Forget-me-not

緋櫻

Forget-me-not

『平成〇×年 九月十三日 金曜日』


 ガラガラガラ――

 第二図書室の古い扉は、大きな音を立てながらも、大した力を加えることなく開いた。今度は音が立たないようそっと閉めようとしたけれど、それでも扉はうるさく鳴いた。

 時刻は午後六時。太陽は山の稜線に差しかかり、白いカーテンを赤く染め上げている。誰もいない部屋の中に、開け放たれた扉の音だけが寂しく反響した。

 ――ああ、早く帰りたい……。

 はやる気持ちを抑え、静かな部屋の中を進んだ。

 今日は厄日に違いない。朝は寝坊に始まり、昼は居眠りが見つかったり宿題を忘れていたりと散々だった。極めつけに、授業で使った辞書にお気に入りのしおりを挟んだまま返却してしまった。実際に棚に戻したのは図書委員と国語係だから、どこにあるのか私には分からない。

 窓際を染めている、嫌になるほど鮮やかな赤に目が痛い。カーテンからこぼれた光がもう一つのカーテンを描くように、微細びさいほこりがゆらゆらと宙を舞う。不気味な程静かな部屋から、私は今直ぐにでも回れ右をしたい気分だった。

 この第二図書室は辞書や郷土資料をまとめて配架してあるだけで、訪れる人はほとんどいない。特別教室棟の端ということもあって、周囲に人の気配は全く無かった。足早に部屋の奥へと進み、並んだ本の背表紙から目的の辞書を探した。

「ごきげんよう、諏訪すわレナ君」

 突然、誰かが私の名前を呼んだ。その声が私の鼓膜を震わせた途端に、私の体は真っ白な石膏せっこう像のように動かなくなってしまった。

 ここには誰もいなかったはずだ。後から扉を開ける音もしなかったし、そもそもこの部屋に用がある人はほとんどいない。部活も終わっているこの時間帯となれば尚更なおさらだ。だというのに、どうして声がするのだろうか。

 後ろから投げかけられた挨拶の声は、声変わりを経た低い男性のものだった。しかし、それは生徒や教員によるものではないと断言できる程に、明らかな異常があった。

「どうか落ち着いてくれ。君に危害を加えるつもりはない」

 その声は確かに後ろから、今この瞬間に発されているはずなのに、スピーカーを通したかのようなノイズが混じっていた。そして、そこには『声』以外の情報が一切無かった。身動みじろぎをする気配も、呼吸をする様子も全く感じられない。落ち着いた調子なのに、機械的で冷たい印象を受ける。

 強張こわばる身体を無理矢理に動かして、恐る恐る振り向こうとする。思うように動かない身体は、さながらオイルをし忘れた機械のように、ぎこちなく百八十度回転した。ギギギ、という擬音が私の周りに浮かぶ様を幻視した。

「驚かせてしまったようですまないね。人に会うのは久し振りで、つい話しかけてしまった」

 声の主を目視で確認して、私の身体は再び脳の発する信号を受け付けなくなってしまった。

 は第二図書室の安っぽく古い木製の椅子に腰掛けていた。そこにいたのはスーツを着た男。何の変哲もないように居座っているそれの顔は、まるで墨汁を塗りたくったように真っ黒だった。普通なら座るだけでギシギシときしむ椅子も、今は素知らぬふりをしているかのように大人しい。

 どうして、こんなことになっているのだろう。私はただ、忘れ物を取りに来ただけのはずだったのに。正直に言えば、今直ぐ大声を上げて逃げ出したい。でも、そんなことをすれば目の前の存在が何をしてくるか分からない。危害を加えるつもりはないと言うが、信じられるわけがない。相手は化け物なのだ。

 静寂の中で、私の呼吸する音だけがやけに大きく聞こえた。大丈夫、ちゃんと息はできているはずだ。ようやく涼しくなり始めたころだというのに、嫌な汗がじっとりとシャツの背を濡らす。不快な感覚共々唾つばを飲み下し、口を開いた。

「あ、あなたは、だれ?」

 声が震えるのを必死に堪えながら、異形の男に尋ねる。この行為に意味があるのかは分からない。だけど、このわけの分からない状況で、私に対抗できるすべが無い以上、この化け物が対話に応じることに賭けるしかない。

 男は大して気を悪くした様子もなく、それどころか怯える私を気遣うように、少しおどけた様子で返答した。

「私かい? ……ふむ、私が何者かというのを説明するのは、少々難しい。君も気付いているとは思うが、私は人間ではなくてね」

 その容姿を見れば一目瞭然だ。白い手袋をして紳士然とした男。中折れ帽を被った下にある顔は、いや、顔があるべき位置には、光も輪郭りんかくも無い、認識を拒むあんかいたたずんでいた。

「そうだ、君は忘れ物を取りに来たんだったね?」

 どうしてそれを――と尋ねる暇もなく、男は言葉を続けた。

「君の探している栞は、この部屋の一番奥にある右から三つ目の棚。その三段目の左端にある辞書の三七五頁ページに挟まっている」

「本当に?」

 本当だとも、と応える声を背に、部屋の奥へと進んだ。

 そして指定された棚には、ちゃんと私が使った赤い背表紙の辞書が収まっていた。確か、あれが言っていたのは、三段目の左端だったはず……。

 見つけた。

 しばし逡巡しゅんじゅんした後、思い切ってその一冊を引っ張り出す。手にとって開くと、導かれるように五分の一くらいの場所が自然に開き、その中央には私の栞が挟まっていた。

「あった……」

 右下のページ数を確認すれば、やはりと言うべきか、三つの素数が踊っていた。

 汗で湿った背筋を寒気が撫でた。明らかに超常的なことが起きている。本棚に隠れて見えないあの得体の知れぬ黒い何かが、今も尚私を覗き込んでいるような錯覚に陥る。

 チラリと左を見た。そちらにはもう一つの出入り口がある。今なら、この非現実的な空間に背を向けて、見ないフリをすることができるかもしれない。そうだ、それがいい。もう栞は見つかったんだ。帰ってしまっても支障は無い。

 その選択肢はあまりに甘美で、しかし、それを選べば取り返しのつかないことになりそうな気がして、私はしばらく動くことができなかった。

「どうだい、ちゃんと見つかっただろう?」

 静寂を破るように声が響いた。どうやら時間切れのようだ。

 辞書を元の場所に戻し、教室の前方にある机が並んだ閲覧スペースに戻る。カーテンの隙間から覗く西日は、先程からほとんど動いていなかった。

 静寂の中、またもそれが口を開いた。

「格好良い栞だね。五芒ごぼうせいの栞なんて、どこで買ったんだい?」

 私は栞を見せていない、というのも今更かもしれない。最初から私の探し物が栞だというのも分かっていた。しかし、私の趣味について言及するのはやめてほしい。痛々しさ丸出しで恥ずかしい。

「さて、これで君の問題は解決しただろう。君はもうここに用はないと思うが、少しだけ、私の話し相手になってくれないか? もちろん他意は無い。無事に家に帰すと約束しよう。断ってもらっても全く構わない」

 そう男は提案するけれど、全くもって信用ならない。何せ相手は化け物なのだ。話すだけで終わるとは到底思えない。一体この化け物は何を考えているのか、そもそも【考える】という概念が私達と共通して存在するかすら怪しい。

 思考はどんどん早くなれど、答えが見つかる気がしない。私はここでどうするべきなのだろうか。

 パンクした頭の中で一つ、全てを無視した欲が顔を出した。こんなに面白いことは、滅多にないぞ、と。

「わかりました。でも遅くなるといけないので、少しだけです」

「ありがとう。恩に着るよ」

 さて、これでもう後戻りはできない。


 私は彼の正面の椅子に座り、しばし歓談に興じることとなった。相変わらずこの椅子はギシギシと騒がしく、座っていても落ち着かない。浮つく心をそのままに、私は口を開いた。

「結局、あなたはどのような存在なのですか? なぜか私の名前も、忘れ物の場所も知っていましたし」

 人智を超えた存在であるのは確かだ。どう足掻いても、科学で説明することは不可能だろう。ノイズ混じりの声に、認識できない顔。不自然な箇所を挙げればキリがない。

「ふむ、そうだね……。確かに、私だけが君のことを一方的に知っているというのも不公平だろう。しかし、何と言ったらいいものか、これが本当に難しくてね……」

 そう言って彼は輪郭の無いあごに手を添えた。本人には触れている感覚があるのだろうか。

「私のことをできるだけ簡潔に表すとしたら、【忘れられたもの】というのが丁度いいだろう」

「【忘れられたもの】?」

「そう、私の全ては、誰かが忘れてしまったものからできている。例えばこのスーツは、辞任した教師が準備室のロッカーに置いていって、そのままになってしまったものだ。これの存在を覚えている人は、もうどこにもいない」

 分かるような、分からないような。そもそも忘れるって何だろう。ふとした時に思い出すこともあるし。

九十九つくも神のようなもの、ということでしょうか」

「いや、少し違うだろう。私は一個体というよりは、集合体に近い存在だ。忘れられているもので出来ているのは外見だけではない。私の記憶もまた、誰かが忘れた記憶で出来ている」

 ますます分からなくなった。記憶が他人のものって一体どういうことなんだろう。何を覚えていて、何を覚えていないのか。記憶が無いなら、自己を認識できるのか。

「じゃあ、今私の目の前で自我を持って話しているあなたは、どんな理屈で存在しているのですか?」

「それは……いや、この話はまた時間があるときにしよう。きっと長くなる」

 ただの勘だけど、おそらく彼はこの話題に良い感情を抱いていない。もし彼に顔があったなら、苦虫を噛み潰したよう、という表現にピッタリの表情をしていたことだろう。

「兎も角、私が君のことを知っているのは、君を含む多くの人々が忘れてしまった、君についての記憶を持っているからだ」

 そう言われると何だか気持ち悪い。私でさえ知らない、私の心の奥底まで見透かされているような気がする。こうして友好的に対話してはいるが、やはり彼は化け物なのだ。

「例えば、君が小さいころ、川でおぼれたことがあっただろう」

「そうですね。あまり経緯は思い出せないですが、必死で泣き叫んで助けを求めた覚えがあります。確か、通りすがりのお兄さんが助けてくれたはずです」

 確かにそんなことがあったことを覚えている。あれは私が幼稚園の年中のことだったはずだ。

「その経緯についても私は知っている。あれは君の妹が落として流されたストラップを取ろうとしたからだ。あのとき君は、ストラップを取るまでは上手に泳げていたはずなのに、その後安心して急に力が抜けてしまった」

 ぶわっ、と。彼の言葉を聞いた途端に、私という存在の奥の方から、無数の泡のように記憶が浮上してきた。そういえばそんな感じだった。あのときは兎に角必死で、服が濡れるのも、溺れることも考えず我武者羅がむしゃらに、目の前にある兎の小さなぬいぐるみを掴むことだけ考えていた。

 先程は気持ち悪いと表現したけれど、なんというか、今度は親戚のおばさんみたいだと感じた。私はその人のことを全然覚えていないのに、向こうは私のことをたくさん知っている、あの感じ。それがちょっと申し訳なくて、接するのが苦手なんだけど。


 それからしばらく、彼と世間話に興じた。

 彼はどうにも掴みどころが無く、形容し難い存在だ。見た目や性質はどこからどう見ても化け物なのに、言葉や行動の端々には、どことなく人間臭さを感じる。或いは子供っぽいと感じる部分もあった。その性質からか博識なところも相まって、ちぐはぐなパッチワークのような印象を受けた。

 気付けば太陽は山の向こう側に消え、空は赤色から紫色に変わっていた。もう帰らないと、家族が心配するだろう。

「最後に一つだけ、訊いてもいいですか」

「何でも訊いてくれたまえ」

 彼は鷹揚おうように頷いた。奥行きも輪郭も分からないため、帽子が上下しただけにしか見えないけれど。

「あなたの名前を教えてくれませんか」

 そうなのだ。私はこの化け物の名前をまだ知らない。名前も知らないまま、ずっと話していたのだ。

「ふむ……」

 そう言って彼はしばし黙り込んでしまった。もしかして訊いてはいけないことだったのだろうか。例えば名前を知られたら死ぬとか、或いは名前を呼んだら何か良くないことが起きるとか……。

「急に黙り込んでしまって申し訳ない。重ねて申し訳ないが、私には名乗れるような名前が無いんだ」

「そもそも名前自体が無いということでしょうか?」

 確かに、少し考えれば分かることだった。私達の名前は親から与えられたものだ。もしかしたら彼にも生みの親がいるのかもしれないが、正直に言うと全く想像がつかない。

「先程言ったように私は個体というよりは集合体に近くてね。人と関わることもほとんど無かったから、個人として識別する必要が無かったんだ。もし良ければ、君が考えてくれないだろうか」

「私が?」

 全く予想もしていなかった一言にびっくりした。名前、名前かあ……。そんな大層な役目が私で大丈夫なんだろうか。正直センスに自信はない。記憶、男、黒、忘れ物……。

「……では、『忘れられた人』という意味で、【忘れ者】というのはどうでしょう」

 少しばかり安直で、記号的過ぎるような気がするけれど、どうだろう。

「いい名前だ。ありがとう、大切にしよう」

 名前をつけた経験なんてなかったから不安だったけれど、気に入ってもらえたようで良かった。

「私からも最後に一つ、いいだろうか」

「ええ、私にできることなら」

 彼は改めて姿勢を正し、私に向き直ってこう言った。

「どうか私のことを、憶えていてほしい」

 これが、私と彼――【忘れ者】の出会いだった。



『平成〇×年 十月九日 水曜日』


 あれから大体一ヶ月が経った。忘れ物を取りに行った第二図書室で、私は化け物と出会い、彼に【忘れ者】という名前をつけた。それからというもの、私は休み時間や放課後に度々第二図書室を訪れ、彼と他愛もない話をしていた。

「ところで諏訪君」

「何? 【忘れ者】」

 暇を持て余して昼休みに第二図書室で過ごしていると、【忘れ者】から話題を振られた。彼から話してくれることは多くないけれど、そのどれもが興味深い話ばかりだ。その性質からか、彼は私の知らないことをたくさん知っている。

「学校の七不思議、というものに興味はあるかい?」

「ある! もしかしてうちにもあるの?」

 興味が無いわけがない。私はオカルトものには目が無いのだ。学校の七不思議なんてのは定番も定番だけど、私の通っている学校どころか、他校の友人さえそんなものは無いというものだから、所詮は都市伝説かとがっかりしていたのだ。

「ある、というよりは、あったと表現する方が適切だろう。何せ私が覚えているのだから」

「忘れられたってこと? でも、どうせなら聞かせてよ」

 もう伝わっていないのは残念だけど、うちに一体どんな七不思議があったのか、非常に気になる。

「いいだろう。まず一つ目は――」

 それから、【忘れ者】はこの中学校に伝わっていた七不思議を一つずつ語り始めた。


一つ、黄昏たそがれ時の三階に覗く人影。

二つ、図書室の妖精さん。

三つ、顔のない先生。

四つ、中庭の池を這いずる泥人形。

五つ、どこからか響く戸を叩く音。

六つ、独りでに鳴る音のおかしなグランドピアノ。

七つ、存在しない生徒。


「これが、うちの中学の七不思議だって!」

「ふーん?」

 私が若干興奮気味に話すと、友人は興味無さげに相槌あいづちを打った。もう少し食いついてくれてもいいじゃないか。これでは私が道化みたいだ。

 彼女は芦屋あしやネム、私の昔からの友人だ。いつもは子供っぽいのに、こういった話のときだけは妙に冷めている。

「だって、ほとんど合理的に説明できそうじゃん。一つ目はただの人。三つ目はたばこの煙で見えなかっただけ。四つ目は池の中に何か落として探してた人。五つ目は何も不思議じゃない。六つ目は授業の無いときに調律してたもので、七つ目はイマジナリーフレンドでもいたんじゃない?」

 本当にこの子は変なところで夢が無い。せっかく不思議なものがあるんだ、わくわくして想像をふくらませたっていいのに、どうしてそんなに現実的な方向へ持っていきたがるのか。

「でも、二つ目は思いつかないんでしょ?」

 それに、私は【忘れ者】というイレギュラーを知っている。少なくとも、七不思議の全てが偽物というわけではないと思うのだ。

「情報量が少ないから目星がつかないだけで、どうせそれもロクなもんじゃないよ。というか、七不思議なんて聞いたことないけど、どっから出てきたのさ?」

「近所のおじいさんに聞いたんだ。昔からこの辺に住んでたらしくてさ。下校中によく会って話をするんだ。でも、お帰りって言われたらなんて返すのが正解なんだろうかっていっつも思ってる」

 流石に【忘れ者】に聞いたなんて言えやしない。慌てて誤魔化しの言葉を並べるけれど、こういうときだけは妙に回る舌が、頼もしくもあり恨めしくもある。嘘はほんの少しだけ、残りは本当のことだ。

 ネムはそれ以上私に追及してくることもなく、うまく話題を逸らすことに成功した。


 放課後第二図書室に来ると、今日も変わらず【忘れ者】が音も無く座っていた。授業で来るときは姿を消しているらしく、見ることはできないけれど。

 七不思議について、私は一つ気になることがあった。

「ねえ、【忘れ者】。お昼に話してくれた七不思議ってさ、もしかして、あなた自身のことが入ってたりしないかな」

 そう、七不思議というと大層な伝説だが、私の目の前にいる【忘れ者】も大概不思議な存在だ。七不思議に数えられていてもおかしくはない。

「……都市伝説というのは、分からないからこそ浪漫があるものだとは思わないかい。それをこの口で語ろうというのは、少々無粋と言わざるを得ない」

 言っていることはもっともだけど、私にははぐらかそうとしているようにしか見えなかった。しかし、いくら追求しようと、彼は教えてくれなかった。



『平成〇×年 十一月五日 火曜日』


「ねえ、【忘れ者】。ちょっと訊いてもいい?」

 すっかり空気も冷えてきた十一月。第二図書室へ通うのもずいぶん慣れたけれど、ここは暖房もないから最近は肌寒くて困る。そういえば、【忘れ者】は温度を感じることができるのだろうか。私はまだまだ彼のことをよく知らない。

「何だい、レナ君?」

 友人、と言っていいのかは分からないけれど、私は存外この時間を気に入っている。彼は色々な知識を持っていて、話のタネは尽きない。悩み事についても様々な提案をしてくれる。

「その帽子は、どうして被っているの?」

「これかい?」

 彼は帽子をひょいと取った。取れるんだ、それ。

 彼には頭部が存在しない。それどころか、体というものが存在しないのだ。草臥くたびれたスーツの襟、袖、裾から覗くのは、見通すことのできない暗闇。外界との境界線はあやふやで、まるで煤が集まって人間をかたどっているようだ。そして、古ぼけた中折れ帽がその暗闇の上にふわりと乗っている。

「初めて会ったとき、そのスーツは教員だった人が忘れたものだって言ってたでしょ? じゃあその帽子についても何かあるのかと思って」

「ふむ、そうだね。この帽子は確かに大切なものだ」

 そう言って彼は帽子を優しく胸に抱いた。スーツのときとは少し様子が違う。スーツについて話したときは飽くまで他人のことのように話していた。しかし、今回はそうではない。彼が『大切』というのならば、これは彼自身に所縁ゆかりのあるものなのだろうか。

「その帽子には、どんなことがあったの?」

 思い切って訊いてみる。出会ったばかりのころならきっと話してくれなかっただろうが、今なら話してくれるかもしれない。

 しかし、その希望は予想もしない形で裏切られた。

「それが、全く分からないんだ」

「分からない?」

 一体どういうことなのだろうか。噓をいて誤魔化そうとしているのか? いや、そんな様子はないし、今までもそんなことをする素振そぶりは見せなかった。でも、彼に限って覚えていないなんてことがあるのだろうか。

「これが誰のもので、どうして私が持っているのか。それらについて私は一切の情報を持っていない」

「でも、さっきは大切だって言っていたよね?」

 それではおかしい。どうして一切知らないものを大切だなんて言うのか。

「分からない。私はこれが何なのかほとんど知らない。けれど、だからこそ、これが大切なものだってことは分かるんだ」

 そう言って彼はまた帽子を被り直した。

「へんなの」

 私がそう言うと、彼は愉快そうにくすりと笑った。

「そうだね、私も変なことだと思うよ。けれど、私の存在を思えば今更じゃないかい?」

「それはそうだけどさ」

 また彼について謎が深まってしまった。本当に彼は何なのだろう。知ってはいけない気もするけれど、興味を持たずにはいられない。さながら好奇心に侵された猫のようだ。私は彼という底なしの沼に足を踏み入れて、いつか帰って来られなくなるのかもしれない。

「そうだ、【忘れ者】。ここで勉強していってもいい? そろそろ受験なんだけど、あまり身が入らなくて」

「もちろん構わない。もし分からないところがあれば、私が教えてあげよう」

「え、【忘れ者】って勉強できるの?」

「当たり前だ。君達が忘れた記憶がどこに行くか、君も知っているだろう?」

 夕方の短い時間は、あっという間に過ぎていった。


「ねえねえ、最近レナちゃんが放課後に何してるか知らない?」

「知らないなあ。というか、諏訪さんについて詳しいのは芦屋さんの方じゃないの? いつも一緒にいるし」

「いやー、それがね? 最近放課後になるといつの間にか姿を消しちゃってさあ。なーんか私に隠してる気がするんだよね。あと、ちょっと嫌な予感がする」

「なになに、やきもち? もしかしたら、彼氏かもよー?」

「だとしたら、レナちゃんにふさわしいヤツか、私が直々に確かめてやらないと」


 遠ざかっていく二人の足音を聞きながら、私はそっと教室の戸を開けて中に入った。

 【忘れ者】に忘れ物があることを指摘されて教室に戻ると、中からネムの声が聞こえてきて、思わず隠れてしまった。盗み聞きをするつもりは無かったんだけど、聞かない方が良かったかもしれない。どうしたものか……。


『平成〇×年 十二月二十日 金曜日』


「ねえ、レナちゃんさ。最近付き合い悪くない?」

 朝、自席に座って一息ついたところに、そんな問いが投げかけられた。

「そ、そうかな?」

 質問の主は芦屋ネム、私の友人だ。彼女とは幼稚園のころから親交があり、家が近所ということもあってよく行動を共にしている。

「そうだよ。放課後に遊ぶことも少なくなったし、一緒に帰ることも減ったじゃん。SHR《ショート》が終わったらいつの間にか居なくなっちゃうし、何してるの?」

 しかし、彼女はなんというか、私にベタベタし過ぎるきらいがある。明るくてかわいい彼女のことだ、もっと広く交友を持てばたちまち人気者になるだろうに、皆からは私と二人でセットのように扱われている。私も嫌ではないけれど、ちょっと重い。

「勉強だよ。もうすぐ受験が始まるし、ちゃんとやっておかなきゃいけないと思って」

 嘘ではない。勉強に力を入れているのも本当だ。もう高校受験まで時間が無い。一月末には私立が迫っている。

「本当かな~? 実は彼氏ができたとか?」

「ないない。そんな余裕はないよ」

 しかし、勉強だけではないのもまた事実だ。四ヶ月程前から私は【忘れ者】のところに度々通っている。いや、これも勉強のためと言っても嘘ではないのだけど。最近は彼のところで勉強をしているけれど、これが非常に便利なのだ。彼は私の忘れているところをピンポイントで把握しているため、中間試験では大変お世話になった。

 しかし、やはり怪しまれていたか。この前盗み聞きしてしまったのは、聞き間違いではなかったらしい。だけど、本当のことを話せるはずがない。そもそも信じてもらえるとも思わないけれど、オカルト否定派の彼女が【忘れ者】と遭遇したとき、どんな行動に出るのか分かったものではない。

 誤魔化すのは忍びないけれど、そうする他ないだろう。

「ネムこそ、勉強はちゃんとやってるの? もう学年末テストまで一ヶ月だけど」

「ぐう、それを言われるとぐうの音もでない……」

「出てるじゃん。冗談を言う余裕があるなら大丈夫そうかなー?」

「いやいや、全然大丈夫じゃないです。どうかお救いくださいレナさま―」

 ネムは別に頭が悪いわけではない。ただひたすらにやる気がないため、テスト当日回収のワークが終わらないことが度々あり、私に泣きついてくるのだ。もうそろそろ卒業なのだから、最後くらいはしっかりしてほしい。

「今回こそは早めに終わらせるよう、一緒に勉強会でもしようか」

「うぐぐぐ……、やりたい気持ちとやりたくない気持ちがせめぎあっているよ……」




「――っていうことがあってね?」

「そうか……」

 場所は変わって第二図書室。私はいつものように【忘れ者】と話をしていた。

「しばらくここに来る頻度ひんどが減るかも……って、話聞いてる?」

 どうも彼の反応が薄い。何かあったのだろうか。

「あー、その、非常に言いにくいんだが」

 珍しく歯切れが悪い。いつもはもっとズバズバとものを言うのに、一体どうしたというのだ。

「……後ろを見てくれ」

 怪訝けげんに思いながらも入口の方を覗くと、教室の扉が開いていた。そしてそのそばには、つい先程まで彼に語っていたネムの姿があった。噂をすれば影、とはこのことか。

 ――マズい。

「えっと、ネム、これは――」

「レナに何をしてるのっ」

 声を張り上げる彼女は明らかに冷静さを欠いている。私の声も聞かず目にも止まらぬ速さで机を踏み越え、あっという間に私のすぐ後ろにやってきた。そのまま腕を掴まれ、私は彼女の背中に隠されてしまった。

「待て、話せば分かる」

「化け物と交わす言葉なんてないね!」

 そう言って彼女は通学鞄を両手で持ち、思いきり横に振りかぶる。

「あまり手荒なことはしたくなかったんだが……」

 いつの間にかネムのすぐ目の前に移動していた【忘れ者】が彼女の腕を抑え、もう片方の腕で彼女の額に触れた。

 鞄が床に落下する音が、まるで他人事のように私の耳に入った。彼女は電源が切れた機械のように脱力し、私の上に倒れてきてしまった。

「ネムに、何をしたの……?」

「安心してくれ、何も危険なことはしていない。彼女は眠っているだけだ」

 彼はもとの椅子の場所まで戻りながら答えた。心なしか彼の声音が強張っているように聞こえた。

 彼女の体をそっとどかし、下から這い出て椅子に座る。

「説明、してくれるんだよね?」

「もちろんだ。ただ、何から話せばいいものか……。少し時間をくれないか」

「いいよ。どれくらい?」

「三分貰えれば十分だ」

 考える時間が欲しいと言われたのは、私にとってもありがたいことだった。表面上は冷静を取りつくろっていても、実際はかなり動揺している。今は心の中を整理する時間が私にも必要だった。


 静寂の三分間はあっという間に過ぎてしまったけれど、体感ではまだ五十秒程度しか経ってないような気がする。初めて会ったときの沈黙は、永遠に続くかと思う程長かったのに。

「さて、まずは彼女の状態について話そうか」

 私の後ろで静かに眠っているネム。この三分間でも一切起きる気配はしなかった。

「先程も言ったが、今の彼女は眠っているだけだ。命に別状はない。一時間もすれば目を覚ますだろう。ただ、起きた後の話だが……、彼女は気絶する以前の一時間程度の記憶を失くしているはずだ」

 遭遇する前後のネムの記憶を奪ったということだろうか。彼の性質を考えれば、そんなことができてもおかしくはない。

「さっきのを無かったことにできるってことでいい?」

「その認識で構わない。だから、一時間経つ前にここを去ってくれ」

 彼はどこか突き放すような言い方をする。

「彼女が私に対して過剰に反応した理由についてだが……、君は聞きたいか? これは私個人に関することだ。見なかったことにして、そのまま帰ることもできる」

 明確には口にしなかったけれど、その選択をしたら最後、きっと二度と会えなくなるのだろう。

 いきどおり、でいいのだろうか。心のどこかで引っかかるような、嫌な感情が浮かんできた。ここで引き返す選択肢なんて、私には端から存在しないのだ。

「あのさ、私はあなたのこと、友達だと思ってたんだけど」

「え、あ、ああ。わ、私もそのつもりだ」

 彼が動揺しているのは珍しい。でも、これくらいは言わないと気が済まない。

「だったら、少しくらいは信頼してよ! 私とあなたは存在からして違うから、距離があるのも当然だよね、分かってる。でも、それを『仕方ない』で終わらせたくないの。私は、あなたと過ごした楽しかった時間を否定したくない! ネムに危険は無いっていう言葉を信じてる。これくらいのことであなたを嫌いになったりはしないし、逃げるつもりも毛頭無いの。それで、あなたは逃げるの?」

 言ってやった。彼に対してこんなに喋ったのは初めてかもしれない。いつも、たくさん話してくれる彼に甘えていた。私の気持ちを話したことはほとんど無かった。でも、今やっと分かった。言葉にしなくても伝わる、なんて言う人もいるけれど、やっぱり言葉にしなくちゃ伝わらないこともあると、私は思うのだ。

「はあ……。少し想定が甘かったようだ。分かった、そこまで言われたら、話さないわけにはいかないな」

 良かった。私の気持ちはちゃんと伝わったようだ。

「呼吸はしないのに、溜息はけるんだね」

「茶化すのは止してくれたまえよ。今はいい感じの雰囲気だっただろう?」

 彼は苦笑しながらそう言った。

「では、改めて話そう。どうして彼女は私に激昂げっこうしたのか。それは、まだ話していない私の性質と、彼女の体質によるものだ」

 後ろでぐっすり眠っているネムを見る。至って普通の女の子だ。【忘れ者】のような存在と関係があるようには見えない。

「彼女は所謂『霊感』という超常の存在を感知できる力に優れた体質のようだ。恐らく彼女もそれを自覚していて、これまでにもそういった存在に遭うことがあったのだろう」

「待って、霊感は『そういうもの』が見える力だって言うけど、私にも【忘れ者】の姿は見えてるよ?」

 私は生まれてこの方、『そういうもの』を感じるようなことは一切無かった。私にそういう力があるとは思えないけれど、彼の姿は見えている。いや、もしかしたら見えていないのか? 黒い煤のように見えるその体は、実際は違うものなんてことがあるのかもしれない。

「君に見えているのは、私という存在の核、或いは骨というべき部分だ。概念に近い存在であり、霊や妖怪のようなものとはまた違う存在だ。だが、彼女が見たのは私の肉の部分だ」

「つまり、その肉の部分が良くない方向のスピリチュアル的存在ってこと?」

「そうだ。例えば、この人格は一人の少年の地縛霊から成っている。彼は他の生徒の手によって教室の物置に閉じ込められ、そのまま誰からも忘れられて死んだ」

 その理屈で言うと、彼は元々人間だったらしい。しかし、この学校でそんなことが起きていたとは、全く知らなかった。

「もちろん、このことはおおやけにはなっていない。幸か不幸か、少年を見つけたのはここの教員だった。事態が大きくなることを恐れた教師陣はそのまま事件を隠蔽いんぺいし、やがてこの事件の真実を知るものは誰もいなくなってしまった」

 そう語る彼の姿は、いつもより小さく見えた。きっとこれは何十年も前に起きたことなのだろう。何か言った方がいいかと思うが、私には彼にかける言葉が見つけられない。

「そして、私は記憶を収集するという性質上、たちの悪い念が集まってくることも往々にしてあってね。外側だけを見れば悪しき化け物と何ら変わらないわけだ。だから、彼女は私を敵だと思って攻撃した」

「不幸な事故だったわけだね」

「すまなかったね。君を巻き込んでしまった」

「元はと言えば私の不注意だったんだから、【忘れ者】が謝ることはないよ」


 しばらくして、窓の外は真っ暗になり、星々がまたたいていた。冬の冷たさが足元から襲ってきたけれど、隣から伝わる温もりのおかげで寒くはなかった。

「う、うーん……」

「あ、起きた?」

 ネムが私の隣でもぞもぞと身動ぎをする。肩口で彼女の髪が擦れてくすぐったい。

「あれ、レナちゃん? え、何、今何時?」

「六時だよ。もう、大変だったんだからね。図書室で自習してたら、ぐっすり寝ちゃうなんて」

 本当のことはやはり言えない。隠し事をしているうしろめたさはあるけれど、知らない方がいい事もある。

「え、そうだったっけ?」

「もう、その様子じゃ勉強の内容も全然覚えてないみたいだね。また勉強し直しだ」

「そんなあ……」

 嘘とはいえ、勉強する必要があるのは事実なのだから、甘んじて受け入れて貰おう。

「ほら、立って。そろそろ帰らないと怒られるよ」

「えー、もうちょっとこうしてちゃだめ? ほら、あったかいし」

 仕方がないなあ、もう。

「ネム、ありがとね」

「ん、どうしたの急に」

「別に、特に意味はない」

「なにそれ」

 二人で笑いながら、夜道を歩いて行った。



『平成〇△年 三月七日 金曜日』


 皆でぞろぞろと列を成し、廊下を歩いていく。体育館から出たのに、いまだに頭の中でカノンが鳴り響いていた。

 教室に入ると、先生が夜なべして描いたのだろう黒板アートと共に、でかでかと主張する『卒業おめでとう』の文字が私達を出迎えた。

 私達は今日、この学校を卒業する。とは言っても、やることはそこまで多くない。先生のありがたいお話を聞き、数少ない友達との別れを惜しみ、同じ志望校だった子には「同じ高校に通えるといいね」と声をかけた後、荷物を纏めてさっさと教室を後にした。

 足早に、かつ足音を立てぬよう静かに向かう先は、いつもの場所。ネムには校門で待っていて貰うように伝えた。なんだかんだ皆に好かれていた彼女のことだ。一人で待たせることにはならないだろう。

 ガラガラガラ――

 相も変わらず騒がしい扉。教室の喧騒けんそうとは対照的な静けさが漂う第二図書室の中に、軽快な音が鳴り響いた。

「やあ、【忘れ者】。お別れを言いに来たよ」

「ごきげんよう、諏訪レナ君。胸の花が似合っているよ」

 この学校を離れれば、当然【忘れ者】と会うこともできなくなる。彼はこの場を離れない。それは、以前語った少年の地縛霊と関係があるのだろう。

「あなたと過ごした半年、楽しかったよ」

「そうか。そう思ってくれたなら良かったよ」

 重苦しい雰囲気はもう十分やったから、私達にはこれくらいあっさりとした感じで丁度いい。

「そうだ、君にこれをあげよう」

 そう言って、彼は帽子を脱いで私に手渡した。何の変哲もない、ただの中折れ帽だ。帽子のない真っ黒な彼の頭部は何だか違和感を感じる。

「これ、大切なものだって言ってなかった?」

「ああ。でも、もう大丈夫なんだ。これは私の一部になった」

「一部?」

 彼の発言が理解できず首をかしげていると、黒いもやが彼の頭上に集まってきて、やがてそれは私が持っている帽子と全く同じ姿になった。

「だから、そっちは君が持っていてくれ」

 そう言って肩をすくめるように笑う彼の姿は、どこか寂しそうに見えた。

「分かった。大切にするよ」

「最後に一つだけ。どうか私のことを、憶えていてほしい」

 こうして、私と彼――【忘れ者】の関係は終わった。


 ――はずだった。


『令和▽◇年 八月十三日 火曜日』


「何、これ……」

 始まりは部屋の掃除だった。私がこの家を離れて二十年近くになる。そろそろ物を整理しなさいと母に言われたため、仕方なくお盆休みの中掃除に勤しんでいた。

 大学卒業後、半ば家出のような形で実家を出た私の自室は、当時の姿そのままで残っていた。懐かしさを噛み締めつつ泣く泣く不用品を処分、或いは自宅に持ち帰るように仕分けていたところ、箪笥たんすの奥に大事そうに仕舞ってある箱を見つけた。

 その箱は何の変哲もないお菓子の箱で、しかし、私はそれを大事にとっておいた理由が全く思い出せなかった。

 そしてそれはふたを開けても変わらなかった。身に着けた覚えもない古びた帽子と、小さな手帳が一つ。表紙には私の名前が書いてあったけれど、何一つとして覚えがない。その手帳はどうやら日記であるようだった。

「わけが分からない……」

 おかしいのはここからだった。

 日記が読めないのだ。何度目を擦り、見返してみても、その内容が読み取れない。文字は認識できる。ちゃんと私の書いた日本語だ。なのに、意味を持った文章として認識することができない。まるでその文字列から【情報という概念】が抜き取られてしまったかのように、いくら読んでも内容を理解することができなかった。唯一理解できたのは、日記を書いた日付のみ。他は単語すら頭に入っては来なかった。

 自分がおかしくなってしまったのかと思った。脳梗塞にでもなったのではないかと。でも、他の文章を読むことは難なくできた。おかしいのはこの日記だけ。

 帽子の方にも何かないかと思って隅々まで見てみたけれど、こちらは何の変哲もないただの中折れ帽だった。特筆する点があるとすれば、異様に古ぼけていることだけの、ただの帽子。

 日記を母親に見せてみたけれど、何も書かれていないと言われてしまった。だけど、そんなことは絶対にない。やはりこの日記が異質であるのは間違いなかった。



『令和▽◇年 八月十四日 水曜日』


「久しぶり~!」

「久しぶりだね。ネムは全然変わってないね」

 翌日、約束していたネムと会った。

「えー、そうかな? 少しはカンロクってのが出てきたと思うんだけどなー」

 昼下がりのカフェで、数年ぶりに友人とお喋りをした。私と同じく実家に帰省してきている彼女は、今でも変わらず快活な様子だった。つられて私も十代に戻ってしまったような気もする。

 ネムは大学卒業後、不動産会社に就職したらしい。そこでいい人とも出会って、今では二児の母だ。

「そうだ、これを見てくれない?」

 しばらくとりとめも無い談笑に興じた後、そう言って私は昨日見つけた日記をネムに見せてみた。

「何、これ?」

「実家で見つけた日記帳なんだけど、どうしてか読めないの。日付は中学生のときだったから、ネムなら何か知ってるんじゃないかと思って」

 中身が分からなくても、あの頃の私が持っていたのを見たことがあるかもしれない。

「残念だけど、見覚えはないかな。それにしても、これヤバいね……」

「ヤバい?」

 確かにどこかおかしいのはそうだけれど、そこまでだろうか。するとネムは神妙な顔つきで日記の数か所を指さした。

「ここと、ここ、それからここ。レナちゃんと深く結びついてる言葉。たぶん、名前だと思う」

「ちょっと待って、何の話?」

 まるで私に見えない何かが見えているような口ぶりだ。私の知る限り、ネムにそんな力は無かった……無かった、はずだ。逆に、彼女はそういったオカルト的なモノに関しては否定派だったことをはっきり覚えている。

「えーっとね、【陰陽師おんみょうじ】って分かる? うち、その家系らしくてさ。大した力は無いけど、見ることくらいは私にもできるんだ。あ、これ人に言っちゃダメなヤツだから、内緒ね?」

 驚いた、はずだ。そんな漫画みたいなことが身近にあったなんて、信じがたい。しかし、どうしてかすんなりと受けれている自分がいる。まるで初めから知っていたような。どうしてこんな感覚がするのだろう。

 戸惑う私を置いて、ネムは説明を続ける。

「何が書いてあるのかは私にも分からないんだけど、度々出てくるこの単語だけ、レナちゃんと強い霊的なつながりがあるの。だから、これはたぶんレナちゃんが付けた何かの名前。ペットか、それともそれ以外の何かか。この日記帳がおかしなことになっているのを見る限り、たぶん後者だよ」

 全くわけが分からない。ネムのことも、私のことも、日記のことも。一体何が起きていたというのか。

「言葉っていうのは強い霊的な力があるもので、その中でも名前は特別なものなの。ほら、名前を呼ばれて返事をしたら吸い込まれちゃう瓢箪ひょうたんの話は聞いたことあるでしょ?」

 確か西遊記さいゆうきで出てくる敵が持っていたものだったはずだ。知っているかと聞かれたけれど、逆にネムがそんなことを知っていたことの方が意外だ。

「だから、この名前を思い出すことができれば、もしかしたらこの日記も読めるようになるかもしれないよ。あるいは、もしかしたらこの日記についてレナちゃんが何も分からないのは、その【名前】を忘れちゃったからかもしれないね」

 とはいえ、全く私には心当たりがない。中学三年生のころは受験勉強で忙しかったはずだ。そんな変なことに巻き込まれていたら、いくら何でも覚えていただろうし、勉強する余裕だって無かったんじゃないだろうか。

 しかし、結局どうすることもできないまま日々は過ぎ去り、あっという間に一ヶ月が過ぎた。



『令和▽◇年 九月十三日 金曜日』


 それは突然だった。

 お盆に見つけた奇妙な日記帳と帽子を自宅に持ち帰ってから、私は毎日それを眺めていた。どうにかして解読する方法は無いかと。半ば諦めかけていたころ、いきなり特定の部分だけが読めるようになっていた。

 読めるようになっていたのは二つの単語。『中学校』と『第二図書室』だけだ。しかし後者は日記の中で頻出しており、これが鍵となっているのは明らかだった。私はその二つの単語が同時に出てくるページに栞を挟み、手帳を閉じた。

「中学校か。……待てよ?」

 そういえば、実家に住んでいる妹夫婦が、今度授業参観があると言っていた気がする。あれはいつだったか。確か丁度一ヶ月後と言っていたから……。

「今日じゃん!」

 善は急げだ。私は手帳と帽子を持って、すぐさま車に飛び乗った。会社には病欠ということにしておこう。どうしても、今じゃないといけないという気がするのだ。


 授業参観と言えば、一日の最後の授業のみを取り扱うことが多い。陽気が漂う昼下がり、子供の雄姿ゆうしを見ようと訪れる保護者達に紛れて、そっと中学校に乗り込んだ。

 これではただの不審者である。まあその通りなのだけど、面倒な手続きをせずに紛れ込むには今日しかない。姪には悪いけど、授業を見るつもりは一切無い。授業の準備をしている教室の前を通り抜け、目的の場所へ向かった。

 特別教室棟は、私の記憶の中にあるものより大分老朽化が進んでいて、相変わらずの静寂に包まれていた。『第二図書室』と書かれた、三階の一番奥にある教室のドアを開ける。

 ガラガラガラ――

 軽い感触とは裏腹に、扉の音は思いの外大きく響いた。

 カーテンから漏れた光がチラチラと揺れる。沈黙が支配するこの部屋は、まるで外界から隔離された別世界のような、不思議な感覚がした。

 ここに近づくにつれ、私の中ではだんだんと懐かしさや、言い知れないような大きな感情がふくらんでいくのを感じた。きっとここに、何かがあるはずだ。

 それを知る瞬間は、すぐにやってきた。

「ごきげんよう、諏訪レナ君」

 私の名を呼ぶ誰かの声。知らないはずなのに、それはどこか馴染み深い聞き心地がして。振り返ってその声の主を視認すると、私の体は全く動かなくなってしまった。

 脳裏に浮かんだ言葉を、震える唇でそっと紡いだ。

「やあ、【忘れ者】」

 ぶわっ、と。その名を口にした瞬間、上昇する無数の泡のように、私という存在の奥底から大量の記憶が溢れ出した。中学二年生の今日から卒業するまでの半年の記憶。それらはあまりに甘美で、懐かしく、色とりどりのドロップのようだった。

 どうして、忘れてしまったのだろう。憶えておくと誓ったのに。こんな大切な記憶を、失くしてしまうなんて。

 目の前にいる【忘れ者】に、合わせる顔が無い――そう思っていたけれど、顔を上げると彼はこちらに背を向けていた。

「君には手紙を書いてある。どうかそれを読んで、そして、怒らないでほしい」

 怒るとはどういうことだろうか。私は不思議に思いながらも差し出された手紙を受け取った。


§


 ごきげんよう、諏訪レナ君。これを君が読んでいるということは、君は記憶を取り戻したのだろう。手紙越しではあるが、こうして言葉を贈れることを嬉しく思う。思い出してくれてありがとう。

 しかし、この手紙は君にとって必ずしも喜ぶべきものだとは言えない。何故ならこれは、君に対する謝罪の手紙だからだ。

 二つ、謝らなければならないことがある。それらはどちらも、ずっと君に隠していた私の性質に因るものだ。その性質とは、私自身の記憶のことだ。私の記憶は他者の忘れた記憶で成り立っていると話したが、あれには少し語弊ごへいがある。正しく言うならば、他者の忘れた記憶で成り立ち、そして誰にも忘れられていない記憶を保持することができないということだ。

 一つ目は、君と過ごした過去におけるものだ。あのとき、君は私のことを友と呼んでくれた。私も今はそう思っている。しかし、あのときはそうではなかった。

 あのときの【私】は、君と過ごした時間を覚えていなかった。もちろん、一切の記憶が無かったわけではない。しかし、君が覚えているような主要な記憶は軒並のきなみ欠けていたのだ。故に、君が友と呼んでくれた私は、そうであるフリをしつつ、君を友だとは思っていなかったのだ。私はずっと嘘を吐いていた。

 そしてもう一つは、君がこれを読んでいる現在、及び未来におけるものだ。これまでの言葉からもう予想がついているかもしれないが、おそらく現在においてもまた、【私】は君と過ごした日々の記憶を失っているだろう。それは、君が私についての記憶を思い出したからだ。これを私が書いている過去において、君は私のことを忘れていた。だから私は君のことを思い出すことができた。しかし、君が記憶を取り戻した今、誰にも忘れられていないその記憶を【私】が所持することはできない。君が私のことを覚えている限り、【私】は君のことを覚えておくことができないのだ。

 だから、私達はこれまでも、これからも、一度として対等に会話をすることは敵わない。この手紙が、友として私が君へ贈る、最初で最後の言葉となるだろう。こんな一方的な形になってしまって、本当に申し訳ない。今の私が、君と向き合って話せないことを酷く残念に思う。

 怒っても構わない。ののしって貰って結構だ。不甲斐無ふがいない私をゆるしてくれとも言わない。

 だがもしも、これらの私の罪を知ったとしても、まだ私のことを友と呼んでくれるのなら――

『どうか、私のことを憶えていてほしい』


§


「なん、で……」

 出すつもりの無かった言葉が、ぽろりと零れた。駄目だ、言ってはいけない。目の前には、何も知らない【彼】がいるのだ。この感情は、【彼】にぶつけるべきではない。でも、でも……。

「なんでよ……! せっかく思い出したのに、ようやくまた会えたのにっ……。どうして……!」

 行き場を失った感情が、止めなく溢れてくる。この気持ちをどうやって形容したらいいのかも分からない。

 悲しみだろうか。何に対して?

 彼と対等になれなかったこと。

 怒りだろうか。誰に対して?

 彼を創った世界。

 神様ってのは残酷だ。なんて性格が悪いのだろう。私の悲しみはまだいい。でも、彼の悲しみはどうすればいいのだろうか。

 私の記憶を思い出したことに気付いた彼は、一体何を思ったのだろう。私に忘れられていた間の彼は、一体どんな気持ちでこの手紙を書いたのだろう。話し相手もおらず、友と信じた者は己の存在を忘れてしまった。きっと、想像を絶する孤独だったのだろう。それはこれまでも、そしてこれからも繰り返されていく。彼が、化け物だから。

「……すまない」

「どうしてあなたが謝るの? あなたは何も悪くない」

 そう、【彼】は何も悪くない。悪いのは、忘れてしまった私か、或いは彼にこんな運命を背負わせた神様だ。そうだ、彼のような存在がいるのだから、きっと神様だっているに違いない。悪いのは、全部そいつだ。

「そうだな、だからこれはただの自己満足だ。だが一方で、嬉しくも思っている」

「嬉しい?」

 あまりにも予想外な言葉に、一瞬嗚咽おえつが止まる。

「君がそれ程までの感情を私に向けてくれるのか、私にはもう分からないが、どうにも嬉しくてね。たとえ私がそれを覚えていなかったとしても。……どうしてだろうね。何も覚えていないのに、他人事のような気がしないんだよ」

 その言葉に、また止め処なく涙が溢れてきた。

 しばらく経ってようやく引っ込んだ涙を拭いた後、私は日記に挟んでいた栞を彼に渡した。

「これは?」

「あなたは覚えていないだろうけど、私があなたに出会ったきっかけは栞だったの。だから、これをあなたにあげる」

 彼の中に、確かに私が存在した証として。

 そして私は帽子をそっと撫でた。きっとこの帽子の持ち主も、私と同じ気持ちだったに違いない。

 そうだ、今日の出来事も、また日記に書こう。そして、定期的に読み返すのだ。忘れないように。

「ありがとう、そしてさようなら、【忘れ者】」

 私はもう二度と彼を忘れたりしない。対等になることができなかったとしても、私達は友達だ。それは未来永劫変わらない。

「こちらこそ。そして、この期におよんで図々しい願いかもしれないが――」

 彼は向き直ってこう言った。

「どうか、私のことを憶えていてほしい」

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Forget-me-not 緋櫻 @NCUbungei

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