彼女はもやされたい

かたなかひろしげ

聞いちゃった男

 「もやしがほしい」


 俺は安普請のアパート住まいである。今、籠もっているこのトイレのドアの壁など、ちょっとした厚めのベニヤ板みたいなものだ。つまり遮音性など皆無なわけで、トイレの中にいてもトイレの外の声はそのまま聞こえてきてしまう。まあこれが貧乏税というものなのかもしれない。


 「もやしがやっぱり必要。もう耐えられない」


 俺がトイレで小用を済ませ、大事ないちもつをジャージのズボンに雑にしまっている時に、それは聞こえてきた。突然の声に、心臓の動悸が跳ね上がる。元々、心臓の具合は最近良くない。不養生を叱る医者に、先週もかかってきたばかりだ。トイレが頻繁なのだって、実は良くない兆候らしい。医者が言うには、兎に角まずは痩せろ、ということらしい。


 実はこんなことがあったのは今回が初めてではない。

 俺がトイレに入ってる時や、深夜に寝付いている時に、誰もいない部屋から他の人の気配がするのを、以前から実は薄々感じてはいたのだ。それをまあ、面倒だから気のせいだ、と無意識に蓋をしてしまっていた。

 この部屋に入居する際、妙に家賃が他の部屋よりも安かったことを、「べつに気にしないことにした」時のことを考えれば、その程度の話はどうということは無いようにも思える。


 しかし今度ばかりは、気のせいだととぼけるにはいささか無理がある。

 こんなにはっきり聞こえている以上、もやしを欲しているこの誰かは、トイレの扉の外、つまり1DKのつつましい豪邸である俺の寝室にいる。間違いない。


 ───さて。問題はこの後の行動である。


 さあこの薄い扉を開けて、部屋の中にいらっしゃるであろう、謎の人……もう面倒だからもやしさんと呼ぼう。この、もやしさんとご対面するか、このままじっとトイレに引き籠もって、もやしさんが帰るまで待つか、である。


 とはいえ、ここは俺の家である。人がトイレに入っている間にいつの間にか侵入して、もやしへの愛を語り出す奴など、可能な限り速やかにお引き取り頂きたい。実のところ、このでかい身体でこの狭いトイレに長時間いるのも、いささか辛いのだ。


 例えばもし、もやしさんが生身の人間であれば、不法侵入者で不審者なのは間違いないわけで、そんな奴の前にのこのこジャージ姿で武器もなく飛び出して行くのは、流石に心もとない。


 俺はふと考えた。

 トイレの中で武器になりそうなもの……うん。あるわけがない。


 今、俺の目の前にあるのは、トイレ掃除の棒付きスポンジと、トイレ詰まりを解消する為の、いわゆるスッポン(正式名称はラバーカップというらしい)だけである。攻撃力はひのきのぼうか、たけざおか、ぐらいの差しかないに違いない。


 とはいえ、無いよりはマシか。と思い直し、俺はスッポンを右手に装備して、左手にはサンポールを持ち、外に出ることにした。混ぜるな危険、って書いてあるやつだ。なんか攻撃力高そうだし、無いよりはマシだろう。


 それにもうひとつ良い判断材料がある。先ほどの声を聞く限りでは、どうやら外にいる人間は女性のような気がする。もし本当にそうであれば、俺も一応は成人男性の端くれであるし、実はかなり太っていて、100kg近い体重がある。このスッポンでも勝ち目はあるかもしれない、そう思ったのだ。


 勇気一発。トイレのドアノブに手を掛け、俺は深く息を吸い込むと、一気にドアを開け放った。


 バタン。と、大きな音と共に、薄い木製ドアが勢い良く開いて、壁に外側のドアノブが打ち付けられる。つまり、ドアの影に誰か隠れている、という可能性は無い。


 「あ、あれ?」


 俺の間の抜けた声が、空っぽの部屋に響く。 

 部屋の中をそれはもう念入りに見たが、どこにも人影などなく、つけっぱなしのテレビではYouTuberが大盛りのカレーと格闘している映像が流れている。


 この部屋には、テレビとベッドぐらいしかない。隠れる場所など無いハズだ。

 しかし、さっきまで部屋から聞こえた、もやしへの渇望のような声も、もう聞こえない。


 ──つまりこれは残念なことに、どう考えても、生身の人間の仕業ではなさそうだった。


 その後、この手の階段話だとありがちな、フローリングに水溜まりが残っていたりはしないかと床もチェックしたのだが、本当になにひとつ痕跡が見つからない。この無駄に高まった気持ちはどうしてくれるんだ、と思う反面、何も無いことに胸をなでおろしたのは秘密だ。



 ──翌日。俺は仲の良い友達二人を家に呼びこんだ。

 理由というのは他でもない。もやしさん改め、もやし女さんの相談をするためだ。


「でさ、そういうわけなんだよ。この、もやしが好きな女の声、どうしたらいいと思う?」

「やっぱ会いたいよな。」

「いや、どう考えてもそれ幽霊だろ? 俺なら絶対会いたくないわ」

 

 案の定、三者三様に、好き勝手なことを言っている。俺は話を元に戻した。


 「だから、もやしが欲しいみたいなんだよ。」

 「いやいや、そんな馬鹿な話はないだろ。トイレの中で聞いたんだろ、絶対なにか聞き間違ってるって。」

 「この部屋に出たんだよな。マジで怖くね? よくここで寝れるな。」


 成る程、聞き間違いか。その可能性もあるな。

 それなら一体、何を聞き間違えたのか、って話だよな。


 「もし、もやしが欲しいのでなかったとすれば、一体何が欲しかったんだ?」

 「普通に考えて、もやしが欲しくて化けて出る幽霊はいないだろ。ふつー、もっとこう? 恨み?とか、そういうのがあるのが定番じゃね?」

 「いやいやいや。俺の話をスルーするなよ。幽霊出てる時点でヤバイだろ。なんでその幽霊が何言ってるかを気にするんだよ」


 ───もやし女さん、幽霊なのは多分、もう間違いないと思うんだよな。

 これを解決するには何言ってるかがカギのような気がするんだよ。もし本当に、もやしが欲しいのであれば、ほら、もやしをお供えすれば成仏してくれるかもしんないし。それなら、なんてリーズナブルな解決方法なんだ。1パック38円で即解決だ。


 「成仏させるには、何が欲しいかがわかればいいと思うんだよ。」

 「じゃあまず、もやしは無いな。このもやし女は、二郎系ラーメンでも作ろうしている最中に死んだのか? んなわけないだろ。せめてそこは神豚煮込んでる最中に果てたとか、それぐらいの未練がないとこの世に化けて出てこないハズだ。1パック38円で買えるというのに、もやしが欲しいは無い」

 「な、なあ?お祓いとかしてもらった方が簡単じゃね?」


 ラーメン作ろうとしてる幽霊ってのも、それはそれで面白そうだが、もやし以外の、もやしと聞き間違えそうで、且つ未練になりそうなもの……って一体なんだ?


「いやし、って可能性はどうだろ。女の人とか言いそうだし。」

「いやいや、それじゃあ未練にはならないだろ。もっと俗物的なものだと思うぜ。い……いわしとか?」

「そうだね。彼女は鰯が欲しくて化けて出てきたんだよ。って、違うだろ。カルシウム不足に悩んでる幽霊なのか? もう骨とか骨密度の心配いらないだろ、幽霊なんだから骨も無いだろうし」


 スケルトンの可能性もあるんじゃね?などと一瞬、バカな考えが俺のファンタジー脳をよぎったが、相手は幽霊だった。骨は無い。

 しかし鰯が欲しくて、化けて出てこないだろ。もし俺が鰯が欲しいなら、もっとこう、調理済みのものが欲しい。つみれ汁とかさ、目刺とかさ、具体的な料理名で欲しがると思う。


「鰯も無い」

「だよな……。あとは・・まわし?」

「───そうだな。彼女は関取を目指していたから、まわしが欲しかったんだ。どすこーいってオイ、それも違うだろ。どんな幽霊だよ、それ。」


 3人とも部屋で酒も吞んでいるし、会話の内容もかなりぐだぐだになってきた。そろそろ結論を出したいところだ。


「よし。俺決めたわ。自分を信じる。もやし、彼女が欲しいのはもやしで決定。今夜はもやし、お供えしてみるわ。」

「ぉ、ぉぅ。まあ、その、なんだ。がんばれ」

「もやし女の声、次回はちゃんと録音しといてくれよ」


 無責任な漫談をしただけの友人達が帰った深夜23時、俺は近所のスーパーで買ってきたもやしを、軽く塩を入れて茹で、皿に入れて部屋の隅に置くことにした。

 茹で上がったもやしからは、白い湯気がゆらゆらと立ち昇っている。

 「足りない」と言っていた程だから、2パック分くらいは必要だろう。と勝手に推測し、大量のもやしを湯がく羽目になった。おかげで部屋には、茹でたてのもやし臭が漂っている。何を隠そう、俺は気の利くデブである。


 後は、俺がトイレに籠った後、もやしさんが俺の部屋で、ほっかほかのもやしをみつけて成仏してくれさえすれば、作戦成功だ。


 早速俺はスマホを片手に、トイレに籠ることにした。

 スマホで時間潰しにプレイしているゲームのデイリークエストを一通り回し終えるのに数十分。突然、家鳴りが「みしっ」と音を立てた。


 空気が変わったような気配がすると、すぐさま、「もすっ」という音がドアの向こうから聞こえてくる。あれは多分、隣室の古い安畳を強く踏みしめた時に鳴る音だ。

 

 隣の部屋にいる誰かが、畳の上をゆっくり歩いている。

 もやしを置いたのは部屋の奥の隅だ。


 ずずっ、ずずっ。

 足跡が遠ざかる方向へ。引きずるような衣擦れの音が、ゆっくりと移動していく。


 「んふ。んふふふふ」


 うん?もしかして、今、笑った?

 慌ててスマホの録音アプリを立ち上げて録音ボタンをタップするものの、ドアの向こう側からする物音は、ぴたりと止まってしまった。もう何も聞こえない。


 なんだろう。今、トイレから出ても、もう誰もいない気がする。

 何故俺が、そんな根拠の無い確信を強く持ったのかは、わからない。でも不思議と、もう隣のの部屋には誰もいない気がしたのだ。


 ドアを静かに開ける。古いドアは、「にぃーっ」と年代物の蝶番が据えた金属音を立てる。

 この間とは違い、今夜はテレビを点けていないので、部屋は静かなものだ。ゆっくりとトイレを出た俺は、部屋の隅に置いたボウルの中にある、もやしを確認してみる。


 案の定、もやしはトイレに入る前に確認した時と、まるで変化は無かった。減ってもいないし、増えてもいない。色と匂いも変わらずだ。俺はそっと、ボウルをそのまま冷蔵庫に放り込んだ。やはり気の所為、ただ単に隣の部屋の物音を耳にしたか、TVの音を勘違いしただけなのだろう。そう思ってしまえば、それでいい。済む話だ。



 そこから俺は毎晩もやしを茹で続け、翌朝も変わらず部屋に残っているもやしを仕方なく朝食して食べる、という生活を続けている。

 朝に2パック分にもなる大量のもやしを食べるからか、日中の食事量がぐっと落ち、100kg近かった体重はこの半年で80kg近くまで落ちてきた。友人達は、「もやし女の呪いだろ」と笑うが、俺は呪いだとは微塵も考えていない。


 「もう限界だ」というのは、不摂生からくる俺の身体のことで、それを改善するにはもやしが必要だ、ということを言っていたのかもしれない、とさえ、今では思うのだ。


 もしまた何かの拍子で俺が不摂生な食生活に戻り、もやし生活を止めた時、再びもやし女が俺の部屋にやってきそうな気がして、怖くてもやしをやめられないのもまた事実。

 「もう我慢できない」と言っていた、もやし女の堪忍袋の緒が切れた時、俺はどうなってしまうのだろうか。一体、何を我慢していたのか、聞いてはいけない気がして、今日も俺は毎日のもやしを辞められないでいる。


 そこから俺が大学を卒業して、そのままラーメン屋に就職する羽目になったのは、また今度話すとしよう。

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