人間くさい
帆尊歩
第1話 けして触れてはならない
「おはよう諸君」と教授(オヤジ)は言う。
いや諸君て、教授(オヤジ)自身を入れても三人しかいないのに。と僕は心の中で突っ込むが、美咲は真面目なのか、神妙な顔付きだ。
そして
「おはようございます」と美咲が言う。
美咲と僕は同級生だ。もっとも大学のと言う事なので同級生と言うより、同窓生というべきか。
「ミューの様子は?」
「昨日まで数値では免疫力は上がっています。このまま下がらず安定してくれれば良いのですが」
「最近上がり下がりが激しいからね。免疫力の上がる食べものを増やすとか?」
「例えば?」
「発酵食品とか」
「それは人間の場合ですから、ミューにはどうなんでしょう」
「別にミューだって人間だろう」
「まあそうですが」
「タカ、ミューの皮膚関係は?」オヤジは次に僕に尋ねる。
「あっ、おはようございます。最近は肌がピンクがかっていてちょっと心配しています。肌の下の毛細血管に血圧異常でより多く血液が流れているからと考えます」
「血圧は?」
「正常値です」
「なら問題ないんじゃないかな。我々だって体の毛を剃れば肌はピンクだ」
「そうなんですね」
「先生」とまた美咲。
「うん」
「前から思っていたんですけれど。ミューの名前安直すぎませんか」
「そお?」
「だって、ミュータントだからミューって、ギャグですか」
「ミューとつけたのは私じゃない、タカだ」僕は急に自分にお鉢が回って来て慌てる。
「いや僕は、先生が名前はて言うから、冗談のつもりで、ミュータントだからミューって言っただけなのに、先生が勝手にミューとつけたんじゃないですか」
「でもミューって可愛いだろう」
「確かに」と美咲が言う。お前が疑問を呈したんだろう、簡単に納得するな。
全く不毛な朝ミーティングだ。
こんな朝ミーティングをしているのは、大学が作った生命科学研究所の地下秘密研究ユニットだ。
ちなみに、僕も美咲も医師免許を持っている。
最も臨床ではないのであまり医者とは名のりにくい。このふざけたオヤジはこれでも生命科学の権威で、一昨年、世界最高峰の医学生理学賞を取っている。その莫大な賞金と実績でオヤジは大学と掛合い、この研究所を設立させた。オヤジの実績のおかげで、この研究所は国内はいうに及ばず、世界中の科学者が研究に参加する、一代生命科学の拠点となった。無数の研究チームが、この巨大な建物の中で世界中の教科書を書き換えるような研究を行っている。本来であればオヤジは、この建物の最上階の所長室でプロジェクトの許認可の判でも押してればいいのに何をとち狂ったか、タブーな研究に身を投じた。
オヤジは教授とはいっているが、今は講座も、ゼミも受けもっていない。教授会には顔を出しているが、講座もゼミも受けもっていないオヤジに発言する事はない。強いてあげれば、生命科学研究所の研究内容の進捗報告くらいだが、大学運営のための教授会では誰も興味を示さない。だからかわからないが、この誰にも言えない研究を始めた。
僕は美咲と共にミューの部屋に行く。
ミューの部屋は、100平方メートルの部屋でその真ん中に三メートル四方の硝子ケースがある。
ここがミューの本来の部屋だ。まわりにはバックアップと、生命維持のための様々な機器が所狭しと並んで硝子ケースを取り囲み、無数のケーブルが硝子ケースに繋がっている。僕と美咲はそれぞれのタブレッを手に取り、今のミューの状態を確認しながら硝子ケースに近寄る。
「ミュー、おはよう」
「おはようタカ」ベッドに横になっていたミューは起き上がり返事をした。
そこには裸の美しい少女がいた。
ミューには四つのセンサーが頭と胸、腹、背中についている。この四つで、現在考えられる全てのデーターがサーバーにリアルタイムで飛んでくる。別にセンサーを取り付けるためにミューの体の体毛を剃っていると言うことではない。旧人類は元々頭部と、目の上と脇と生殖器のまわり以外に体毛は無かったらしい。そこは新人類の僕らと違うところか。
「体調はどう?」と横の美咲がミューに尋ねる。
「大丈夫。でも早くこの硝子の部屋から出たいな」
「そうね」
ミューはかつての人類の形でつくられた、ミュータントだ。
だから僕らと違って体毛が著しく少ない。全身体毛で覆われている僕からすると体毛のないミューが寒々としていて落ち着かないだろうなと思う。ミューの鼻は三角にとがっている。唇は薄く、顔が平べったい。体はきれいなピンクで、手も足もまっすぐ伸びている。新人類の僕らは口のまわりは突き出して厚ぼったいし、足が短く、外に湾曲している。腕はミューより長い。
「ねえ、美咲」とミューが硝子ケースの外の机でモニターとにらめっこしている美咲に話掛けた。
「なに、ミュー」
「私、いつここから出られるの?」
「えっ」と思わず美咲が答える。このえっ、はその予定はないと言う意味なんだが。
「お爺ちゃんは、もうすぐ出られるよって言ってくれたけど」あのオヤジ、エビデンスのないことを言うなよと僕は思ったが、美咲も同じように思ったようだった。
「そうね。数値がもう少し安定しないと」
「そうなんだ」とミューはがっかりしたように言う。
「イヤそれより、服を着る習慣をつけないと」
「服」とミューは首をかしげた。
僕らと違い、体毛のないミューは、乳房の形や、性器が丸見えで。体調管理には良いが、見ていて寒々としてかわいそうだし、何よりこの部屋にいればいいけれど、冬は本当に寒いだろうなと思う。
「先生。ミューに、外に出してやるって言ったんですか?」
「えっ。ああ、だってあのかわいらしい顔で、おじいちゃん、私いつここから出られるの。自分の足で走ってみたいの。おじいちゃんに抱きしめてもらいたい。なんて言われたら、すぐ出してあげるよって言うだろう」
「もしミューのことがばれたら、先生のこれまでの実績なんて消し飛んで、マッドサイエンティストの烙印を押されるんですよ」
「うん、わかっているよ」
「イヤ分かっていないでしょう」
国内有数の総合大学の医学部管轄の生命科学科学研究所の地下の秘密フロアーで、遺伝子操作によるミュータントを作ったなんて公表したら、いくつにも絡み合った生命科学の倫理観が崩れる。さらに神への冒涜、科学の暴走、そう言った物でいくらオヤジの功績が凄くても、世間から叩かれて、権威は地に落ちる。イヤそんな事は分かっているはずなのに。科学者というのは自らの探究心には、どんな理性も消し飛んでしまうのかなと思う。
まあそれに参加している僕等も大概バカだけれど。
「なあ、ミュー」
「なにタカさん」
「ミューは、そこから出たいのかい」
「ちょっとタカ」ミューの数値の確認をしていた美咲は驚いたように声を掛ける。
「出たいよ。私、自分の足で、歩いてみたい。走ってみたい。おじいちゃんや、タカさん美咲さんに抱きしめてもらいたい。外の空気を吸ってみたい。朝の空気は澄んでいて燐としているんでしょう」
「何処でそんな言葉を?」ミューがタブレットを見せた。退屈しのぎにオヤジが与えた物だ。
「だから、ここから出たい」ミューはまっすぐな目で僕を見つめる。
「分かった何とかしよう」
「ちょっと、タカ。全くうちの男どもは」とは言いながらも美咲も乗り気だ。
まずはこの硝子ケースだ。これは、いって見れば新生児を入れておく保育器の大型バージョンで、ミューの体を一定の環境で保っている。体につけた4つのセンサーと
32個のカメラ、それでミューの体をモニターして、少しでも変化があれば投薬の配合を変える。硝子ケースにいる一番の理由はミューがこの硝子ケースの外では生きられないからで、そこが一番の問題だ。次に裸はまずいだろう。
「服はどうする」
「特注するしかないでしょう。私達が着ている服は明らかに着れないでしょう」
「そうだね。何とかなる?」
「ミューの体をトレースすれば寸法は分かるから」
「じゃ、それで頼むよ」
次に僕は硝子ケースの中の状態を少しずつ外の状態にして行く。その上でミューの体の変化を詳細にチェックして行く。美咲はミューの服を用意するのと、同時進行で体の免疫の強化をする。薬学部が開発した免疫をあげる投薬剤をオヤジのコネで取り寄せた。臨床試験前の物を高濃度で投与する。そんな危険なことをと思うが、それを美咲が全身チェックをする。美咲は体内管理のスペシャリストでほんの些細な数値の変化も見逃さない。そんな事をしているあいだに、ミューの服ができあがって来た。着かたの説明は体形が違うので僕らではうまく教えられない。そこでCGで動画を作り、ミューに見せる。
「どうしてこんな布を体につけなければならないの?」
「だって僕も美咲も着ているだろう」
「それは、全身に体毛があるから邪魔なんで着ているんじゃないの」いや服を着る理由はそういうことではないと思うが。まあそういうことにして置こう。オヤジも同席の元、ミューのファッションショーが始まった。
まずはショーツをはいてもらう。次に乳房を隠す物。そしてスカートと呼ばれる布、さらにキャミソールという上に着るもの、細身のミューにはそれらがとても似合っていて、とても可愛い。オヤジなんかメロメロで、自分が造ったくせに、恋してしまうんじゃないかと思うくらいだった。体調管理も進み硝子ケースの中の環境が、外気に限りなく近くなった。今ではミューは裸ではなく、きちんと服を着て机に座ってタブレットを眺めている。
「ミューは、ここから出たら一番に何がしたい」と美咲がモニターから一切視線を外すことなく尋ねた。
「自分の足で、歩きたい。そして走りたい。そして海が見てみたい」海は難しいだろうなと僕は思った。そもそもミューを誰かに見られたら、この研究自体が危うい。
いや危ういどころか、崩壊しかねない。
ケース内が完全に外気と一緒になった。
これでミューの皮膚がなんともなければいい。
センサーはつけっぱなしなので、美咲はタブレットから一瞬も目を離さない。
外気で48時間の観察に入る。
「先生にタカ」
「うん」
「一つ問題が」
「何だね」
「ミューの免疫力がどうしてもこれ以上上がりません」
「それは?」
「ギリギリ外に出ることは出来るかもしれませんが。触れることは無理ですね」
「そうか。私はミューを抱きしめて、キスをしてやりたかったんだがな」
オヤジにはコンプライアンスという概念はないのか。まあないからミュータントを造ろうなんて思うだろうけど。
「先生。それセクハラですよ」美咲が嫌悪感たらたらで言う。
ミューの硝子ケースが開けられた。
なんとミューの第一声は、
「人間くさい」だった。
みんな一様にショックを受けたが、おかげで言いやすくなった。
決して触れてはならないと。
真夜中の研究所の中庭をミューは嬉しそうに走った。その姿は月灯りに照らせてあまりに美しかった。でも決して人目に触れてはならない。ミューはみんなと抱き合いたいと心から思っていたようで、口には出さないけれどそこだけは酷く落胆していた。でもどうしようもない。
ミューが体調を崩したのは外に出て十日後の事だった。
ミューの体の免疫は向上していたが、全く抗体が作られなかった、だからどんな物に対しても抵抗力がなかったのだ。すぐに硝子ケースの中に入れたがそのままだ。今更元の環境に戻しても効果がない。体に入った病原菌を排除できない以上、今更無菌の状態に戻しても仕方がない。日に日に弱ってゆくミューにもうしてあげられることはない。
「大丈夫かい、ミュー」
「うん大丈夫。すぐ良くなるから。そしたら海に連れて行って」それは無理だよとは口が裂けても言えない。でもミューは僕の顔を見て悟った。
「ゴメンなミュー、ずっとここにいればこんなに苦しまなくても良かったのに」
「うんうん、後悔はないよ。だって自分の足で歩けて、走れた。あたしを抱きしめて」今更免疫とかどうでもいい、僕はミューを抱きしめた。
「人間て、臭いけど、温かいのね」
「何言ってんだよ」と僕が言うと
「ごめんなさい」と言ってミューは嬉しそうに笑った。
その三日後にミューは息を引き取った。その間、僕と美咲と、オヤジがずっとミューを抱きしめていた。
ミューは抱きしめると安心したかのように笑って、弱々しく抱き返した。でもその力は段々弱まっていった。
そして最後の時、ミューはありがとう言って、事切れた。
人間くさい 帆尊歩 @hosonayumu
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