夕暮れ時の教室で
色街アゲハ
夕暮れ時の教室で
夏も終わりに差し掛かった時期の事だった。用事が長引いて教室に荷物を取りに来た頃には、日もすっかり傾いていた。ついさっきまで外で聞こえていた掛け声も何時の間にか途絶えて、心なしか身を焦がす様な暑さも和らいでいた。薄暗くなった教室には、もう誰の姿も無く、ポッカリと抜け落ちた様な物寂しさが其処にあった。
本当なら、直ぐにでも荷物をひっつかんで、教室を出て行くところが、何故だかその場所に惜しむ様な、引き留める様な、そんな雰囲気を覚えて、ボクはそのまま自分の席に座って、ぼんやり外の暮れて行く空を眺めていた。
開いた窓に半ば掛かったカーテンが微かに揺れると、半開きになった入口の戸まで少しだけ涼しさを感じる風が吹き抜けていく。昼の陽射しが未だ残る熱の籠った身体に、その風は心地良かった。このまま此処に座って、暮れて行く空を眺めているのも良いな、と思い掛けていた処に、スウッと、目の前を何かが通り抜けて行くのを見た……。
それは薄墨の、黒交じりの朱の色に染まる世界の中で、余りにも不釣合いな、一本の筋引く淡い青の気配だった。
実際に其れを目にしたかと問われると、確かな事は言えない。気の所為だったのかも知れない。けれども、それがボクの直ぐ側を擦り抜ける瞬間、確かに、ボクの中で淡い淡い透き通った、吸い込まれてそのまま何処か遠い処まで連れて行かれそうな、青の情景が一杯に広がっていた。
薄っすらと甦って来る記憶。それは昼の日中の運動場の情景。見上げれば雲一つ無い晴れ渡った青い空が。その下に集まった皆は、めいめいが体を解したり、ピョンピョンとその場で跳ねたりと、足元に広がるグラウンドに今にも飛び出して行きそうで。ボクはと云えば、動き回る皆の姿を視界の端に、吸い寄せられた様に見上げた空から目を逸らせないまま、のっぺりと近いんだか遠いんだか分からない空のその先を、見える筈の無い空の青の更にその先を、何とか見定めようとして目を凝らしていた。
誰かに話そうものならきっと笑われるだろう、そんな気晴らしにも似た遊戯に一頻り耽った後、目線を地上に戻してみれば、大勢の中に混じって一際ボクの目を引く姿が目に入った。
背筋をピンと伸ばして、長い髪をグッと後ろに纏めて、他の皆と同じく今にも走り出しそうにしているのを堪える様に、上に下へと伸びをしている一人の女の子の姿。
何が目に止まったって、その剥き出しになった脚が余りに真っ直ぐで、まるで走る為に誂えたかの様で。こんな事ってあるんだろうか、と驚きから目が離せなくなっていた。青い空を背景に、浮かび上がったその姿は、まるで神話かお伽の中の登場人物の様に思えて来て、今にもその細い踵が硬い蹄になって、陽の光を跳ね返したそれが,俄かに土埃を上げたと見ると、アッという間にその姿は遠い空の彼方に走り去ってしまう……。白昼の只中で垣間見た、一瞬の幻想。それは、空の中に決して消えない痕跡を残して、何時までも消えない強烈な印象をボクの中に植え付けるのだった。
暫く啞然と見上げていたボクの、何気無く足元に目を向けて、其処に写った自分の足の、その余りに不格好な様に、先程まで覚えていた高揚感は忽ち失せて、代わって込み上げて来る失望感。嗚呼、こんなんじゃどうあってもあの空の中になんて行けやしない。出来る事と云ったら、こうして地面の上をヨタヨタと、見窄らしく歩いて行くのが精々だ。
あの
……。
きっと、あの時の光景が、この暗さを増して行く教室に、ボクの居るこの場所に帰って来たのだと、そう思えて来るのだった。ボクが惨めな気持ちに耐え切れず、背を向けてしまったあの場所で、ずっと帰る所を無くしたまま、空の中を彷徨い続けて。夕暮れの時間になっても、他の青色の様に去る事の出来ないまま、茜色に染まった空の中を、空の中で吹き交う風に紛れてずっと……。
そんな訳ない。全部ボクの勝手な妄想に過ぎないんだ。思いがけず長い間この場所に留まっていたのか、辺りには夜の色が現れ始めていた。
慌てて立ち上がり、教室を後にする。最後に戸口の処で振り返り、周りに誰も居ない事を確かめて、それでも恥ずかしさで殆ど囁く様な小さな声で、
”お帰り”と呟いた。
去って行くボクの背中に、何処からか、
”ただいま”と言う声が聞こえた様な気がした。
それは少し悪戯っぽく、はにかむ様な声だった。
終
夕暮れ時の教室で 色街アゲハ @iromatiageha
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