Sundown

渋宮 暢

Sundown

Sundown

 街が静かになったと思って、私は果物ナイフを片手に外へ出ました。マンションの廊下には誰もいませんでした。手すりから階下を覗き込むと、遥か地面で落下死した人々が折り重なって潰れているのが見えました。歩道も、車道も、交差点も、横断歩道も、街全体が数多の死体から絞り出された血液で赤く塗りつぶされていました。

 血生臭さが空気にのって鼻に入り込み、少しだけ胸がむかむかしました。そして一緒に少し悲しくなりました。多くの人は体から血を出して死ぬことを選んだことを理解したからです。きっと痛くて苦しくて辛かったんだろうと思いました。

 私はマンションから下に降りて街を歩こうと思いました。エレベーターは動いていません。電気が無いのです。私たちの『最後の望み』に賭けて全てを使い切ってしまったから。当然、階段にも廊下にも明かりはありません。橙色の陽が西側からわずかに入り込んで、階段を薄暗く照らしています。

 マンションの階段をゆっくりと、下っていきます。コンクリートを踏み締める反響音に耳を傾けながら。

 長い長い階段を降りた先のエントランスの床は血に満たされていました。扉の隙間から入り込んできた死者たちの血液です。ガラス戸の向こうでは、潰れた肉塊の上に人間の形をしたものが重なっていました。

 何とか扉を開け、死体を足蹴にして外に出ました。酷い生臭さでした。滲み出した血が靴下に染み込んで靴の中に入り込み、私はまた悲しくなりました。

 外に出た私は、日が沈まないうちに街を見てまわりました。

 高い建物の周りには大体、落下した死体が積み重なっていました。川には沢山の死体が浮いていました。道端に、首筋を切り裂かれた少女の死体を抱いた、両親の死体が並んで転がっていました。父親の手には血に濡れたナイフが握られていました。

 多くの人が恐怖か苦悶の表情を浮かべていました。死には苦痛が付き物です。生き物の体というものは心がどれだけ死にたがっていても断固として死を拒否するからです。拒否は苦痛として現れます。そういうものなのです。死から苦痛を除くには、丁寧な丁寧な準備が要ります。全自動安楽死装置然り。

 一つ弁明をするならば、みんなは間違い無く正気でした。正気のうちに全ての人々は自分及び他人の命を絶ちました。

 私がまだこうして生きているのは、つまるところただの私の気まぐれで、せっかくなら人々の命が絶えたのを見届けてから死にたいと思ったのです。異常なのは私の方なのです。

 それでもまだ全員が自ら命を絶ったわけではなくて、生きている人はまだいて、街を歩いていると会いました。その人はどこか落ち着いた様子で死体だらけの街を見渡していました。二、三秒私と目が合って、興味なさ気な表情でどこかに歩いて行きました。せっかくなので、私はその人とは違う方向に足を向けました。あの人も無事に死ねるといいな、と思いました。

 街は静かでした。世界は静かでした。死体たちは安らかでした。鳥についばまれることも、獣に貪られることも蛆に湧かれることもありません。人間以外の生き物たちは一足先に自死によって死に絶えていました。結局のところ、彼らの方が利口だったのです。全て理解っていたから、足掻くことも祈ることも喚くこともせず全てがただ淡々と自死しました。

 人間たちは愚かでした。ですが、それを侮蔑する気持ちは私にはありませんでした。諦めずに足掻くことが必要だったのです、私たち人間には。やるだけやったと、どんな絶望の前でも諦めなかったと、自己満足と共に死に絶えることが必要だったのです。

 赤い、赤い、夕日が世界の彼方に体を横たえていくのが見えました。あと数十分もしないうちに闇が世界を覆うでしょう。そして喇叭らっぱが鳴るのでしょう。その前に死なないといけません。さもないと取り返しがつかなくなります。

 私は持っていた果物ナイフを自分の首に刺しました。

 胸の辺りに温かい液体がかかる感触がして、立ちくらんで世界が回りました。体に衝撃がきて、地面に倒れたのだと分かりました。終わらない立ちくらみの中、私は安心しました。うまく頸動脈を裂けたことを。上手くいかずに二度、三度切りつけることを私は懸念していました。

 体が冷えていきます。熱が皮膚の外に漏れて、世界に還元されていきます。

 世界が遠ざかっていきます。それは思いのほかゆっくりとしていました。

 視界から光が消え、指先から感触が消え、血生臭さが消えて、静寂すらも聞こえなくなりました。

 自分がいよいよ死ぬのだと理解しました。

 誰も、こんな終末おわりを望みはしなかったでしょう。

 ですが、仕方がなかったのです。私たちは失敗しました。敗北したのです。だから、どうしようもなくなったアレから私たちが逃げおおせる方法は、もうこれしかありませんでした。

 さようなら、世界。

 さようなら、人類わたしたち

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