第二話 夕立を纏う屋上

 濃灰の雲が都市の天蓋を低く圧し、群れをなすビル群の稜線は墨で引いた切り絵のように硬く沈む。空気は昼過ぎから潜熱を抱え込み、まるで見えない水面が屋上一帯に張りついたかのようだ。稲光が遠方の鉄塔をかすめ、鋭い白が雲の腹を裂く。光は一瞬で消え、輪郭を失った雷鳴だけが後を追って深い空洞を揺らす。


 屋上の縁に立つ男は、上着の襟を指で押さえ、ゆるめたネクタイを胸元で揺らす。湿気を帯びた風がコンクリートの平面を滑り、磨耗した外壁に薄い声を残す。彼は鼻腔を膨らませ、大気の匂いを深く吸い込む。鉄とオゾン、そして遠いアスファルトの焼ける匂いが重なり合い、乾いた喉の奥を刺激する。空はすでに降水を孕み、厚い雲底の向こうで轟く重低音が骨に滲むようだ。


 最初の大粒が、乾いたコンクリートに丸い紋を刻む。瞬く間に斑紋は連鎖し、初夏の熱気は一斉に蒸気へ転じる。男の肩に落ちた雫が布地を濃く染め、続く一打で色はさらに深みを増す。彼は額を伝う冷たい滴を手の甲で拭い、虹彩の奥で反射する遠景を見据える。まだ灯らぬ街灯の列が灰色の地平に沈み、車の列が蟻の行軍のようにヘッドライトのない黒い筋を成している。


 突風が雲の砕片を巻き込み、路上の人々の傘を逆なでする。彼らは雨脚に追われる昆虫のように散り、交差点の信号すら統制を失ったかのように見える。男は手をわずかに広げ、降り注ぐ水粒を抱きとめる。冷えた滴が袖口から肘へ、肘から掌へと奔り、皮膚に張りついた塩気を薄めて流す。


 背広の内ポケットから、角の欠けた名刺が一枚取り出される。繰り返し指の熱を吸った紙は柔らかく、雨を含んでさらに脆くなる。男はそれを二つ折りにし、折り目を爪でなぞって小さな翼を作る。強まった風圧が彼の前髪を持ち上げ、シャツの裾を震わせるのを合図に、彼は名刺を胸の高さで放った。紙片は途端に乱流を掴み、予測のつかない螺旋を描きながら、摩天楼の峡間へと吸い込まれる。白い紙が空中で転がるたび、稲光が残光を与え、一瞬だけ銀の魚の腹のようにきらめく。


 男はその行方を追わず、まぶたを閉ざした。雨粒は次第に密度を増し、空と地を結ぶ幾筋もの糸となる。怒りじみた雷鳴が屋上の柵を震わせ、コンクリートの縁で跳ねた雫が白い水煙を上げる。彼の背後に屹立する給水塔は灰色に溶け、都市の輪郭と継ぎ目なく繋がる。身体の温度は雨に奪われ、呼気はひどく浅い。それでも男は頬を冷たい滝に晒し、胸郭を広げる。水が衣服の織り目を通り、皮膚の伏流を辿りながら、焼けるようだった昼の残熱を洗い落としてゆく。


 数歩だけ前へ出ると、屋上端のバリケード越しに街が俯瞰できる。突風に傾いだ広告塔のネオンはまだ点らず、濡れた窓面は郷愁を拒むほど暗い。雨の厚幕が都市を霞ませ、対岸のビル群は幽霊船のように灯りのない影絵となる。男は指先でバリケードの錆をこそげ取り、その粉が濡れて掌に赤茶色の線を残すのを見つめる。雷鳴が再び近づき、光が雲の腹を割るとき、彼の影はコンクリートに濃淡の像を結ぶ。直後、轟音とともにその像は波打ち、次の稲光が放たれる前に雨霧へと溶けた。


 耳朶を叩く雨脚がさらに強まり、屋上は一面の薄い白に沈む。視界の輪郭は鈍り、男のシルエットすら霧に半ば融けこむ。彼は一度だけ深く息を吸い、肺の底に冷えた空気を沈めた。排水口へ流れ込む水の渦が靴底を撫で、揺らぐ足取りを誘う。それでも彼は立ち尽くし、眼蓋の裏で稲光の残像を反芻する。天地の境が雨の帳で失われ、あらゆる色彩が洗い流される頃、男の姿は次第に薄れ、都市が吐き出した霧の中に溶解していった。

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静寂に沈む物語 Algo Lighter アルゴライター @Algo_Lighter

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