第3話
夜の街はひんやりと静まり返り、スナック《月灯》の小さな看板がネオンの光を鈍く反射していた。雨は止み、濡れたアスファルトが街灯の光をぼんやりと跳ね返す。ビルの二階、黒塗りの扉がゆっくり開き、大橋蒼が肩をすぼめて入ってきた。23歳、フリーター。くしゃっとした黒髪に、着古したグレーのパーカーと色あせたジーンズ。華奢な体軀と少しうつむいた瞳が、彼のどこか頼りない雰囲気を際立たせる。パーカーの袖口はほつれ、親指で擦り切れた跡が目立つ。カウンターの端に腰を下ろすと、長いため息が漏れた。スマホをポケットから出し、画面をちらっと見て、すぐにしまう。
月城茜、27歳のママがカウンターの向こうから顔を上げ、柔らかく微笑んだ。今夜はロングの茶髪を夜会巻きにし、深紅のドレスが彼女の白い肌を際立たせている。ドレスの裾がカウンターの光に映え、ほのかな香水の甘さが漂う。
「蒼くん、こんばんは。今日は寒いね。何か温まるやつ、作ろうか?」
彼女の声は、まるで弟を気遣う姉のような優しさを含んでいる。
蒼はパーカーの袖を引っ張りながら、ぼそっと答えた。
「…ビールでいいよ、ママ。なんでもいいや。」
茜は小さく頷き、冷えたグラスにビールを注ぐ。泡がシュワッと音を立て、グラスがほのかに曇る。店内には静かなジャズが流れ、サックスの低音が夜の静けさに溶け込む。壁には古いレコードジャケットが飾られ、棚の酒瓶が暖かな照明に照らされている。蒼はグラスを手に取るが、すぐに飲まず、指で縁をなぞった。ガラスの冷たさが、疲れた指先にじんわり伝わる。
蒼の頭には、つい数時間前のコンビニ夜勤の記憶が重く残っていた。駅前のコンビニ、蛍光灯の白い光が商品棚を冷たく照らす。深夜2時、レジに立つ蒼は、酔った客に絡まれた。
「おい、袋に入れなくていいって言っただろ! 聞こえてんのか?」
中年男性の唾が飛び、カウンターに叩きつけられたビールの缶が転がる。
「すみませんでした…すぐ直します。」
蒼は頭を下げたが、客はさらにまくし立てた。
「若い奴って、ほんと使えねえな!」
シフトを終え、店の裏口でタバコを吸いながら、蒼は空を見上げた。
「…こんな仕事、いつまでやるんだよ。」
カフェのバイトも似たようなものだった。
駅ビル内の小さなカフェ、エスプレッソマシンの蒸気音が響く中、トレーナーの先輩に「大橋、遅いよ! もっとテキパキ動いて!」と叱られた。
客の「このラテ、薄すぎるんだけど。作り直してよ」との文句に、蒼は「申し訳ございません」と頭を下げ続けた。
カウンターの裏で、コーヒー豆の香りに混じる疲労感。辞める時、先輩に「大橋、向いてなかっただけだよ」と言われたが、その言葉は胸に突き刺さった。
「蒼くん、なんか元気ないね。バイト、また変わったの?」
茜がグラスを拭きながら、さりげなく話を振る。彼女の瞳は、蒼の小さな動きも見逃さない。
蒼は肩をすくめ、苦笑した。
「…うん、カフェのバイト、辞めた。なんか、合わなくてさ。客の文句ばっか聞いて、疲れちゃって。今はコンビニで夜勤やってるけど…これも、いつまで続くかな、って感じ。」
茜は手を止め、蒼をじっと見つめた。
「ふうん、忙しいね、蒼くん。でもさ、なんか…心ここにあらず、って感じじゃない? 何考えてるの?」
蒼はグラスを握りしめ、関節が白くなるほど力を込めた。やがて、ぽつぽつと話し始めた。
「…わかんないんだよ、ママ。俺、何したいのか、何になりたいのか、さっぱり。みんな、なんか夢とか目標持ってるじゃん? 大学行って、就職して、なんか…ちゃんとした人生歩いてる。なのに俺、ずっと…何もない。バイトして、寝て、起きて、またバイト。こんなんでいいのかな、って。…自分、持て余してる感じがするんだ。」
彼の声は、どこか自分を責めるような響きを帯びていた。茜は静かに耳を傾け、グラスを拭く手をそっと止めた。
「蒼くん、23歳だよね。まだまだこれからなのに、ずいぶん焦ってるんだね。」
「焦るよ…。」
蒼はグラスを置いて、ポケットからスマホを取り出した。画面には、SNSのタイムライン。大学の同級生だった男の投稿が目に入る。スーツ姿で海外出張中の写真、「新プロジェクト始動!」というキャプション。
別の友人は、キラキラしたカフェで恋人と笑う写真。
「…みんな、こんな風にキラキラしてるじゃん。旅行行ったり、仕事でなんかすごいことやってたり。俺、大学も中退して、こんなフリーターで…。ママ、俺のこと、どう思う? こんな奴、ダメ人間だろ?」
蒼の声は震え、瞳は茜の答えを求めるように揺れた。彼の脳裏には、大学中退の記憶がよみがえる。2年前、経済学部の講義室。教科書を開く気力もなく、教授の声が遠く聞こえた。学費を払うためにバイトを増やしたが、授業とバイトの両立は限界だった。
「もう、いいや…。」
中退を決めた日、事務室で書類を提出し、キャンパスを後にした。夕暮れの空がやけに広く、胸の奥にぽっかり穴が開いた気がした。
「俺、何やってんだろ…。」
その感情は、今も蒼の心に重く残る。
茜は小さく笑い、カウンターに肘をついて蒼に少し近づいた。
「ダメ人間? うーん、ぜんぜんそう思わないよ。蒼くん、こうやってちゃんと自分のこと考えて、話してくれるじゃん。それだけで、十分すごいことだと思うな。私、蒼くんのそういうとこ、嫌いじゃないよ。」
蒼は目を丸くし、すぐに照れ隠しにビールを飲み干した。
「…ママ、ほんと、ずるいよな。そういうこと言うの。なんか、ちょっとホッとするんだから。」
茜はクスクスと笑い、冷蔵庫から新しいビールを取り出した。
「ねえ、蒼くん。夢とか目標、すぐに見つからなくたっていいんじゃない? 私だってさ、昔はOLやってて、毎日同じことの繰り返しで…でも、こうやって自分の店持つなんて、昔の私、想像もしてなかったよ。」
蒼はグラスを手に、茜の言葉を噛み締めるように聞いた。
「ママも…そんな感じだったの?」
「うん。母さんの店、継ぎたいって思ってたけど、ずっと踏み出せなかった。怖かったんだよね、失敗したらって。でも、やってみたら、なんか…自分に合ってるって気づいたの。蒼くんもさ、焦らなくていいよ。いろんなこと試してみたら、なんか見つかるかもしれないじゃん。」
茜は新しいビールを蒼の前に置いた。
蒼はグラスを見つめ、ふっと笑った。
「…試す、か。ママ、ほんと、姉貴みたいだな。俺、姉貴いないけどさ。」
「ふふ、いいね、姉貴って呼ばれんの。じゃあ、蒼くん、姉貴に一つ約束してよ。次来る時、なんか一つ、ちっちゃいことでもいいから、やってみたいこと考えてきて。例えば…本屋で気になる本手に取るとか、どっか新しい店行ってみるとかさ。それ、話すの楽しみにしてるから。」
茜の笑顔は、まるで月明かりのように柔らかく、蒼の心をそっと照らした。
蒼は少し照れながら頷き、ビールを一口飲んだ。
「…わかったよ、ママ。なんか、ちょっと…考えてみる。」
夜が深まり、店内のジャズはゆったりと流れ続ける。茜はカウンターを拭きながら、軽い話題を振った。
「そういえば、蒼くん、この前話してたゲーム、どうなった? クリアしたんだっけ?」
蒼の顔が少し明るくなり、グラスを手に話始めた。
「ああ、あれな。まだクリアしてないけど、ラスボス手前まで行ったよ。めっちゃムズいんだけど、なんかハマっちゃってさ。」
「へえ、蒼くん、ゲーム上手そうね。いつか見せてよ、私、ゲーム下手だからさ。」
茜の笑顔に、蒼は照れ臭そうに笑う。
「ママにゲーム教えるの、なんか変な感じだな。」
店を出る時、蒼はパーカーのフードをかぶり、振り返って珍しく明るい声で言った。
「ママ、ありがとな。…次、なんか面白い話持ってくるよ。約束な。」
茜は扉の前で微笑み、軽く手を振った。
「うん、待ってるよ、蒼くん。気をつけてね。」
《月灯》の灯りは、夜の街に静かに輝き続け、蒼の背中を見送った。
月灯に灯る夜 アッキー @akkys
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