玖 月下氷仙の同心結
「実は激務に追われるあまり市場で買った昼食の
――さあ、出番ですよ、
「来たれ、
それは
宮観全体に四散した
四体の石像は漂う
「全軍、下がれ!」
剣を構えた黒装束の男が吠え
砂煙と
「ここはこの
上官烈と名乗った黒装束の男は大きく踏みこみ、
そのまま石造りの牙を正面から受け止め、力任せに押し返す。
虎はよろめいたが、そのあいだに上空を
左右からの挟み撃ち。万事休すと思われたそのとき、上官烈は高く跳躍して一歩後ろに下がり、長剣を大きく横に振り抜く。
「これでどうだ!」
斬撃が空を
文字通り万物を斬り裂く光を真っ向から食らった二体の石像は、空中で真っ二つになり、ただの
「はっ、まだまだだ!」
上官烈の不敵な笑みに、今度は石の大亀が固い足音を響かせながら前進する。
閃く白刃が甲羅に斬りかかった。しかし、それは周囲に
大亀の甲羅はまるで石版を何枚も重ねたように分厚く、四体の石像のなかで最も
上官烈は一瞬動揺したものの、何を思ったのか背負っていた
鞘に入ったまま剣の柄を思い切り振り下ろし、大亀の前足を力任せに殴り飛ばす。
斬撃ではなく打撃によって片足を失った石像は支えを失い、地に伏した。
そのとき、空から何か光るものが降ってきた。
あれは……
「天喜!」
指を二本立てて仙術の構えをしている姿を認めたとき、紅鸞は思わず叫んでいた。
天喜の引きつった表情でようやく悟る。
四体の石像は完全なる
天喜が片手で相手の鞘の先端を掴み、もう一方の手で身縛りの術をかけようとしたときだった。
「ははっ、いい動きだ! さすがは戦闘に長けた龍族といったところか。だが……実戦経験は少ないようだな」
上官烈の黒々とした瞳の奥で冷笑の色を
「足もとが留守になっているぞ!」
「なっ……」
素早く地を巡った太い足が天喜の
体制を崩した天喜は前に傾き、下から喉仏を
「がっ……は……」
「どうした、その程度か?」
凄まじい力で首を締め上げられた天喜がうめき声をもらす。
彼の背後で光り輝く龍の尾が
攻守逆転。今の天喜は侵入者を
「天喜!」
紅鸞は咄嗟に駆け寄ろうとしたが、天喜の訴えかけるような目がそれを許さなかった。
「び、美人……はや、く……に、逃げ……」
天喜に命じられると、どんなに動かそうとしても両の足が硬直して微動だにしない。
どんな状況であっても、天喜の声を聞くとなぜだか逆らえなくなる。
背筋をひやりと冷たい汗が流れ落ちたときだった。
「無礼者め!」
「神仙様を
「官兵とはいえ、天罰が降るぞ!」
紅鸞の後ろで息を潜めて様子を
上官烈は紅鸞の肩越しに
「この
上官烈は片手を解放し、すらりと鞘から長剣を引き抜いた。
支えを失った天喜の体は、まるで糸の切れた
「兄者、どうする? 殺るか?」
「お待ちなさい。生捕りにしなければ
これを、と上官伯達は少し離れたところからあるものを弟に投げてよこした。
金属と金属が擦れ合う不穏な音が響く。人ならざる者を無力化するために作られた
鎖の表面にはうっすらと複雑な紋様が浮かび上がり、絶えず淡い光を抱いている。
鎖と、上官兄弟が帯びる人ならざる霊気の流れに気づいた天喜は弾かれたように顔を上げた。
「お、お前たち……は、半仙、か……」
「ご名答」
上官伯達は満足げに口角を吊り上げた。
「だから、抵抗してもきっと無駄ですよ。おとなしくした方が身のためです――」
「ま、待ってください!」
そのとき、紅鸞の背後から制止の声が上がり、その場にいる全員が一斉にこちらを向いた。
紅鸞は声の主を振り返り、驚愕に目を見開く。
息を切らしながら仙境に転がりこんできたのは、洛氏だった。
「氷仙様を傷つけるのは、どうかおやめください! それと、白さんを追いかけるのも……や、やっぱり、どんな経緯があっても、人殺しは良くありません!」
「今さらなんだというのだ。お前が頼み入ってきたことだろう。己を
「白様は人を害するような悪妖ではありません!」
声を上げた天喜を上官烈がきろりと睨みつける。
臆病な洛氏は決して紅鸞より前には出なかったものの、
「か、彼女は本当に何もしていません! 本来の恐ろしい姿を見せたのも、人を傷つけるためじゃなくて……きっと驚いただけなんです。怪しい影を見つけたから……」
「ほう、他にも不審な人物が?」
上官伯達が思いがけないことを聞いた様子で片眉を上げる。
「ええ、襤褸布を被った人物です。遠くにいましたが目立った飾りをつけていたので……たしか、夜でも目立つ真っ赤な飾り紐に、月の光のような輝きを放つ宝石が埋めこまれていて……」
ここまで言うと、洛氏ははたと口を閉ざした。
洛氏の顔から突然すべての表情が消える。しまった、と言わんばかりの青ざめた顔だけが残った。
「月下氷仙の同心結……」
誰かがぽつりとつぶやいた瞬間、その場にいる道士の全員が天喜に剣の
「そういえば、ここ最近仲
「ちょうどあの白蛇が現れた大通りの近くでしたっけ。偶然にしてはかなり大規模だったそうです」
「もしや白蛇は俺たちの目を欺くための囮か? そして、真の黒幕は……」
「赤き運命の糸が見え、一度にあれほど大勢の縁を狂わせることのできる力のある者。神都一の月下氷仙が最も有力でしょう。その場にいたというのも、そこの彼が証言してくれましたしね。天喜氷仙、やはりあなたが……」
「何を勝手なことを!」
交互に飛び交う根も葉もない憶測に紅鸞はたまらず叫んだ。
金縛りにあったように自由がきかなかった体を無理やり動かして、天喜の前に立ちはだかる。
背後から天喜の咎めるような声が聞こえたが、紅鸞はぎゅっと拳を握りこんで無視した。
「私は紅鸞。今でこそ月下氷仙の証はないけれど、かつては神都で縁結びの仕事をしていたわ」
「紅、だと?」
たちまち困惑と動揺のざわめきがあたりを
神都においてその名が示す役割を知らぬ者はいない。
武器を構える道士だけではなく、紅鸞の正体に気づいた参拝者たちまでもが紅鸞の顔とお互いの顔を交互に見合わせ、小さくささやき合っていた。
「これはこれは、先代の『神婚』に立ち合った紅鸞様ではありませんか。あの紅き
ただひとり、上官伯達だけが
紅鸞を冷たく見下ろす切れ長の瞳に底知れぬ光が宿る。
「しかし、あれから久しくご高名を伺っていないようですが……てっきり、もうすでに神都から去ってしまったとばかり」
「それは……」
言えるはずがない。
先代の『神婚』の後、
人々の中の紅鸞氷仙は未だに伝説の中で語られる偉大な月下氷仙なのだ。
言葉ではもういいと言いつつも、胸の内ではその印象を壊したくないという思いが
その存在を感じる度に、まるで自分がまだ月下氷仙としての輝かしい過去に
紅鸞は無言で衣服の裾を握りしめる。
かつてとは違って、そこに月下氷仙の同心結はない。
「まあ、いいでしょう。天地開闢のときより
上官伯達は
「あの惨劇を繰り返さないためにも、私たちは必ず此度の事件の黒幕を捕らえなければいけない」
「惨劇?」
「先代の『神婚』の前に起こった不幸な出来事のひとつ。神と人の、身分を越えた駆け落ちの話です」
駆け落ち、という言葉がまるで池に石を投じるように紅鸞の胸を打った。
その拍子に、心の奥に閉ざしたはずの記憶が意識の表層まで浮かび上がってくるのを感じる。
「事件が起きた当時、私はまだこの世に生まれ落ちてすらいませんが……あなたはご存知でしょう、紅鸞様?」
「ええ……当然、知っているわ。あれは私にとっても、衝撃的な出来事だったもの」
紅鸞は早まる
紅鸞囍 ―縁結びの瑞鳥は浮世で紅き糸を牽く― 白玖黎 @Baijiuli1212
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