さよならの温度、はじまりの匂い
エレイル
さよならの温度、はじまりの匂い
木枯らしが、香織の頬を赤く染めて通り過ぎていく。吐く息は白く、もう冬が間近であることを告げていた。数ヶ月前、この道を健人と手を繋いで歩いた時は、まだ汗ばむほどの陽気だったのに。
「もう、マフラーが必要だね」
そう言って健人が笑った顔を、香織は鮮明に思い出すことができた。彼の声、仕草、纏っていた空気の匂いまでも。それなのに、彼が最後に自分に向けた言葉は、どうしても思い出せない。いや、思い出したくないだけなのかもしれない。
別れは、あっけないほど静かだった。どちらかが声を荒らげることもなく、涙を見せることもなく。ただ、積み重なった小さなすれ違いが、気づいた時には修復不可能な溝になっていただけ。健人は「ごめん」とだけ言って、香織の部屋を出て行った。その背中を見送った時の、胸にぽっかりと穴が空いたような感覚だけが、今も生々しく残っている。
以来、香織の世界からは色が失われたようだった。好きだったカフェのコーヒーも、ただ苦い液体にしか感じられない。楽しみにしていた映画も、内容が頭に入ってこない。健人と共有していた時間が、あまりにも日常に溶け込んでいたのだと、失って初めて痛感した。
公園のベンチに腰を下ろす。落ち葉がカサカサと音を立てて、足元を過ぎていく。健人が好きだと言っていた、金木犀の香りはもうしない。代わりに、冷たく乾いた冬の匂いが漂っている。
ふと、視界の端に鮮やかな青色が映った。見ると、少し離れた場所で、若い男性が紺色のマフラーを直している。それは、健人がよく巻いていたマフラーとよく似ていた。心臓が、どくんと大きく跳ねる。
まさか。
期待と不安が入り混じった感情で、香織はその男性の顔を見つめた。しかし、それは全く知らない顔だった。男性はすぐにマフラーを巻き終え、友人らしき人物と談笑しながら去っていく。
香織は、無意識に詰めていた息を細く長く吐き出した。なんだ、違う人か。当たり前だ。ここに健人がいるはずがない。そう分かっているのに、胸の奥がチリチリと痛んだ。
似たマフラーを見ただけで、こんなにも心が揺さぶられるなんて。まだ、自分は健人の影を追いかけている。
「馬鹿みたい」
小さく呟き、香織は立ち上がった。空を見上げると、灰色一色の雲が広がっている。それでも、雲の切れ間からは、微かに太陽の光が差し込んでいるようにも見えた。
健人との思い出は、まだ温かい。けれど、それはもう過去のものだ。無理に忘れようとしなくてもいい。でも、いつまでも囚われていてはいけない。
香織は、自分のコートの襟をしっかりと立てた。冷たい風が、再び頬を撫でる。それはもう、ただ冷たいだけではなかった。新しい季節の訪れを告げる、凛とした空気に感じられた。
一歩、また一歩と、香織は公園を後にする。まだ胸の痛みは消えないけれど、それでも前を向いて歩き始めた。失われた色は、すぐには戻らないかもしれない。でも、いつかまた、世界が鮮やかに見える日が来る。そんな予感を、冷たい風の中に感じながら。
さよならの温度、はじまりの匂い エレイル @nowacchi_01
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