が毎日こうやって、ここから月を見上げて眠っていたのだと分かりました。


 何か言えない事情があったのだろう、という父の言葉がひどく胸に響きました。

 そして私はその時、月を見上げながら少しだけ涙が零れたのです。



 ……あれからどのくらい時が経ったのか。



 私は今、初めて生んだ自分の娘を見下ろしながら晴れなくなった空に時々、もうずっと忘れていたその出来事を思い出します。

 聖キーラン歴1000年、世界は災厄に見舞われて、それからすでに五年の時が経とうとしています。


 突如として空を一面の厚い霧が覆ったこの世界で、各地では不死者や魔物が人間を襲い続けていると言います。

 このディノビアは更に北のエルヴァレーと西のアルミライユ山岳地帯に軍を張った、サンゴール王国軍が防衛線となって、一応まだ不死者の侵攻は受けていませんが、それが破られれば、すぐに魔物の手が伸びるだろうと言われていました。


 ほとんどの人がまだ不死者が少ないという、西の大国アリステアを頼り逃れて行く中、それでも私の父は、ディノビアはマルメへ向かう陸路の要所であり今――この霧を晴らそうと北へ向かう、大勢の勇敢な冒険者達を助けなければならないと、すっかり寂びれてしまった街でも、まだ宿を続けています。


 街は寂びれましたが、旅人は絶えませんでした。


 不死者や魔物は北からやって来ていると言われています。

 このディノビアを過ぎれば危険も格段に多くなります。

 それでも若者達は北を目指しました。

 平和を願うだけではこの霧は晴れないのだと、彼らは気づいたからです。


 ここを旅立ったら二度と戻って来ない人も多く、私は彼らの一人一人の顔を、しっかりと見送って覚えておこうと思うようになりました。


 何て不幸な時代に生まれたんだろうと誰もが思っているでしょう。

 私もそう、思います。

 

 ……でも、それでも最近、こうして生まれたばかりの娘が、何も考えずにあどけない顔で眠っている姿を見ると、無性に幸せな気分になるのでした。


 霧の災厄が始まってから生まれた私の娘は、太陽も月の光も知りません。

 それでもこんなに幸せそうな顔で笑い、眠ります。

 私や父母や、夫がいて、彼女に愛情を注いでいるからだと思っています。


 自然の光がなくても人は人の愛情があれば、笑って生きていくことは出来るのです。

 でも、もし人の愛情が得ることの出来ない人がこの世にいるのなら……この光の無い世界をどんなに冷たく感じるでしょう。



 ……名前しか名乗らず、一人旅立ったあの男の子。



 マルメに辿り着き、船に乗り西へ行けたのかも消息は全く分かりません。

 何か私には考えつかないほどの、重い何かを背負っていたように今では思います。

 世の中にはそうでありたいと望まなくても、孤独に生きなければならない人がきっといるのです。


 彼の心は月の光が支えていてくれたのに、その光が地上を照らさなくなった今……あの少年はどこでどうしているのだろうかと、私は幸せな日常の合間にも時々思うのです。


 照らさなくなった光の代わりに誰かが彼の側にいて、

 愛情を与えて、支えて、一緒に笑ってくれていればいいのにと思っています。


 そしていつかこの厚い霧が晴れて、世界中の孤独な人の心をまた空の光が照らしてくれればいいと私は願っています。



【終】

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