エピローグ 置き去りの余白に、花が咲く


一年後の春、理人は新しい出会いを体験していた。

古書店に通う常連客の中に、文学を愛する女性がいた。彼女は理人と同じように、本の中に人生の意味を見出す人だった。最初は本の話から始まった会話が、次第に深いものになっていく。

彼女の名前は美咲。三十歳の編集者で、静かな笑顔と聡明な瞳を持っていた。理人とは対照的に社交的で、でも理人の内向性を理解し、尊重してくれる人だった。

「理人さんって、時々遠くを見ているような表情をしますね」

ある日、美咲がそう言った。二人はカフェで本について語り合っていた。

「そうかもしれません」

理人は苦笑した。

「何か、大切な記憶でもあるのですか?」

理人は少し考えた。『君』のことを話すべきだろうか。しかし、説明のしようがない。実在したかもわからない、名前も顔も知らない存在のことを、どう語ればいいのか。

「昔、大切な人がいました」

理人は簡潔に答えた。

「今は?」

「もう会えません。でも、その人のおかげで、愛することの意味を学びました」

美咲は理人を優しく見つめた。

「その人に感謝しているのですね」

「はい」

「私も、そんな風に誰かから愛されてみたいです」

美咲の言葉に、理人の心が動いた。『君』は理人に愛することを教えてくれた。そして今、理人は誰かを愛する準備ができている。

「美咲さん」

理人は静かに言った。

「僕と、一緒にいてくれませんか?」

美咲の顔に微笑みが浮かんだ。

「はい」

その夜、理人は『君』に心の中で報告した。

「新しい人を好きになりました。君が教えてくれた愛し方で、今度は僕が誰かを愛します」

風が窓を揺らした。まるで『君』が「よかった」と微笑んでいるようだった。

理人の心の中で、『君』の記憶はもう痛みではなくなっていた。代わりに、優しい暖かさとして残っている。曖昧で、不完全で、でも確実に美しい記憶として。

時々、理人は古書店で『君』の痕跡を見つけることがある。メモの書かれた本、線の引かれた詩集。そのたびに、理人は微笑む。『君』は今でも、本の中で生きている。

春になるたび、理人は桜を見上げる。そして思い出す。最後の夢で見た、花びらの舞う公園を。あのとき『君』は確かに幸せそうだった。

愛は終わらない。形を変えて、心の中で咲き続ける。

『君』への愛は、今では美咲への愛の土壌となっている。曖昧なまま置き去りにされた感情の余白に、新しい花が咲いている。

それでいい。それが、愛というものの本当の姿なのかもしれない。

完璧である必要はない。すべてを知る必要もない。ただ、心の中で大切に抱いていればいい。

理人は今日も古書店で働いている。本を整理し、客との短い会話を楽しみ、夕方には美咲と待ち合わせをする。

平凡で、静かで、でも幸せな日々。

『君』が望んだ通りの人生を、理人は歩んでいる。

そして時々、風の音の中に『君』の声を聞く。

「幸せね」

「ありがとう」

理人は空を見上げて、小さく微笑む。

曖昧なままで置き去りにされた愛が、今では理人の人生を照らす優しい光になっている。

それは、最も美しい愛の形だった。

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『曖昧なままで置き去り』 漣  @mantonyao

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