第58話 再び
……私は、何もできなかった。
魔力を使い果たして、ただ這いつくばって、目の前で倒れる仲間を、見ているだけだった。
思い知らされた。
――私は、強くなんかない。
レベルが上がって、魔法が使えるようになって、少しだけ戦えて、少しだけ何かができるようになった気がしていた。
でもそれは――他人のおこぼれだった。
誰かの背中に隠れて、誰かの剣の影で、偶然を積み重ねただけ。私は、何ひとつ研鑽なんてしてこなかった。積み上げたものなんて、なにもない。
でも――それでも。
この世界で、与えられたもので、私は生きようとしたんだ。
カーストで言えば、人間族は底辺かもしれない。それでも、自分の足で立って、生きようと足掻いたんだ。
この世界で、生きていく覚悟はあった。あったはずなのに――!!
最期に見る景色が、これだなんて……。
こちらへ、ぬるりと這い寄ってくる瘴気の塊。ジヤードに、よく似たその魔人。
家族思いのその人に、こんなふうになる前に、出会いたかった。ちゃんと話して、笑って――友達になりたかった。
その気配が、ぴたりと止まった。
……なんだ?
直後、私のすぐ横を、風が通り抜ける。それは風ではない。誰かの、気配。
ぬるりとした瘴気を裂くように、冷たい何かが、通り過ぎた。
そして――ぶちり。何かが潰れる音。
濡れた果実が潰れるような、生々しい音が響いた。
血と瘴気のにおいのなか、それは異質なほど、柔らかな声だった。
「どうして――こんなになってまで、僕を呼ばなかったの?」
懐かしい。耳が、心が、震えた。優しい声色。いつか、私の名を甘く囁いた声。
「よっぽど僕のことが嫌いなんだね。きみは」
その声の主が、私をそっと抱き上げた。
懐かしい顔。優しい瞳。
私の知る、誰よりも穏やかなぬくもり――アルだ。
「なにか、言いたいことはある?」
少し、怒っている?
けれど、その唇が、たわやかに微笑んだ。
私は、魔力切れで力の入らない喉で、必死に言葉を絞り出した。
「……違うの――アル。――ルを……アルを、便利な道具みたいに、利用するみたいなこと、したく、ない――」
アルが、少しだけ目を細めた。苦笑い。そして、短く息を吐いた。
「――きみは、僕のことが好きなの? 嫌いなの?」
その問いに、私はとっさに首を横に振った。
「――あの時、あなたを夫として、見れなかった。だから……」
「僕は、好きか嫌いか聞いてるんだよ? ――それなのに、なにその答え……。難しく考えすぎじゃない?」
私は――。
アルの言葉が、春先の陽だまりのように優しく、降ってくる。
「そもそも、なんできみは、僕の元から去ったのかな? 僕はきみを束縛もしなかったし、自由にしていいって言ったのに。ポーション屋がしたいなら、僕が公務の間にすれば、いいことだろう?」
そう――全部、その通りだ。
だけど、私は……あの時の自分が、許せなかった。
「ほら、僕のこと――好き? 嫌い? 言ってごらん、詩織」
私の名前を呼ぶ、どこまでも優しい声。
「アル――」
「うん?」
「愛してる――!」
胸に込み上げるすべての想いを、全部注いだ。
「僕もだ――!!」
ふわりと微笑んで、アルが私に口づけをした。初恋みたいな、甘いキスだ。
そういえば――私の初恋って、いつだったっけ?
一瞬、背の高い、翡翠のように煌めく髪の少年が、脳裏に浮かぶ。
これは――アル? でも……いつの記憶? わからない。
私はアルの首に両腕を回した。このぬくもりの中に、戻って来たのだ。
アルが傍にいてくれれば、どんな困難だって二人で乗り越えていける。
安堵した私は、そのまま意識を失った。
◇
ぴちょん……ぴちょん……と、水が滴る音がする。
静かで、どこか心地よい音だった。
まるで遠い夢の中にいるようで――そして、私の全身を包む温もりが、心地いい。
私は、ゆっくりと目を開けた。
そこには、アルの顔があった。
湯気に霞む視界の中で、柔らかく、優しく、私の髪を撫でている。
「……アル……?」
「起きた?」
「なぜ、お風呂に――」
アルに横抱きされながら、自分の身体が、湯に浸かっていると気づく。腕も、足も、ほっとするほどあたたかい。けれど、服は――着てない。
「きみが、泥だらけだったから」
悪びれもせず、あっさりとそう言う彼に、思わず口を開きかけて、言葉を詰まらせた。
――クリーンの魔法ではだめだったのでしょうか閣下。
「それより、ルガンとリドは?」
「邸でゆっくり休んでるよ。僕に感謝してね。二人が無事なのは僕のおかげなんだから。それより――あの二人、いつの間に結婚したの?」
「えっと……
「わぁ、それは――他人事ながら、なんだか嬉しいな……。なにか贈り物をしないと」
目を丸くして、素直に感動しているアルに、思わず頬が緩む。
「そうだ――ラビンは、今どうしてるの?」
私の問いに、アルはすぐに頷いた。
「元気だよ。騎士団の先頭に立って、封印の解れから出てくる魔物と、戦ってる」
図書館の司書で収まるような獣人じゃなかったし、前線で戦えることに喜びを感じてたもんな、ラビン。結果、よかったのかもしれない。あの日は、死にそうだったけど。
そう、あの日――
私は湯の中で、小さく拳を握った。
謝らないと。あの日のことを。アルに離婚を言い渡し、去った日のことを。ぬるま湯が肌を撫でる中、胸の奥だけが、まだ冷たい。
「ごめんね、アル――私、あの時……」
震える声が、水面に落ちた。
あの日。アルの目をまっすぐに見られず、臆病になって、言葉で傷つけて、勝手に背を向けた。傷付けた程度では、済まないけど。
けれど、アルはすぐに返してくれた。
それは、まるでずっと前から決まっていたみたいに、迷いのない声だった。
「いいよ、べつに。放置プレイだと思えばそれはそれで――」
唐突に頬を赤らめるアル。
いや、そういうプレイをした覚えは一ミリもなかったのですが、喜んでいただけたなら幸いです閣下。
「それに、きみはちゃんと、僕の元に戻って来たんだし」
そう言うと、アルは私の髪を、そっと撫でた。
優しい。変わらない。……ずっと、変わらなかったんだ。
「――ああでも」
アルが、ちょっと困ったように続けた。
「あのあと、久しぶりに叔母さまに叱られてしまった」
私は驚いて顔を上げる。あの優しい叔母さまが、アルを――?
「でも、完ぺきな僕より、少し隙があった方が、きっと可愛い。そう思わない? 詩織」
おどけたように言うアルは――けれど、やっぱり可愛い。
「叔母さまが、どうしてアルを叱ったりしたの?」
私の問いに、アルは少しだけ目を伏せて、肩を竦めた。
「いつか、きみの耳に届くのなら、今、僕が伝えるね。――領土の安全より、自分の妻を優先したからだ」
凛とした声。
「けど、夫としては正解だとも言われたよ。そして僕が、それを選択したんだ。きみが罪悪感を覚える必要はない。それでも、きみが罪を感じるなら――」
彼の鼻先が、私の頬に触れた。
「それは、愛ゆえに――だ」
愛に、理由をつける意味はない。
そして、あの日きっと、ジヤードに起きたこと……。
私は、ジヤードのことを、アルに話した。
するとアルはこう言った。
「それは、きみが背負うことじゃない。――他人のすべてを理解して、ましてやその罪を背負おうなんて――傲慢だよ」
確かに――そうかもしれない。
「納得したいだけなら、いくらでも理由は作れるけどね。――ただきみは、自分が見る景色を、精一杯生きればいい。――それはそうと、これ」
浴槽の縁にあった小箱から、アルがなにか取り出した。その掌にあったのは、私が一度、彼に返した、オパールの指輪だった。
「当然、受け取るよね」
私の返事などお構いなしで、アルは左手で私の左手を取り、右手でその薬指に指輪を嵌めた。
「ねえアル――この薬指の指輪の意味って、こっちでもそうなの?」
「ん――? ああ、そういう慣習はないかな」
アルは小さく笑う。
「竜人はそもそも、心臓の交換が婚姻の証だからね。――以前、召喚した異世界人が、この意味合いで指輪をしていたんだ。それで……」
そこで少し言葉を切り、アルは、下から私を覗き込み、上目遣いで見詰めた。
「それできみを、どきどきさせようと思ったんだ」
策士でございますな閣下――。
確かにどきどきしました。
そんな私の顔をじっと見つめて、アルが言った。
「あらためて――心臓を交換しよう。詩織」
「プロポーズが……お風呂なのは、ロマンチックが足らないと思う」
「まあ――そうだね」
アルは少しだけ肩をすくめて、微笑む。
「僕はきみに欲情してるし、エロティックの方が優っているのは確かだ」
何を言っているのかな閣下は。
私の顔の熱が、湯気のせいだけでは、なくなっている。
「でも、これからいくらでも夜空は見れるし、きみの耳元で、甘く囁くこともできる」
「はいはい。もうわかりました――」
降参です。
途端に、アルの目が輝く。 まるで、いたずらが成功した子どものような笑顔。けれど愛おしさに満ちた顔だ。
「いいんだね。もう、僕からは逃げられないよ。婚姻の解消もなし。結婚式は、――三か月後でどう?」
早い早い。思考が置いてけぼりです。
私が戸惑うのをよそに、アルは満足げに微笑む。
「じゃあまずは――心臓の正式な交換のために……」
アルが、私の腰をぐっと引き寄せ、もう一方の手で指を絡めた。
オパールの艶めく虹彩が、私をじっと覗き込む。
「キスから始めよう」
私は、逃げない。もう、逃げたりしない。
この人と生きていく。そう、決めたのだから。
☆☆☆
コメントです。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
他にも作品を書いているので、良かったらそちらも見てください。
国外追放になったので魔族の国へ亡命した女魔術師のお話です。
スキルなしOL、異世界の図書館で永久就職しました。 島田まかろん三世 @motimotichoco
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