静寂に沈む物語
Algo Lighter アルゴライター
第一話 朝の光が揺れる台所
白いカーテンが、東窓から射しこむ柔らかな光を孕んでふくらむ。布の奥を透かす薄黄の輪郭が、呼吸のたびにわずかに伸び縮みし、まるで家そのものが静かに脈打っているかのようだ。梁から落ちる金の埃は、宙で留まりきれず虹色を帯び、ゆるやかな螺旋を描いて床へ降りる。その粒と粒のあいだを縫うようにして、ほのかに暖められた朝の空気が流れていく。
キッチンの隅、消えかけた炎の匂いを残すコンロの前に女が立つ。鍋の底を、指で触れもせずに手のひらで測る。湯気はもう薄く、立ち上がると同時に形を喪い、天井の影へ溶けた。琺瑯の蓋には水滴が散り、光を受けて小さな星の群れをつくる。女はもう一度鍋の取っ手を握り、静かに火口を見下ろしたが、ついと視線を逸らしている。
ダイニングテーブルには皿が二つ、カトラリーが左右対称に置かれている。だが椅子は一脚だけ。テーブルクロスの中央にはわずかな皺が残り、折り目に沿って古いワイングラスの輪染みが滲む。その染みを指先でなぞるようにして、女は空いた皿へ視線を落とした。ひと呼吸、瞳が揺れ、やがて彼女は皿の上に蓋を重ねる――まるで時間を止めるように。蓋の金属が静かに据わり、食器同士の微かな摩擦音さえ室内に吸い込まれていく。
遠くで踏切の警報が始まり、レールを震わせる電車の到来が街の一日を起こす。低く伸びる音は窓硝子を震わせ、棚に吊るされた匙を淡く揺すった。女はその微振動に気づいたようにカーテンの傍へ戻り、薄布の影に身を沈める。光の縞が横たわる床を辿り、頬へ届いて淡い色を滲ませる。長く保たれていた背中の張りがほどけ、肩が落ちると、胸の奥で押し殺されていた呼気が深い溜息となって溶けた。
壁に掛かる古びた時計の秒針は、音を立てずに影だけを廻らせる。女の耳の奥では、かつてそこにあったはずの「カチ、カチ」という律動が、遠い残響としてよみがえる。それはすぐに消え、代わりに窓辺の光が彼女の髪の一房を救い上げる。床を撫でる風が足首を抜け、素足の温度を一瞬冷やした。女は思わず踵を寄せ、指先でカーテンを掴み、布の粗い繊維の感触を確かめる。
流しの蛇口から、金属管に残っていた最後の水滴がぽたりと落ちる――しかし音は、ほとんど聞こえない。水面の揺れに映る窓の光が、波紋に合わせて細く震え、鏡のような静けさを壊しては戻る。彼女はそのさざめきを暫し見つめ、やがて流しの傍に置かれた古いマグカップを手に取る。底に残った茶葉の痕を親指でこすり、陶器の冷えを掌に溜めこむと、そっと棚に戻した。
家はまだ人の気配を完全には受け入れていない。どの部屋も半分眠ったまま、光だけが起きている。女は椅子の背を撫で、座る代わりに再び立ち上がる。張りがちな襟元を窓の光へ翳すと、布の薄さが透け、肩の輪郭が柔らかな影になる。カーテンの呼吸と彼女の呼吸がゆっくり同期し、室内の空気は深い胎動を伴った無音の波のように満ちては引く。
やがて踏切の警報は遠ざかり、遠景の街路樹が風に揺れて葉を擦る。しかしその音さえ届かない。彼女の瞳に映るのは、光の海に浮かぶ埃の粒、揺れるカーテン、二つの皿の静寂。そこに誰の声も重ならず、言葉のない朝が広がり続ける。時が過ぎていくことを告げるのは、伸びた陽光が床の隅を染め替える様子だけだった。女はその変化を追うように視線を移し、緩やかに瞬きを重ねる。
窓枠の外、街はすでに活動をはじめているのだろう。だがここでは、響きはただ痕跡として通り過ぎるだけ。彼女は再び鍋の上に指を漂わせ、まだかすかに残っている温度を確かめると、手首をわずかに傾けて合図のように小さく頷く。朝の光はその仕草を抱きとり、冷える鍋と調理台、そして揺れる布を優しく照らし出した。こうして音のない朝は、誰にも見取られぬまま静かに深まっていく。
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