カスタネット、カチン
八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子)
いまも、むかしも、カチンと響く。
もう、聞くことはないはずだった。
山間の小さな集落、もう両手ほどの数しか住人のいない里、廃れゆく我が故郷だ。
小中学校も若かりし私が大学進学の年に百年の歴史に幕を下ろし、道すがらに覗いてみれば思い出深き校舎は既になく、他人行儀な校名の刻まれた石碑と、石で落書きを施した記憶のある苔むした門柱が、真夏の日差しに照らされていた。
広大な敷地と広い校舎を駆け回ったはずなのに、眼前のこぢんまりとした跡地にセイタカアワダチソウが酷風に耐えて、あの頃のように遊んでいる。
風雨でボロボロになった門柱の脇に、私はしゃがみ、手に持つ家の鍵で地面に近くの苔むしたあたりを突き刺し、柔らかな緑のスポンジを取り去ると、その下から刻まれた落書きが姿を現した。
「あなた?どうしたの?」
少し離れた石碑から日傘をさした妻が私を呼ぶ。
「大丈夫、過去語りだよ」
振り向くことなく返事をして、刻まれた文字をじっと眺める。
『たっくん、私をお嫁さんにしてくれる?』
幻想の幼声が脳裏に聞こえくる。
体操着姿にランドセルを背負い、黄色い帽子を目深にかぶって表情を隠した女の子、胸元の名札に「かつらがわ まい」と達筆な母親の文字があった。
あれは確か、音楽の授業でカスタネットを習った日のことだ。
一年生は二人だけ、ずっと幼馴染として過ごしてきた仲だった。遊び半分に鳴らしながら下校する最中に、この門柱のあたりでひときわ激しく、「カチン」と覚悟を打ち、私の前に走り出てそう口にした。
『うん!もちろん!』
女は生まれた時より女で、男は童、だから、さも当たり前のように私は同意してしまった。その意図を深く考えるには、まだ童すぎた。
『嬉しい!』
抱きつかれることはじゃれあいで慣れていた、だから、深く考えることなどなかったが、今にして思い返せば、あれは深い深い愛情のこもった抱擁であっただろう。
『やくそくのあかしがほしい』
『やくそくのあかし?』
『うん』
私は辺りを見渡した。
彼女は生まれつき病弱で、心臓に致命的なトラブルを抱えていることを母から聞かせていた、倒れたのを、救急車で運ばれてゆくのだって何度も目にした、だから、校舎に戻ることも私だけの秘密基地に誘うのも憚られ、思いついた先は、安直で単純なそばにある門柱だった。
私は門柱の根元にしゃがみ、転がっていた石を掴んで手招きをした。
見上げた彼女の目深にかぶった帽子の内側には、忘れることのない情熱を宿した雫の潤目があった。
見つめ合いは、いつしか語り合いとなった。
相合傘を掘り込んで、右に「たなか たくみ」左に「かつらがわ まい」と刻み込んだ。
『ひみつだね』
『ひみつだね』
それは初めて人と交わした誓いだった。
互いに見つめ合って、笑い合って、頷く。彼女の笑顔が照りつける太陽のように眩しかった。
けれど、その日の夕方、彼女が発作を起こし救急車で運ばれて行くのを泣きながら見送った。
それが彼女との別れとなることとは、思いもしなかった。
慌ただしく彼女の両親は引っ越してゆき、空き家となってしまった建物の前を通るたびに、思い出が脳裏を駆けてゆく、やがて、その道を避けて歩くようになり、それは集落を出るまでの習性となった。
「もう、帽子くらいかぶって、熱中症になるわよ」
日傘をさした妻の影がそう言った。
振り返って見上げれば、艶やかな黒髪と白絹のような玉肌のやつれた初老の私と違う、美人の妻が私の愛用の帽子を手にしていた。
「すまん、ありがとう」
帽子を受けとって被り、私は立ち上がって背筋を伸ばす。
パキポキと音が鳴るたびに、背の低い妻がこちらを見上げては、呆れと不安を帯びた表情をして、こちらを見ていた。
定年退職してすぐに大病を患った。
急遽の手術から長いリハビリまでを、二人三脚で歩んみ、一ヶ月前にようやく退院を許されていた。
『どこかいきたいとこはある?』
『そうだなぁ、お盆に帰れなかったから、墓参りにでも……』
『あら、いいんじゃないかしら』
数日前、自宅で籠りきりとなっていた私を心配して、妻が誘いをかけてくれたお陰で、こうして懐かしく思い出深き、ふるさとの地を踏みしめている。
ふと空を見上げてみる。
あの頃と何一つ変わらないものを見つけた。照りつける太陽に遠くに聳り立つ入道雲、暑さを纏う風が吹き抜けてゆく。
「『カチン』」
カスタネットの音がした。
手の平サイズの小さな楽器、幻想の響きが鼓膜を揺らして、全身を駆けてゆく。
私は余韻を味わうように目を閉じて、残響にしばし耳を傾けた。
「カチン」
確かな音が再び鳴った。
甲高く力強い音が確かに聞こえ、やがて柔らかな抱擁が我が身を包み、変わらぬ香りの抱擁を私もそっと包み込んだ。
「驚いた?」
「びっくりしたよ」
「やくそく、覚えててくれたんだ」
「やくそく、覚えてたよ」
「私の誕生日は忘れるくせに?」
「結婚記念日を忘れたこともあった……」
「二つとも許してない」
「いや、許してほしい」
「いいよ、やくそく、守ってくれるから、覚えてくれたから、許してあげる」
「よかった……、心配かけてごめんね」
「馬鹿、無理しないでね」
やくそくは守られていたのだ。
いくつもの重なり合った偶然は、定められた必然となり、やがて実を結んだ。
見つめる先に、忘れることのない情熱を宿した雫の潤目があった。
カスタネット、カチン 八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子) @suzunokisuzunoki
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