第4章:記録と存在
誰かの視線を感じた。
だが、振り向いても、そこには誰もいなかった。
結菜の手が震えていた。ポラロイド写真を持つ指先に、じっとりと汗が滲んでいる。
写っているのは、数分前に撮影した神代の姿──のはずだった。だが、そこにはレンズを見つめ返す神代梓の姿が映っていた。そこに写る梓の目はじっと結菜を見ている。そして、その目には明らかな殺意を感じた…
「……なに、これ……?」
結菜は小さくつぶやき、数歩後ずさった。梓が一歩踏み出すと、彼女はぴたりと身を固めた。
「結菜さん……待って。私じゃない、そんなつもりじゃ──」
「近づかないで!私に何するつもり!?」
結菜の声が上ずる。
「なんなの、この写真……あなた、いつから……」
梓は言葉を探したが、どこにも見つからなかった。何かを否定しようとしても、ポラロイドの梓は、あまりに無表情だった。
「三枝さん、何か言って……! ねぇ、どうして止めてくれないの?」
結菜は、隊の広報官にすがるような目を向けた。だが、三枝は無言のまま、静かに視線を落とした。
その沈黙が、何よりも重かった。
「……そう。もう、みんなおかしくなってるんだ」
結菜は一歩、二歩と後ずさると、ついに背を向けた。
誰も、その背中を追いかけなかった。
やがて彼女の姿は、ねじれた建築の影に紛れ、消えていった。
榊原剛士は、隊から少し離れた場所で、手帳を握りしめている。そして、握りしてた手を広げ、虚ろな目で、紙を見つめた。
「俺……俺、自分の名前を……書こうとしても、書けなくてさ……」
榊原の言葉が独り言なのか、自分に向けられたものなのか一瞬わからなかった梓は、視線を榊原に向けた。
「最初は夢かと思った。でも、違うんだ……これ、俺が書いてるんだよ。書いた記憶もある。でも……誰の言葉なんだ、これ……?」
榊原の視線が宙を彷徨う。
そして彼は、ポケットから一つの注射器を取り出した。
梓は急いで榊原の方へ駆け寄ったが、榊原は梓のことなど存在しないかのように、注射器を自らの首筋に打ち込んだ。
「この場所は、すでに俺たちを忘れてる」
最後の言葉とともに、榊原は崩れるように地面へと倒れた。
梓は駆け寄ったが、すでに彼は息をしていなかった。榊原の手に握りしめられていた手帳の最後のページを覗き込んだ梓言葉を失った。
《榊原剛士による最後の記録》
∵|∵|∵|∵|
▣ ▣ ▣ ▣ ▣
■→■→■→◎→(?)
言葉の川が きえて
わたし ゐな た とと
たれ みてる
≠≠≠≠≠≠≠≠
〔××××〕(→)
まなざしが つづいて いる
わたしの外に わたしがいる
わたしが
わたしを
わた
𝚠𝚊𝚝𝚊𝚜𝚑𝚒:𝚕𝚘𝚜𝚝
(ページ全体に描かれた無数の円、線、×印、目のような記号)
梓は無言でその記録を読み終えた。
というより、“読もうとした”。
内容は言語としての体を成しておらず、意味というより“痕跡”に近い。
「これは…一体なんなの……?」
梓の声は、震えていた。
「文章じゃない……これ、なにかに追いつめられた人の“頭の中”そのものだ……」
だが、ページの隅に描かれた奇妙な“円の中の目”に、目を奪われていた。
——見ている。
そう、“外側”から、常に誰かがこちらを観測しているような感覚。ゾーンに入ってから、何度も覚えたあの気配。
そのとき、ふいに風が吹き抜け、記録紙がひらりと舞った。目のような図形が、空気に溶けるように、ひとつだけ宙に浮いたように見えた。
梓はそれを拾い上げ、軽く目を閉じた。
榊原剛士——
知的で、傲慢で、言葉に執着した人間。
理性という砦を、自ら築いて、その中で沈んでいった男。
榊原の最後の記録は、分析不能として処理された。
だが梓は、その断片のひとつを自分のノートに貼り付けて保管している。その目の図形が、まだこちらを見ているかもしれないという違和感を抱きながら。
ゾーンは、すべてを呑み込む。記憶も、言葉も、そして理性さえも。
だが——それでも、見る者がいる限り、観測は終わらない。
三枝は、崩れた建物の影で残った記録機材を整えてはじめた。
結菜の映像ログには、存在しないはずの“もうひとつの影”が映っていた。
榊原の音声記録は、文字起こし不能な断片の羅列。
神代梓の行動記録は整然としていたが、その沈黙の多さが逆に不気味だった。
三枝はため息をつき、ログファイルの一部を“参照不能”にマークした。
——真実を残すことが目的ではない。
“持ち帰れる形にする”ことが、今の自分の仕事だ。
でも今回は、心のどこかで思っている。
本当に何かを残さなければならないのではないか、と。
あの時、自分は消してしまった。ならば今度こそ、消さずに記録する責任があるのではないか。
フィルムはあと1本。録音装置はノイズが混じり始め、時折、異なる声が混信する。
「もう限界ね……これ以上は持ち出せない」
彼女は静かにフィルムケースを閉じると、神代のほうへ振り返った。
「私は記録を持ち帰る。あなたは……ここに残るべきだわ」
「……どうして、そう言えるの?」
「私は記録を持ち帰る責任があるの。誰かが“私たちがここにいた”という痕跡を残さないと。存在が消えても、記録が残れば意味はある。そう信じてるの」
その背中には、何も語らない強さがあった。
梓は、言葉を失った。
その後、梓はゾーンの中心部へと引き寄せられるように歩を進めていた。
螺旋状に捩じれた階段と、時代も構造も混在した瓦礫の中。
“重力の歪み”のような圧が全身を包む場所に、彼女は立っていた。
そこで、彼女は感じた。
――自分が、「存在」ではなく「記録」だという直感を。
思考が切り取られ、貼り合わされるような感覚。
兄の顔が浮かび上がる。だが、その輪郭は曖昧で、何度見つめても確定しない。
その姿が“記録された兄”なのか、“過去から投影された兄”なのか、もう彼女には分からなかった。
ゾーンの縁で、霧の中に三枝の姿が見えた。
梓が駆け寄ろうとしたとき、彼女はわずかに笑った。
「記録さえ残れば、私たちがここにいた証になる。……そう信じてる」
彼女の姿は、淡く霧に呑まれた。
梓の手元には、湿ったフィルムケースが残されていた。
その表面には、三枝の指紋が──淡く、消えかけながらも──確かに刻まれていた。
神代梓は、ひとり残されていた。
瓦礫と捩れた階段が影を落とすゾーンの中心。
音も、時間も、記憶も、すべてが沈黙していた。
ふと足元を見ると、誰のものとも知れぬカメラが転がっていた。
現像されていない最後の一枚が、そこにあった。
そのフィルムには、神代自身の背中が、静かに写っていた。
それが誰の記録なのか。
いつ撮られたものなのか。
答えは、もうどこにもなかった。
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