根子村の話

太川るい

根子村の話

同じプロット(赤木さん作)で赤木咲夜さんも小説を書いています。

https://kakuyomu.jp/works/16816700429273892676/episodes/16817330648243656481


な。さんも同じプロットで小説を書いています!

https://kakuyomu.jp/works/16818622175049057771/episodes/16818622175049183416#p10

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「雅春さん」


 どこかで誰かが呼んでいる。


「雅春さん」


 向こうの方だろうか。耳元でささやかれているような気もするが、全てが朦朧としている。私の身体は動かすことができずに、意識だけがぼんやりとある。


「待っていてください。もう少しで会いに行きますから」


 その声を聞いていると私はひどく悲しい気持ちになってきた。何故だか分からないが、その声の方に向かって駆け出したい気持ちにかられる。身体は動かない。もどかしい気持ちばかりがつのる。


「待っていてください」


 そう、その声はもう一度繰り返した。そうしてそれ以降、声の存在は遠のいていった。




 誰かが肩をゆすっている。何回かゆすられて、ようやく私は目を覚ました。


 目を開けないでいると、ゆすっている人間が声をかけてきた。


「おとーさん?」


 娘の美春が不思議そうな顔をしてこちらを見ている。


「どうしたの?目覚まし時計、すごく鳴ってたよ」


 どうやら音に反応しなかった私を心配して、起こしに来たようだ。


「ああ、ありがとう……」


 私は枕元の時計を見た。針はいつも起きる時間を、とっくに過ぎていた。


 やや急いで支度をしたあと、朝食の準備を始める。食卓には息子の悟志さとしはすでに座っていた。


「おはよう」


「ん」


 悟志は我慢が出来なかったのか、自分で焼いたトーストにバターを塗って食べていた。


「ちゃんと野菜も食え」


 そう言ってサラダを皿に盛りつけて渡す。彼はそれを無言で受け取り、黙って食べだした。


 私はだし巻き卵を焼いている。弁当のおかずも作らねばならない。


 いつもより手間をかけずに朝食と弁当を作り、子供たちを送り出す。ここからは私の時間だ。




 私はとある大企業に勤務した後、早期退職により他の同年代に比べて早めのリタイア生活に入っていた。妻はいない。妻の美里には数年前に先立たれてしまい、今は一人で子供二人を育てていた。


 何も望んで早めの退職をしたのではない。二〇〇八年のリーマンショックの影響は、私の会社でも深刻な問題となった。自然と早期退職の志願者をつのる流れが出来上がり、私もそれとなく肩を叩かれたわけだ。




 自分の部屋に戻り、机の前に座る。パソコンが起動するのをぼんやりと待っている。


 私の趣味は、小説を書くことだった。若いころからの習慣で、頭の中の話を文字にすることが好きだった。


 退職してからは現役の時よりも、規則的に執筆の時間を取ることができるようになっていた。


 しばらくパソコンに向かい、小説を打ち込んでゆく。毎日の習慣になっているので、一定の字数まではある程度書き進めることができる。いくらか時間が経ち、私は画面から顔を上げた。日はすでに明るく昇っている。


 私はこれから何をしようかと考えた。まだ時間はありあまるほどにあった。


 早期退職をして良かったことの一つは、退職金が多くもらえることだった。時間と金銭、この二つを手に入れることができたわけだ。


 しかし、私の趣味は小説を書くことだった。これはさほど金のかかる趣味でもない。かといって今更釣りやゴルフを始める気にもなれず、私は手に入れた金と時間を持てあましていた。


 外では日光が輝いている。青空には雲が浮かぶ。そんな様子を眺めるうちに、私は外出をしたくなった。


「……旅でもするかあ」


 そう決めると早いもので、私はバイクに手をかけていた。




 近所の国道を一人乗りのバイクで走っていく。身を切る風は適度な冷たさを持っていて、それが身体に心地いい。私は無心でバイクを走らせていた。


 そうやって走っていて、ふと気づくと、いつもとは違う道を走っていた。


 人通りも少なく、走る車はまばらだ。途中に古風なクラシックカーが走って来たかと思うと、もう向こうから来る車はいなくなってしまった。




  国道七一号線




 道の看板にはそう書いてある。それを見て、何か心細さを感じた。3時間ほど走ったにもかかわらず、住宅もなければ、建物さえ見当たらなかった。もちろん人の影なんてものはもってのほかだ。


「日が落ちる前に引き返そう」


 そう思っていると、トンネルにさしかかってきた。


「このトンネルまでにするか」


 トンネルを抜けて何もなかったら引き返そう、そう思って道を進んでいった。




 意外にも、トンネルの向こうには集落が広がっていた。出てすぐの所には、「ようこそ、根子村へ」という看板が立っていた。


「ねこむら……?」


 自分の家のまわりでは見かけない家屋がまばらに並んでいる。あたりには、どことなく農村の雰囲気がただよっていた。


 思わぬ新鮮な風景に興味を惹かれた私は、見物がてらその集落を走って回った。そうこうしているうちに陽は傾き、あたりはうす暗くなってきた。


 もう家に引き返そうにも遅い時間になってきた。家には出かけるという置き手紙も残してきたことだし、今夜はここで泊まることにしようと私は考えた。


 そこから宿を探したが、なかなか見つからない。ようやく見つけた宿屋は、集落の入口に店を構えていた。


「ごめんください」


 引き戸を開けて、中を覗いてみる。電気はうす暗く、奥の方はよく見えない。


「ごめんください」


 私はもう一度、奥に向かって声をかけてみた。


 やや何かの動く音がして、その音がだんだん近付いてくる。


 出てきたのは、若い女性だった。


「こんばんは。どうされましたか」


「すみません、何回も呼びだしてしまって。宿を探しているのですが、こちらはあいていますか」


 私がそう言うのを聞いて、女の人は少し困ったようにはにかんだ。


「ごめんなさい。うちは宿だったけれど、もうしばらくの間休業しているんです」


 そう申し訳なさそうに女性は言った。


「そうですか……。一通りこのあたりの宿を探してみたんですが、なかなか見つからなくて。一泊でいいので、泊めてもらうことはできないでしょうか」


 女性は少し考え込んだあと、また奥へと戻っていった。


 少しして、また彼女は戻ってきた。


「あの、たいそうなおもてなしはできないんですが、それでも大丈夫ですか」


 それを聞いて、私の顔は明るくなった。


「ええ、もちろんです。泊めていただけるだけでありがたいのですから」


 話はまとまった。私はここに泊まることになった。


 女性に案内されて、宿の奥に進んでいく。通された部屋は質素な和室だった。


「ありがとうございます。ところで、宿泊料はおいくらですか」


「ああ、そうでした。ええと、一泊食事付きで三千二百円です」


 ずいぶん安い。私は財布から千円札を四枚出して渡した。


「あら、新しい千円札なんですね。初めて見ました」


「そうなんですね。そんなに新しくはないと思いますが……」


「この村にはあまりにも外から人が来ないので、新しいお札が入ってこないんです」


 女性はふところから財布を取り出した。


「……はい、八百円のお釣りです」


 そう言って女性が手渡してきたのは、三枚の百円札と一枚の五百円札だった。


 私は一瞬それを受け取る手が止まってしまった。百円札? ずいぶん前に祖父の家で見かけたことがあったが、こうして実際に使われているところを見るのは初めてだった。


「あの、どうかしましたか?」


 私の反応を見て、女性が聞いてきた。


「あ、いえ」


 私は気を取り直して言った。


「すみません、なんだか百円札が珍しかったもので」


「そうなんですね。でも百円札がなかったら、不便をしませんか?」


「僕が住んでいるところでは、百円硬貨が流通しているんです」


「へえ、便利ですね!」


 そのような話をしながら、女性は料理の仕度をしてくれた。


「すみません、いつもは宿の名物の牡丹鍋を出しているんですが、あいにく準備ができていませんので」


 そう言って、彼女は山菜を使った料理を出してくれた。


「いえ、改めて休業中なのに、こんなにしていただいてありがとうございます」


 恐縮しながら箸を進めていく。この女将さんも夜に用事がなかったのか、食事中の会話につき合ってくれた。


「このあたりもだんだんさびれてきましてね。新しい人がなかなか入ってこないんですよ」


「そうなんですか。こちらには長くお住まいで?」


「ええ、もう数年になります」


「ここは冷えますか」


「たまに。でも、皆さんあたたかい人が多いので、楽しく暮らしています」


「そうですか……」


 会話の合間に箸が進む。ずいぶんと懐かしい味がした。


「子供たちは、もう大きくなりましたか」


 鍋の中身をよそいながら、女性はぽつりと漏らした。


 私はその発言に疑問をはさまずに、黙って椀を受け取った。


「ああ。元気にしてるよ。二人とも、俺の料理を食べて大きくなったんだ」


「あなたが料理を?」


 女性はおかしそうに、くすくすとほほ笑んだ。


「そうだ。すごいだろう」


「そうね。やかんを空焚きして駄目にしてた頃とは大違いね」


 あいた湯呑みに茶が注がれる。少しずつ、唇を温めるようにして飲む。


「そろそろ、お休みになりますか」


 鍋が空になったところで、女性はそう声をかけてきた。ああ、と軽くうなずくと、すぐに布団が敷かれていった。


「おやすみなさい」


「おやすみ」


 電気が消される。女性は部屋を出ていき、中には私一人が残された。


 大人しく、布団の中に入って横になる。しかしなかなか、私は寝つくことができなかった。




 朝になる。寝不足の頭で布団をたたんでいたところに、女将が外から声をかけてきた。


「おはようございます。朝食のご用意が出来ました」


「ありがとうございます」


 少し間を置いて、食事が中へ運ばれる。


 女性が懐かしそうに眼を細める。


「昔の献立を思い出しながら作りました。よかったら、ご賞味ください」


 私は料理を見た。ずいぶんと質素な料理だ。決して豪華ではない。茶を一口飲む。私がやかんを空焚きしたあとに笑いながら淹れてくれたあの少し焦げた味がする。まだ給料が少なかった時代の献立だ。


 箸を取る。少しずつ、口に運んでいく。


「どうですか?」


 女将がたずねる。


 私は食べながら答える。


「そうですね。相変わらず野菜の皮まで料理に入れるし、出汁に使った昆布まで入れてしまう。もう少し豪華にしてくれてもいいのにと思いながら食べていましたよ。節約と言って、なんでも食べれるようにしてしまうのだから」


 女将ははにかみながら茶を注いだ。


「皮には栄養があるって、お義母さんから聞いたのですもの」


「なんと、それは初耳でした」


 そのあとも、言葉少なに会話は続いていった。


 お互いに、ある共通の理解は出来ていた。しかしそれは口に出せば、もうこの時間が永久になくなってしまうのではないか。そのような本能めいた予感が、私たちに決定的な明言を避けさせていた。




「ごちそうさまでした」


「いえいえ、お粗末さまでした」


「そろそろ帰らなくては」


「ええ……」


 そう言うと、女将は一瞬かげのある表情を見せたが、すぐに明るくなった。


「お会計は昨日のうちに済ませていますので、お出になるご用意ができたら声をかけてください。お見送りをさせていただきます」


「わかりました」


 一人になった私は、粛々と帰り支度を済ませた。だんだん明るさが増していく朝日が部屋の中を照らしだす。もう帰らなければいけない時間だった。




「お気をつけて」


 玄関口。身支度を整えた私を、女将が見送ろうとしている。


「…………」


 私はそんな女将を見て、何かを言おうとした。しかし、出てきたのは何かを言いたげな表情と、ひたすらの無言だった。


 そんな私を、女将はいつも見送ってくれていたあの笑顔で眺めている。だが笑う口元が思い出よりも下がっているのは、何かを噛み締めているからだろうか。


「いいですか」


 向かい合った私に、彼女は言う。


「昨日来た道を間違いなく戻ってください。振り返らず、どこかに寄り道せず真っ直ぐに。そうしたら、」


 彼女はそこで少し言いよどんだ。


「……そうしたら、きちんと現世に戻れるはずです」


 私は何も言わなかった。


 伏目がちになった彼女の髪が目に入る。まだ白髪のまじってない頃の、つややかな黒い髪をしている。


「ご飯、おいしかったです」


 ようやく言えた言葉が、それだった。


「今度、ぼくの料理も食べてください」


「ふふ」


 そう言うと、彼女ははじめて笑ってくれたような気がした。


「ええ、楽しみにしていますね」


 そうして彼女は、私の髪の塵を払ってくれた。


「いってらっしゃい」


「いってきます」


 それが最後の言葉だった。


 私はバイクに身を乗せ、この宿を出発した。




 宿は村の最初の方にあったので、トンネルに着くまでそう長くはかからなかった。彼女の忠告通りに、振り返らずに進んでいく。行きの時よりも、トンネルの道が長いように感じる。バイクのランプがトンネルの前方を照らしている。長いなと思いはじめた頃、ようやく目の前が明るくなってきた。




 自分の家までどう戻ったのかを、実は覚えていない。


 もともと気ままに走らせた道ではあったし、同じようにバイクを走らせると見慣れた道に戻っていったので、その安堵もあったのだと思う。


 後日、またあの道にたどり着こうとしたが、結局見つけることはできなかった。




「国道七一号線」




 私の頭にはあの国道の名前が残っていたので、それをもとにたどろうとしたが、どうにも見つからない。


 不思議に思って調べてみると、意外なことが判明した。


 どうにも国道七一号線は、存在しないようなのだ。


 日本における国道では、一号から五〇七号までの国道のうち、欠番がいくつか存在しているらしい。そのうち、五九号から一〇〇号まではまるまる抜けている。つまり、国道七一号ははじめから存在しないのだ。私が探そうとして見つけることができなかったのも、そういう意味では無理からぬ話だとは思う。


 しかしそれなら、あの日の出来事はなんだったのだろう?


 私にはまだあの旅の思い出が、ふわふわとした現実味のなさをたたえていた。


(だが……)


 私は椅子に座りながら考える。


 あの焦げた味のお茶。節約された料理。交わされた会話。どれもこれもが、あの日の実在を自分の身体に伝えていた。


「あれが夢であってたまるものか……」


 ふいに目頭を押さえる。何も出てくるものはない。しかし、私はきつくきつく目を閉じていたい気持ちになった。


「お父さん?」


 ふいに、うしろから声がした。


 我にかえって振り返る。そこには美春が立っていた。


「ご飯できたから呼びに来たよ。今日のは私、自信作なんだ!」


 美春は最近、休日になると料理を作ってくれるようになっていた。いつも私が作っていることへのねぎらいの気持ちもあったのだろう。たまの振る舞いが私にはなによりうれしかった。


「ありがとう、すぐ行くよ」


 私はそう言ってパソコンの電源を落とした。そうはいっても小説を書いていたのではない。画面の原稿は真っ白だった。あの村から帰ってきて以来、私はパソコンの前に座っても、ただ物思いにふけることが多くなっていた。


「なあ、美春」


 一緒に食卓に行く途中、私は娘に話しかけた。


「なあに、お父さん」


 娘が返事をする。


「料理のアドバイスを教えてあげようか」


「え! うん、聞きたい! 父さんがそういうのを教えてくれるのって珍しいね」


「そうだろう」


 私は一瞬目を閉じる。



 

 約束は約束だ。いつかたくさん、俺の手料理を食べさせてやる。だけど今は、もう少しこの時間を楽しむことにするよ。


「それはだな……」


 なあ、いいだろう、美里。


「野菜の皮には栄養があるから、取らない方がいいらしい」


 真面目くさって告げる私に、娘はなにそれ、と吹き出した。

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