第3話

 処理室のドアが開くはずだった。だが、動かなかった。


 代わりに部屋の隅にある旧型端末がひとりでに起動し、ホログラムが浮かび上がる。


【音声記録:ゼロ番 記憶フラグメント】再生しますか? → Y / N


 篠原は、ホログラムに映る「Y」ボタンを押した。画面が微かに明滅し、映像が流れ始める。


 ──夕暮れの公園。風に揺れる影。笑う少女の声。


「──おいで、カラス。名前って、きれいな音だね」


 画面の中、少女の肩に止まる黒い鳥。その隣で笑っていた幼い篠原が、ふとこちらを見るように振り返る。


「……彼女……知ってる。俺は、彼女を知ってる……」


 言葉が漏れたとき、部屋のドアが静かに開いた。先ほどの女性係官が、ゆっくりと戻ってくる。


「思い出したんですね」


 篠原は、驚きと共に、確信を抱いていた。


「……君が、ゼロ番だったのか?」


 女性係官は、短くうなずいた。


「私はね、制度の最初に、“忘れられた名前”だったの」


「でも……どうして、制度の側に?」


「記憶は、守るために封印することもあるんです。忘れることは、傷を癒す方法にもなる。でも……たった一人でも、思い出してくれるなら、それで良かった」


 女性係官は、ホログラムの光を背にして微笑む。その微笑みは、制度の内側にあって唯一、“個人の情”を帯びたものだった。


「あなたが“名前を思い出したい”と言ってくれた。それで、私はもう、消えてもいい」


「……消える?」


「私という記録はもうすぐ抹消されます。でも大丈夫。もう、あなたが覚えてくれたから」


 少しの沈黙。


「君の本当の名前は?」


 女性係官は、そっと口を開く。


「ユカリ。……ただの、昔の名前」


 篠原はその音を、噛み締めるように反芻した。


 ユカリ。あの夕暮れに聞いた名前。風の中で呼びかけられた、“カラス”と並ぶ、もう一つの記憶の鍵。


 彼は静かに呟いた。


「ありがとう。……ユカリ」


 その言葉に、彼女はふっと目を細めた。目の端に、ほんの僅かな涙のような光。


「さようなら、篠原さん。そして、“名前”を大切に」


 彼女はそう言い残すと、静かに扉の向こうへと姿を消した。そして、部屋の照明が静かに落ちていく。




 透明な瓶の中、黒い羽根がふわりと浮かび上がる。センサーが微かに反応し、表示が変わる。


【記録素片:K-α172】名前:ユカリ(再登録)状態:未分類発話認証:Yuto Shinohara


 少年・悠人は、瓶の中の羽根を見つめながら、まるで誰かの声を受け取ったかのように、そっとつぶやく。


「ユカリ……」


 その瞬間、部屋の照明がほんの少しだけ暖かくなった。


 どこからか、風の音と鳥の羽ばたきが聞こえる気がした。記録でも、制度でもない──“記憶の残響”。


 それは、“言葉”ではなく、“名前”という真実の音だった。


『カラスと名前の国』完

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カラスと名前の国 ほらほら @HORAHORA

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