第2話 路面の絵画

 着信があったのは昨日のことだった。

 もう何年も会っていない旧友に誘われ、有給消化がてら帰省した。

 夜までの時間をつぶすにあたり、一つ行きたい場所があったのを思い出す。

 バス看板を何個かなぞり、記憶にないバスに乗り込んだ。

 人の入りはほとんどなく、後ろの一人席に腰を下ろす。

 呼気でわずかに曇る車窓から、曇天の街並みを眺める。目を瞑り、バスの振動に身を任せて二十分、降車のボタンを押した。


 冷たい空気にはわずかに枯れ葉の匂いが混じっていた。近くの公園には背の高い木々が整然と並び、その奥には目的地の白く長い建物が見える。

 両脇の噴水を抜けてエントランスで入場券を買う。高校の頃は美術部の顧問にもらった無料券で、大学生の時は学割で、次に安くは入れるのは年老いてからだろう。

 特別展示をざっと見て回り、常設展示のホールに足を進め、目当ての絵画の元にたどり着いた。

 木漏れ日の中に浮かぶ異国の畑の絵。

 派手さはなく、絵画としての大きさもそれほどではない。収蔵されている作品の中では地味な部類だろう。

 あの時も、俺はこの絵の前で立ち止まっていた。

 

 はじめて観たときは二人だった。

 作品名を感想用紙にメモりながら、最後の作品は何にしようかと迷っていた時、一つの風景画の前に佇む少女を見つけた。

 彼女は美術部の同期だった。何度か県の美術展にも入賞する実力者で、まるで美術室の備品のように、いつもキャンバスの傍らにいたのを覚えている。

 吸い寄せられるようにその絵の前で止まった。

 昼下がりの農道と、両端に広がる田畑、奥には森林が鬱蒼と茂り、空は奥にかけて厚い雲に覆われている。地味な絵だと思ったが、空に虹を見つけ、それが雨上がりの風景だとわかったとき、絵が動き出すように感じた。

 少女が感想用紙に絵画のタイトルを記入して、さらさらと感想を書いていく。書き終わると「いい絵でしょ」とだけ一言つぶやいて去っていった。

 

 卒業後、彼女とは一度も会っていない。

 噂では美大に入学したのだという。

 一度は自分も夢見たからこそ、それが厳しい道だということを知っている。

 絵画を観る度思い出し、記憶と感動が少しずつ薄れていく。

 それは仕方のないことだ。

 視界の端に人が映り、場所を開けた。長くそこにとどまっていたからか、小さな観客も同じようにその絵を見つめている。

 自然と笑みが溢れ、その場から去った。


 夜は雨だった。

 待ち合わせの時間まで駅のベンチに腰を下ろし、濡れた路面を眺めている。

 タクシーのバックライトが、輪郭の曖昧な赤い光を地面に描く。雨粒が水たまりを揺らし宙に土の匂いを拡散する。音が連なり人が揺れ、視界一杯に日常が広がる。

 水分の含んだ空気を肺に落とすと、思わず声が漏れた。

 見たかったのはこれだったのかもしれない。

 記憶と変わらず感動を呼び起こすもの、今も全身の震えを覚えるもの、それは何も遠い場所にあるものではなく、ただ空間と時間の重なりを捉えられるかどうか。それだけなのかもしれない。

 スマホを覗くと、旧友からの通知。そこに懐かしい名前を見つけた。

 冷えた体に熱が灯る。

 雨宿りを止めて、色とりどりの明かりを踏みつけながら進んでいく。

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