老境の蛍

八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子)

ろうきょうのほたる

 喪服を出すのはこれで何度目なのだろうか。

 行きつけのクリーリング店で谷川雅史はエアコンの風に揺れているカレンダーを見つめた。

 2024年8月、夏らしいスイカと小川の写真が涼しげに揺れている。

 子供の頃に遊んだ木曽川のほとりを思い出して、ふっと懐かしさが込み上げてきた。


「タッさん、どうした?」

「いや、なんでもないさ」


 谷川なのでタッさんと呼ばれてはや行く年月、同世代で気が合う店主の立花陽吉が伝票をなかなか受け取らない谷川を心配して声をかけたのだ。


「カレンダーがどうかしたかい?」

「いや、嫁さんの命日が近いと思ってなぁ」

「ああ、そういえば8月だったな」

「ああ」


 昨年の夏に90歳で妻が脳溢血で先に旅立っている。

 定期的に長女の洋子が訪れては世話を焼いてくれているが、いつまでも甘える訳にもいかないとできる事は何とか行なっているが、90歳を過ぎて年波には勝てやしない。サラリーマンとして勤め上げて退職してからは妻と二人で細々と生活してきた。体を動かす趣味はなく、現役で働いている陽吉と比べれば体力の衰えは否めない。


「外で一本吸ってくか?」

「おお、そうするかな」


 開店当時から吊り下げられている古びたぜんまい時計が20時を告げる鐘を鳴らす、店先にでれば熱を帯びた夜風が漂う、若い頃なら冷えた心地よい風だったのに、温暖化と言うやつは風情まで奪っていきやがると、亡くなった吉蔵が口にしたのを思い出した。


「あっついなぁ」

「ああ、あっついなぁ」


 店の外れに追いやられた店と同じくらい年季の入った灰皿の前で、ポケットからピースを取り出して口に咥える。


「貰っていいか?」

「おう、ほれ」


 拝み手をした陽吉にボックスを差し出して一本取らせ、慣れた手つきでマッチをすると、互いの先へと火を灯して味わう。

 夜空を見上げればまんまるの月が妻のような温かさを帯び、紫煙が店先の窓から溢れる蛍光灯の灯りに照らされて色を見せた。


「もう、灯る光も少なくなっちまったなぁ」

「ああ、蛍をする奴もだいぶ旅立っちまったしなぁ」


 クリーニング店と道路を挟んさ前には団地がある。

 昔はマンモス団地、近代的な佇まいなんて持て囃されたが、今は骨董品の仲間入りを果たして、何度となく改修を繰り返す団地の姿に二人は自らの体を準えて笑ったものだ。谷川の住まいも団地の最上階401号室にある。若い頃は抽選に当たって喜んだものだが、今は階段の登り降りで足腰にくる。


「昔はたくさん蛍がいたもんだ、もう、みんなジジイで、ほとんどお迎えがきてらぁな」

「あはは、本当に蛍になって昇っちまったか」

「うまいね、さすが」

「よせやい」


 まだ、ネクタイを締めてスーツに身を包み、朝から晩まで猛烈に働いていた頃、夜遅くに帰宅して、妻が温めてくれた夕食を取りベランダで一息ついて吸う一服は格別だった。

 両隣りさんも何故か対を成して立つ別棟も、至る所で柵にもたれて喫煙者が夜風に吹かれて赤い蛍の光を灯していたものだ。

 子供がいる家は健康の為に室内禁煙をと婦人会が騒ぎ立てた成果でもあったけれど。


 紫煙を燻らせながら、親友との無言の労りを過ごし、火を消した吸い殻を灰皿へと落とす。短い時間だというのに、見上げた団地のせいもあるのか懐かしい過去が走馬灯のように脳裏を駆け抜けてゆく。


「帰るよ」

「おう、またな」


 真っ暗になってしまっている自宅に帰りつき、蛍光灯をつけてからベランダへと出る。

 使い慣れた灰皿を引き寄せて煙草を咥えて火を付け、ふと陽吉との会話を思い出してあたりを見渡したが蛍は1匹だけだった。


 月明かりの下で紫煙が風に乗って舞ってゆき、赤い蛍が時より光を灯す。


 一抹の淋しさを抱いた2日後、谷川は蛍となって愛しの妻の元へと飛んで消えた。


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老境の蛍 八坂卯野 (旧鈴ノ木 鈴ノ子) @suzunokisuzunoki

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