第26話:二人の未来と、優しいパンの香り

 陽だまりベーカリーの再開店から、季節は一つ巡った。

 カームの町は、すっかり元の平和を取り戻し、戦いの傷跡は、人々の記憶の中にだけ残されている。

 アッシュとエリーゼの日常もまた、穏やかで、そして幸せなものだった。


 早朝、アッシュが工房でパン生地を捏ねていると、エプロン姿のエリーゼが、眠そうな目をこすりながら入ってくる。

「おはようございます、アッシュさん」

「おはよう、エリーゼ。もう少し寝ていてもよかったんだぞ」

「いえ。私も、一緒にパンを焼きたいですから」

 彼女はそう言うと、手慣れた様子で小麦粉の計量を始めた。もう、以前のように粉をぶちまけたりはしない。

 二人は、言葉を交わさずとも、互いの呼吸を感じながら、黙々とパン作りに勤しむ。その姿は、長年連れ添った夫婦のようでもあり、最高のパートナーのようでもあった。


「そういえば、アッシュさん」

 発酵させた生地を成形しながら、エリーゼがふと思い出したように言った。

「今度、リリスさんがまた来るそうです。『世界一辛い唐辛子を練り込んだ地獄の激辛パン』を試作しておけ、って…」

「…聞こえなかったことにする」

 アッシュは、こめかみを押さえて答えた。

「ふふっ。時々、変なパンも作ってみますか? リリスさんが喜びそうな…」

「いいだろう。だが、味見はエリーゼ、お前がやれ」

「ええっ! それは嫌です! 味見はアッシュさんですよ!」

 工房に、二人の楽しげな笑い声が響く。

 こんな何気ないやり取りの一つ一つが、アッシュにとっては何物にも代えがたい宝物だった。


 その日の午後、店の仕事が一段落した二人は、店の裏にある小さな丘の上にいた。

 そこは、カームの町全体を見渡せる、見晴らしの良い場所だ。

 二人は、焼きたてのパンと水筒を手に、ピクニックに来ていた。

 眼下には、平和な町の営みが広がっている。子供たちの遊ぶ声、家々から立ち上る煙、市場の賑わい。

 アッシュは、その光景を眺めながら、静かにパンを口に運んだ。


「俺の焼くパンは、誰かを傷つけるための力じゃない」

 彼は、ぽつりと呟いた。

「誰かを笑顔にするためのものだ。…君が、それを教えてくれた」

 かつて、彼の力は破壊と恐怖の象徴だった。だが、今は違う。この手は、人を温め、幸せにするためのパンを焼く。そのことに、彼は心からの誇りを感じていた。

 エリーゼは、彼の言葉に、優しく微笑んだ。

「アッシュさんのパンが、私に生きる希望をくれました」

 彼女は、アッシュの手をそっと握る。

「今度は私が、アッシュさんと一緒に、そのパンを届けていきたいです。この町の人たちにも、そして、もっと遠くの、私と同じように傷ついた人たちにも」

 彼女の瞳には、もう迷いはない。

 過去のトラウマを乗り越え、彼女は、自分の力で誰かを救うという、新たな夢を見つけていた。


 アッシュは、そんな彼女の成長を、眩しいものを見るような目で見つめていた。

 彼は、何も言わずに、彼女の体をそっと引き寄せた。

 夕日に染まる丘の上で、二人の唇が、静かに重なる。

 それは、どこまでも優しくて、そして、温かい口づけだった。


 唇が離れた後、アッシュは、ポケットから小さなものを取り出した。

 それは、彼が時間をかけて手作りした、一つの指輪だった。

 高価な宝石も、煌びやかな金属も使われていない。ただ、パン生地を丁寧に編み込んだような、素朴なデザインの、木の指輪。

 だが、その表面には、彼の魔力によって、永遠に輝きを失わない特殊な加工が施されていた。

「エリーゼ」

 アッシュは、彼女の左手を取り、その薬指に、ゆっくりと指輪をはめた。

「俺と共に、生きてほしい」

 それは、彼なりの、最大限のプロポーズだった。

 エリーゼの瞳から、再び、幸せの涙が溢れ出した。

「…はいっ!」

 彼女は、何度も、何度も、力強く頷いた。

 その指で輝く木の指輪は、どんな高価なダイヤモンドよりも、美しく、そして尊く見えた。


 陽だまりベーカリーからは、今日も変わらず、優しくて温かいパンの香りが、町中にふわりと漂っている。

 訪れる客は、皆、そのパンを手にすると、幸せそうな笑顔を浮かべて帰っていく。

 店のカウンターでは、元魔王軍四天王の男が、少し照れくさそうに、しかし、この上なく幸せな顔で、パンを袋に詰めている。

 そして、その隣では、かつて人間不信だった少女が、太陽のような明るい笑顔で、客を見送っている。

 彼女の左手の薬指には、素朴な木の指輪が、優しい光を放っていた。


 夕暮れの光が、町全体を黄金色に染め上げていく。

 その光は、石畳の小道に佇む一軒のパン屋にも、等しく降り注いでいた。

 店の入り口に掛けられた、少し古びた木の看板。

 そこには、温かみのある文字で、こう書かれている。


 ――陽だまりベーカリー


【了】

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元魔王軍四天王、辺境でパン屋を始めます ~勇者に裏切られた人間不信の少女を拾ったので、美味しいパンで心も体も癒やしてあげようと思います~ 蒼月マナ @aotsukimana

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