第42話
ジェロムは一度だけ、肩越しに振り向いた。
巨獣は最後に残った本物のジェロムめがけて、大地を蹴りながら迫ってくる。
恐ろしいほどの速さであった。ジェロムは追いつかれまいと、ただひたすら死に物狂いに走り、居館の玄関口へと飛び込んでいった。
「来ます!」
玄関ホール内で、扉脇の壁裏に待ち構えているデュガンに叫んでから、ジェロムは横っ飛びに跳んだ。直後、巨獣の頭が扉口を破って突っ込んできた。
空を切って、噛み合わされる何十もの牙の列。空振りをしてから巨獣は、玄関口から頭を引き抜こうとした。が、出来なかった。
梁が後頭部に引っかかり、すぐには頭を引っ張り出せない状態に陥っていたのである。
「うおおぉっ!」
ジェロムは吠えた。
もう後のことは一切考えず、この瞬間に全てを叩き込んだ。
戦斧を巨獣の喉めがけて、下から轟然と振り上げた。
皮膚を破り、筋肉を断ち切る重い手ごたえが、掌から肘、肩へと伝わる。
反対側では同様に、デュガンの豪腕が複数回にわたって戦斧を振りまわし、巨獣の頸部を血まみれにしていた。
流石に堪らなくなったのか、巨獣は強引に頭を引き抜き、若干擦れた雄叫びを天に向かって吠え上げた。
それは文字通り、断末魔であった。
巨獣は足元から轟と崩れ、そのまま全身を地面に叩きつけるようにして倒れた。
喉から鮮血がほとばしり、太い尾や後肢が、びくっびくっと痙攣している。
やがて、その巨体は完全に動かなくなった。
全身に返り血を浴びたジェロムとデュガンが居館から出てくると、中庭は歓声に包まれた。
クルザールも、兵達も、信じられないといった驚きの表情ではあったが、同時に彼らは素直に、生き残れた幸運を喜んでいる様子でもあった。
「お見事! ディオンタール卿、実にお見事!」
興奮したクルザールが駆け寄って来ようとしたが、その肥満し切った体躯を押しのけるようにして、小さな影がジェロムの胸に飛び込んできた。
「ジェロム!」
「あ、やぁミネット」
自身の顔が返り血に汚れるのも省みず、ミネットはジェロムの胸にぎゅっとしがみついて、小さく肩を震わせていた。
こういう場合、どのように接してやれば良いのかがよく分からず、ジェロムはいささか途方に暮れて頭を掻いた。
しかし、ほっとして緊張の糸が切れた瞬間、再び全身が途方もない激痛に襲われた。ジェロムは情けないと思いつつも、堪らず唸り声をあげてしゃがみ込んでしまった。
「あっ、ジェ、ジェロム、大丈夫!?」
慌てたミネットが僅かに体を離し、血まみれのまま苦痛に悶えるジェロムを覗き込む。その光景を、歓喜に沸く人々の間で、ブランシェーヌが呆れた様子で眺めていた。
「ジェロムったら情けないわねぇ。もうちょっとこう、気の利いた台詞でもいえば良いのに」
泣いて飛びついてきたミネットを持て余していたジェロムを、ブランシェーヌが容赦なく揶揄してみせると、周囲で笑いがどっと巻き起こった。
が、その時。
誰もが、もうこれ以上は聞きたくないと思っている筈の、天を割る雄叫びが、背後から叩きつけられてきた。
ほぼ全員が恐怖に凍りついて、その方角を見る。
崩壊した門塔の瓦礫の上に、二頭の巨獣が立っていた。
「う……嘘でしょ……」
ミネットが呆然と呟いた。ジェロムも、声が出ない。正直いって、終わった、と思った。
ところが。
「なぁに。心配は要り申さん。少なくとも今は、でござるが」
デュガンがにやりと不敵な笑みを浮かべて、二頭の巨獣をじっと睨みつける。空元気か、とも思えたが、しかしこの余裕は一体どこから生まれてくるのだろう。
するとややあって、巨獣がぷいと背中を見せた。
皆、一斉に目を剥いた。
「まさか、見逃してくれるというのか……?」
そのまさかであった。
二頭の巨獣は瓦礫から跳び下りると、そのまま風のように城から遠ざかってゆく。
デュガン以外の全員が、狐につままれた様な顔で、去りゆく二頭の巨獣を見送った。
「殺気は露ほどにもござらなんだ。何だかんだで、あやつらは獣でござる。仲間が倒されれば警戒し、一度は引き退くという習性は、他の捕食獣とさほど変わらぬのでござろう」
仇を討つ、というのは人間固有の精神である、とデュガンは付け加えた。
但し、獣である以上は、次は恐らく容赦はしてこないであろう。
「良いさ……受けて立ってやる」
ジェロムは表情を引き締め、拳を握り締めた。
襲ってくるのであれば、何度でも叩きのめしてやる。
後世、アロサウルスと呼ばれることになる、あの異形の怪物達。
少年騎士は、春霞の彼方に消えつつあるふたつの巨大な影を、いつまでも見つめていた。
アロファイト 革酎 @Kawa_chu
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