〈1分小説〉静かな朝の余白

夕砂

静かな朝の余白



毎朝、駅へ向かう坂道の途中にある、小さなベンチ。

そこにはいつも、決まった時間に、決まったおばあさんが座っていた。


薄いカーディガンに身を包み、静かに手を膝の上に重ねるようにして。


特に何をするでもなく、ただ朝の光に包まれているようだった。


大きなリュックを背負った学生も、忙しそうなスーツ姿の人も、

みんな少し気にしながら通り過ぎる。


でも、誰も声はかけない。ただそこに「いる」という安心感だけが、風のように流れていた。


雨の匂いが街に溶け込む朝、ベンチに彼女の姿がなかった。


雨のせいだと思った。

だけど、太陽が眩しい朝も、風が頬を優しく撫でる朝も、

彼女の姿は、どこにもなかった。


朝の坂道は、いつもと同じように人が行き交っていたけれど、

どこか、音のない空白が漂っているようだった。




空席に少し慣れ始めた頃。ベンチの上には、小さな花束と、短い手紙が置かれていた。



「この坂道を登る、たくさんの人たちへ。

 皆さんの歩く音が、毎日の楽しみでした。

 ありがとう。どうか今日も、いい一日でありますように。」



その文字は、優しくて、暖かくて、まるで誰かの背をそっと押すようだった。


その日から、そのベンチで少しだけ立ち止まるようになった。


誰のためでもなく、あのベンチは今も朝を迎えている。


ただそこにあることで、誰かの朝に、そっと静かな余白を添えて。





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