終章:ゆらぎの果てで

 風が止んでいた。

 いや、それすらも最初から吹いていなかったのかもしれない。神代梓はその境界に立ち尽くし、ただ無音の空間に自身の心音だけを聞いていた。残された者の静寂は、思考を濁すには十分だった。


 他の隊員はもういない。三枝、榊原、凛、結菜──すべて、彼女の視界から消えていた。いや、名前だけが記録されていて、実在が霞のように揺らいでいる。


 この先にある“重力中心”──ゾーンの核。それを観測できたとして、彼女は何を理解できるのだろうか。

 足元の地面は、いつのまにかコンクリートから畳、畳から錆びた鉄板、そして今は苔に覆われた石畳へと変化していた。時代が歩くたびに、すり替わっていく。


 


 それは唐突だった。

 沈みかけた太陽の光が差し込む瓦屋根の向こう、崩れた歩道橋の影から、何者かが現れた。黒いジャンパー、いつかの笑い皺、少しだけ照れた眼差し。それは、神代梓の兄、神代拓真だった。


「に……兄さん……」


 声にならないまま、彼女は歩き出す。

 兄は変わらぬ様子で立っていた。微笑みも怒りもなく、ただ神代を見つめていた。


「まだここにいたんだな」


 兄の声が、静かに響いた。


「……私……兄さんは、どうして──」


「わからない。けど……ここに立ってた。お前が来るって、知ってたんだ」


 梓はその姿に手を伸ばした。だが、指先がわずかに空間にズレるように揺れ、兄の肩をすり抜ける。

 存在はあるのに、接触はない。記録か幻か、それとも未来の余熱か。


「あなたは……本当に兄さんなの?」


「俺は……“お前の記憶が創った”俺なのかもしれない」


「違う……違うと思う。そんなふうに笑うの、記憶だけじゃ足りない」


 兄はふっと微笑み、歩き出す。梓はそれに続く。廃墟の中に、ふたりの影が伸びていた。

 そして、彼女たちの歩む道が、ゆっくりと変質し始める。



 時間が、巻き戻る。

 積み上がったビルが逆流し、崩壊した屋根が修復され、開通した電車が空を走る。

 古代の石柱、昭和の公団住宅、未来の透明建築、すべてが同時に存在し、一瞬だけ“巨大な都市の幽霊”を形成する。


 梓はその中心にいた。

 自分がここにいつからいるのか、記憶が滑り始めていた。

 兄の足音が遠ざかる。


「待って……行かないで」


「大丈夫だ。お前は、まだ“存在”してる。……少しの間だけな」


「もういいよ。たぶん、私はもう、“記録”になってたのかもしれない」


「記録でいい。お前が俺を見つけてくれた。それだけで十分だ」


 梓は微笑んだ。その表情を、兄もまた静かに受け取る。


 光が、周囲を包む。


 空がひっくり返り、ビルが折り畳まれ、都市の骨格が再構築されていく。


 その瞬間、シャッター音が一つ、遠くで響いた。


 ふたりの姿が、何かに“記録”されたような、確かな音だった。


 




 境界基地のモニタールーム。

 回収されたポラロイドが、無人の机の上に置かれていた。

 そこには、梓と兄の拓真が背を向けて並んでいる姿が写っていた。


 誰がシャッターを切ったのかは、記録に残っていない──

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観測不能領域:The Singularity Zone 空栗鼠 @plasticlabel05

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