狐の嫁入り

 厳かな雅楽が演奏されるなか、斎主と巫女に先導され、僕と琴葉は本殿へと歩く。紋付羽織袴が着慣れず、足取りは覚束ない。慣れない履き物のせいで思わず地面に躓いて転倒しそうになった。慌てて左足で体勢を維持して転倒は免れた。隣を見れば、白無垢に身を包んだ琴葉が顔を紅潮させ、笑いを我慢しながら歩を進めていた。その綿帽子を被る琴葉の表情は笑いを堪えすぎて引き攣っている。ほっほっほ──と背後から葛ノ葉の淑やかな笑い声が聞こえた。僕は深呼吸して平静を取り戻した。

 花嫁行列は盛大である。僕の親戚も混じっているが、殆どは琴葉の親戚の狐だ。葛ノ葉が親戚中に挙式の報を送ったから、数十人規模の狐たちが人間に化けて花嫁行列に参加している。ほぼ全員が狐だと思うと、僕まで狐ではないかと錯覚を催した。

 本殿に入ると僕は神前に向かって右側に腰を下ろし、琴葉は左側に腰を下ろした。斎主が祓詞を捧げ、大麻を払ってお清めを行い、僕と琴葉の結婚を神前に報せた。

 誓杯の儀になると、三三九度の杯が用意された。琴葉と顔見知りの巫女が盃に御神酒を注ぐ。僕は事前に何度も手筈を確認した。その記憶を総動員させながら、御神酒を一度二度と口につけ、三度目に飲み干した。琴葉も同様に手慣れた様子で三三九度の杯を呑んだ。美味いの、と琴葉はちいさく呟いた。巫女はその言葉に微笑んだ。

 誓杯の儀の次は神楽奉納だ。御神酒を注いでくれた片方の巫女が本殿の奥へと消えた。代わりに別の巫女が僕たちの前に姿を現した。僕は緊張の面持ちで巫女を凝視した。巫女が僕たちに振り向くと、琴葉の肩が震えた。巫女は瑟葉だった。瑟葉!? と琴葉は声をあげた。お静かに、と巫女装束の瑟葉は注意した。琴葉はまた顔を紅潮させると苦笑いをうかべた。巫女と瑟葉が雅楽の演奏のもと巫女舞を踊る。狐と狐の巫女舞だ。瑟葉の神楽鈴が涼しげな音を鳴らす。瑟葉はかつて神社に奉納された巫女舞を記憶しているのだろう。その舞に不慣れな様子はなかった。

 神前式が開始されても姿を見せなかった瑟葉の訳を理解して、僕は俯き加減に笑った。瑟葉なりの最大級の祝福だ。本当に瑟葉の想いは浄化されたのだと悟った。あの夜で、瑟葉の恋は終わったのだ。

 僕と琴葉は神前に出て、誓詞奏上を読みあげた。緊張して何度か噛んだが、それでも僕は神様に誓詞を捧げた。僕は琴葉と命ある限り、共に人生を歩む。そう僕は胸の裡で祈りを琴葉に捧げた。僕の祈りが通じたのか、琴葉は視線を伏せて微笑んだ。

 玉串奉奠を終えると僕は琴葉と結婚指輪を交換した。経済力に乏しい僕が短期バイトで稼いで購入した指輪だ。高級な指輪ではないが、僕の誠心誠意が凝縮されている。琴葉の薬指に指輪をはめると、彼女の笑顔が幸福に満ちた。琴葉は上唇で下唇を噛み、じっと象徴的に輝く指輪を見つめた。

 僕は琴葉を護る。その想いを胸に抱き、瑟葉と実戦稽古を繰り返してきた。今の僕には琴葉を護る力があるだろう。だから僕は、琴葉を護る。二度と昔のような悲劇は繰り返さない。そう心に誓うと、琴葉が僕の薬指に指輪をはめた。その瞬間に鶴の鳴き声が春の空に響いた。四百年前の悲劇に幕が閉じ、新たな未来が拓かれた。鶴の鳴き声が僕と琴葉の未来のはじまりを告げていた。

 親族盃の儀が終わると、斎主が終わりの挨拶を告げ、僕と琴葉の神前式は終わった。支度と式の流れの確認に二時間は要したが、神前式自体は四十分前後で終了した。僕と琴葉がこの晴れ舞台に立つまでの過程を思えば、呆気ないほど瞬く間に終わった。子どもを成せぬ絶望、滝底の庭での真剣勝負、未練を業火に焚べた瑟葉、思えばたくさんの障壁を僕は乗り越えてきたのだ。今後の障壁など容易く乗り越えられるだろう。僕は強くなれたのだ。名前負けしていた自分は、もういない。僕はもう戦国の猛将の姿に劣等感を覚えなくていいのだ。僕は自分の名前を誇りに思い、威風堂々と生きていけるのだ。

 ようやく幸村の名に恥じぬ男になれた気がした。父さん、と僕は胸の裡で天国の父親に言葉を送った。僕は幸村になれたよ。

 僕と琴葉は最後に記念撮影した。僕たちの関係が末長くつづけば、と僕は願う。僕の願いは琴葉の幸せだ。その願いを一枚の写真に宿した。

 僕と琴葉は控え室で普段着に着替えた。琴葉は先日購入した橙色のワンピースだ。化粧された顔とよく似合う。普段は化粧気がないから、その顔はいつもより綺麗に見える。白無垢が蒸し暑かったのか、琴葉の前髪が額に貼りついている。

「幸村殿が転びそうになったときはどうなるかと思ったのじゃ」と琴葉は笑った。僕は思い出し笑いした。「幸村殿、しっかりするのじゃ。妾の旦那じゃろうに」

「面目ない」と僕は笑いながら言った。「緊張しちゃってね」

 琴葉と雑談していると巫女装束の瑟葉が控え室に訪れた。瑟葉、と琴葉は言いながら立ちあがった。瑟葉は手で口元を隠しながら笑みを露わにした。

「このたびはおめでとうございます」と瑟葉は言った。「無事に終わりましたね」

「瑟葉、おぬしは自由すぎるのじゃ。姿を見せないから不安だったのじゃぞ」

「サプライズになるかと思いまして、あの巫女さんと相談したのですよ」と瑟葉は言うと僕の顔を見た。「しっかりと頼みますよ。あなたがお姉様を護るのですよ」

「はい」と僕は返事すると頭を下げた。「稽古、ありがとうございました」

「いえ、よいのです」と瑟葉は言うと首を横に振った。「幸せになりなさい」

 神に見放された使者の祈りの波紋は、まだ凪いでいなかった。嫉妬の果てに零れた大粒の祈りは、今もなお僕の心に響いていた。瑟葉がいなければ、僕は琴葉と結ばれることはなかった。瑟葉は僕と琴葉が結ばれるために稽古を繰り返してきたのだ。僕は瑟葉に頭を下げた。瑟葉は笑った。その笑みに過去の未練など欠片もなかった。僕と琴葉の未来に対する祝福があった。笑顔が言祝ぎそのものだ。瑟葉が手を差し出した。僕は瑟葉と握手した。瑟葉の手は果てがないほど力強かった。過去の未練も悲痛も乗り越えた力が伝わったきた。握手を交わす僕と瑟葉に、琴葉はちいさく笑った。

 琴葉の親戚たちは既に帰路に着いたようだ。葛ノ葉は控え室に顔を出すと、祝いの言葉を残して辞去した。皆が去った神社は春の静けさに満ちていた。神前式とは無関係の一般者が本殿に拝礼している。拍手の乾いた音が祝砲のように弾けている。

 帰り支度を済ますと僕たち三人は境内を巡った。境内に植えられた桜が芽吹いている。神域の桜も綺麗だが、人間界の桜も儚くて好きだ。桜の近くにはたんぽぽが黄色い花を咲かしている。その世界の片隅に咲くような花も新たな季節の到来を告げていた。季節は巡る。夏が終わり、冬が訪れ、春が僕たちを迎えいれている。

 三人で桜を眺めていると背後から声をかけられた。振り向くと、桃色のワンピースを着た少女が立っていた。新宿の歌舞伎町にいそうな地雷メイクの少女だ。ツインテールの髪の毛も桃色に染められ、耳には複数のピアスが光っている。少女は僕たちを見つめ、気怠そうに片手をポケットに入れている。

「おお、姑獲鳥うぶめではないか」と琴葉は笑って少女に近寄った。「来ておったか」

「当たり前じゃん。琴葉ちゃんの式なんだし。わざわざ新宿から来たんよ」と姑獲鳥は言った。「瑟葉ちゃんもお久しぶり。何年ぶりだっけ」

「姑獲鳥ちゃん。お久しぶり」と瑟葉は笑った。「随分と派手になりましたね」

「幸村殿、紹介する。妾の従姉妹の姑獲鳥じゃ。前に少しだけ話したじゃろ」

 姑獲鳥は瑟葉から僕に視線を移した。僕の頭から爪先まで視線を這わせ、また視線を爪先から頭へと這わせた。僕は歌舞伎町の少女に面を喰らって反応に困惑した。

「琴葉ちゃんも物好きだね。人間の男と結婚するなんてさ」と姑獲鳥は言った。ほっほっほと琴葉は笑った。「幸村だっけ。まあ、でも、随分と瑟葉ちゃんに鍛えられたみたいだし、頑張ってね。琴葉ちゃんのこと泣かせたらだめだかんね」

 姑獲鳥は言い残すと手を挙げて神社の石段を降りていった。姑獲鳥は参道の中央は通らず、鳥居の左端を歩いていった。新しい季節を告げる風が吹くと、桜の花びらが足元に落ちた。春の香りが足元から立ち昇り、僕たちの門出を祝福していた。

「では、わたくしはまだ支度などあるので。幸村様とお姉様は先に帰られてください」と瑟葉は言った。「鳳翔で逢いましょう。お姉様、今夜も営業しますからね」

 瑟葉は僕と琴葉の顔を交互に見た。春風に前髪を揺らす瑟葉は今までにない穏やかな表情だった。瑟葉は人差し指で眼鏡を上げた。眼鏡の銀縁が光った。お幸せに。瑟葉は満面の笑顔で言うと本殿へと歩いていった。僕は春風に吹かれながら瑟葉の背中を見送った。瑟葉は一度も僕たちには振り返らずに本殿のなかに入っていった。

 僕と琴葉は顔を見合わせ、自ずと手を握った。新しい季節のなかで触れる琴葉の手は温かった。その手の薬指には交換したばかりの指輪が光っている。僕の指輪も共鳴するように光る。ふたつの純粋な光は僕と琴葉の心を繋いでいた。かつて北斗七星が僕と琴葉を繋いだように。光と光を重ねると北斗七星より明るい星となって僕たちの手元に煌めいた。この輝きは僕と琴葉だけの一番星だ。

「帰ろう」と僕は指を絡めて言った。「僕たちの家に」

 琴葉は大きく頷いた。その頷きに一抹の迷いはなかった。過去の悲哀は完全に過去となった。僕たちは新たな未来へ踏み出す。琴葉がいない世界なんて、いらない。僕たちは生きる。僕たちはこのちいさな世界のなかで生きる。僕たちは指を絡めたまま鳥居をくぐった。途端に冷たいものが頭に落ちた。僕と琴葉は同時に空を見上げた。雲のない青空から雨が降っていた。春の香りを含んだ雨がぽつぽつと僕たちを濡らしていた。それはかつて、琴葉と瑟葉を見放した神の祝福の雨に思えた。天から降りしきる祝祭に僕たちは顔を見合わせた。

「……狐の嫁入りだ」と僕は笑った。

「本当じゃ」と琴葉は雨に打たれながら笑った。「本当に、狐の嫁入りじゃのう」


おわり。

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狐徒恋情 葛城しなの @katsuragi_shinano

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