八〇一特別室
真花
八〇一特別室
院内ピッチが鳴った。俺はカルテを書く手を止めて、白衣のポケットからピッチを引っ張り出す。
「はい、
「あ、今大丈夫?」
「はい」
「それがね、急な異動が決まって、一人患者を引き継ぎたいんだけど、いいかな?」
異動に伴う引き継ぎは通常は塊で来る。それに一人一人に許可など取らない。
「スペ患ですか?」
「そう。VIPと言っていい。今よければ紹介したいんだけど、どう?」
書きかけのカルテの山をサッと眺める。
「大丈夫です」
「じゃあ、八階のナースステーションに来てくれ」
俺は、分かりました、とピッチを切って、カルテをいったんしまう。午前中が外来で、さっきラウンドを終えたばかりだった。必要な指示はもう出してあるし、カルテ書きを遅らせても問題はない。スペ患、すなわちスペシャル患者=特別待遇をする患者は少ないながらに存在する。八階にある特別室に入院する患者のほとんどはただの金持ちでスペ患ではない。スペ患とは、元病院長とか、現役の議員とか、こっちの医療ミスで入院を余儀なくされた人とかのことであって、病院として特別に扱わなくてはならない理由のある人物だ。当然、気を遣う。担当医になると言うことはそれなりの実力を認められたことになるようでいて、それくらいの力は誰でも持っているから、面倒を押し付けられただけと取れる。しかもVIPとはどう言う意味だろうか。スペ患である時点で既にVIPなのに、その上があるのか。
エレベーターに乗って八階に向かう。病院のどこでもそうだが、このエレベーターも運搬しているのは人間よりも疲労だ。人間が乗る度に疲労がここに置いていかれる。かと言って、置いて行った人間の疲労が軽くなることはないが。ため息でないだけいいのかも知れない。思ったら、いっぱいのため息が俺から漏れた。多分、厄介な患者に違いない。
八階でドアが開くと、他の階とは違って、空気が澄んでいた。窓から陽光がキラキラと射していて、フロア全体が草原のように明るい。ナースステーションにいる看護師の人数が少なくて、広い。電子カルテの前に東堂が座っていた。
「お疲れ。早速患者のところに行こう」
普通は患者にまつわる診療情報を先にプレゼンして、あらましが伝わったところで患者に紹介をする。それが分からない東堂でもないはずで、奇妙で、だが何か理由があるのだろう、俺は、分かりました、と立ち上がった東堂の後ろを付いて行く。八階は特別室だけで出来ている。各科の医者はそれぞれの持ち病棟があるが、特別室に入院した患者にだけは定期的に診察に出張る。だから、これから担当する患者は俺達の診療科である精神科の患者のはずだ。いったいどんな患者が待っているのだ。東堂は迷いなく進む。自分の足取りが慎重になっている。
東堂は一番奥にある部屋、八〇一号室の前で止まる。
「ここだ」
東堂はノックをせずに鍵を開ける。患者の部屋に入るのにノックをしないのは不自然だし、特別室とは言え一般病棟に鍵がかかっているのもおかしい。たとえ患者が不穏だろうが拘束されていようが、ノックはするだろう。隔離が必要な患者なのだろうか。だがそれならそうと事前に説明があるはずだ。
開けられたドアの内側に東堂が入り、追従して俺も入る。
ベッドが一つだけあった。
横には人工呼吸器が据えられていた。
患者はベッドに横たわっている。拘束はされていない。人工呼吸器に気管切開された喉からチューブが伸びており、人工呼吸器が生き物のように空気を送り出している。
若い、二十代前半くらいの女性だ。顔立ちは整っていて、笑えばきっと美しいだろう。
窓が少し開いていて、撫でるような風が吹いている。部屋は臭くはなかった。東堂が女性に向かって、こんにちは、と呼びかけるが反応はない。
「
近藤は何も言わない、反応しない。まるで死んでいるみたいだが、モニターは生存を示している。
「青木です。よろしくお願いします」
やはり反応はない。聞こえているかどうかすら怪しい。東堂は俺に向き直る。
「近藤
一九七五年、と俺は口の中で反芻して、いやいや、それはないでしょう、と頬に苦い笑いを浮かべてしまった。
「だって、今、二〇六五年ですよ? どう見たって二十代じゃないですか」
「近藤さんはこうなったときに二十二歳だった。それから見た目は全く歳を取っていない。だが、実年齢は百十二歳なんだ。つまり九十年間延命され続けている。元々の精神疾患はヒステリー。未婚で、富豪の家の一人娘だった。親戚もなく、その一族の最後の一人だったそうだ。こうなってから、両親は奇跡を信じて延命を金がもつ限り続けることを希望した。その金についてはあと二百年はもつ。ただ、両親はもう亡くなって、遺されたのは延命のための金だけになった。誰も見舞いには来ない」
「じゃあ、一人きりて、延々生きているってことですか? 意識もなく」
「そうだ」
「いつか死ぬまで続けるってことですか?」
「二百年後までは続ける。出来ることは何もない。見守るだけだ。週に一回はカルテを書いてくれ。……嫌な仕事だが、やってもらいたい。まあ、あるとすれば死亡したときに対応をするくらいだろう」
「ずっと、九十年間引き継がれて来たんですか」
「そうだ。詳しい情報はカルテを見ればあるが、今話したのとほぼほぼ変わらない内容だよ。あと、ここの人工呼吸器は外してもアラームが鳴らない設定になっている」
「どうしてですか?」
「昔からそうなんだ。理由はそのうち分かるよ。引き継ぎは以上。今日からよろしくな」
東堂は近藤に向かって、では失礼します、と言って、部屋を出て行く。俺も、失礼します、と一礼して部屋を出た。東堂が鍵をかけて、その鍵を俺に渡す。
「今日のカルテからよろしく」
「はい」
ナースステーションに戻って、東堂が近藤の電子カルテのパスワードを俺に伝えて、お疲れ様、と言って去って行った。俺はカルテに記入してから、カルテ庫に置かれている近藤の昔の紙カルテを取り寄せた。それによると、近藤の発症は十七歳、ヒステリー性の偽麻痺と部分的な解離性健忘が主症状で、徐々に増悪して十九歳時に初診、治療は精神分析を主にされていたようだ。二十二歳の時に当院に入院して、意識不明になった。当初は解離性混迷を疑われたが呼吸が本当に止まり、意識は戻ることなく延命治療に突入した。そう言う経緯だから今も精神科が主治医なのだ。それからの記録はほとんど砂漠だった。何も変わらないまま時間だけが九十年過ぎた。ときに、父母の他界などの情報が入る。
現在は人工呼吸器で呼吸、胃ろうがある。薬剤は特になし。採血などの検査データも正常。つまり、意識と呼吸がないことを除けば健康そのものだ。
紙カルテを閉じて、続きを電子カルテで読んだがそこにも特記すべきことは何も書いてはいなかった。
バトンを受けたが、何もなく次の人にバトンを渡すだけの仕事か。ため息が溢れそうになるのを堪える。これは医療じゃない。それでも、つつがなく進行させる以外に道はない。
電子カルテをログアウトして、自分の病棟に戻る。さっきしまったカルテ達を出して、今日の分の記載をする。いつもよりも意味があることをしている気になった。
他の仕事をしている間は忘れていたが、帰路に着くと近藤の顔が浮かんで来た。
身寄りがなく、年齢的には友人ももう死んでいるか、生きていても疎遠過ぎて関係ない間柄になっているだろう。医療者は日常的に関わっているが、本人は意識がないから面識は実質ない。この世界に生きていても、誰とも関わりがないのだ。本人が認識していないだけで、状況はとっても、宇宙にポツンと浮かぶみたいに孤独だ。だが、本人がそう感じていないのなら孤独でもないのかな。非認識的孤独? 近藤さんの中では時間は九十年前で止まっているのだとしたら、家族も友人もいる世界の中に漂っていると言うことになる。それは誤認だが、幸せな誤認だ。いや、会えないのだから逆に苦しみが強いのだろうか。それだって、認識出来ていないから、どっちとも言えない。何もかもを認識しないのなら、それは死んでいるのと同じではないか。身体だけがこの世に残って、心はもう死んでいる。脳死と言う訳ではない。だから、心自体も本当はそこに残っているのだが、休眠が永遠なら、死んだのと同じだと言うことだ。そうすると、人工呼吸器で無理矢理生かされて、それは、苦痛をずっと与えていると言うことになるのではないか。
本当は死にたいと思っているのかも知れない。精神症状としての「死にたい」は取り除かなくてはならないものだが、正常な精神での死にたさは尊重されるべきものだ。だが、それも本人がずっと意識がないままでは本当のところはどうなのかは、仮面の裏側のように分からない。
カルテ上は本人の意思表示はなかった。家族は延命治療を望む、だった。だが、家族も本当に九十年も延命治療が継続するとは思っていなかったのではないか。予算は三百年分あったとしても、どこかで終わると思っていたのではないか。それでも、家族の望みは今も生きているから、従っている。本人が意思表示が出来ない場合は家族の意思が優先される。だが、その家族もとうに亡くなっていて、代理で意思を伝える人もいない。九十年前の意思をずっと守らなくてはならないのだろうか。
無理に生存させられるのは辛い苦しい、生殺しのような状態なのではないか。
次の日、俺は八〇一号室に一人で入った。
ベッドサイドに椅子を持って来て座り、近藤の顔を覗く。
「近藤さん。主治医の青木です。聞こえますか?」
近藤は反応しない。俺は近藤の手の中に自分の手を入れる。
「近藤さん、聞こえたら握って下さい」
手は握られなかった。
肩を叩いてみても、胸骨にゲンコツを押し当ててみても、反応はない。人工呼吸器が動いている。近藤の顔は眠っているだけのように見える。百十二歳には思えないが、情報はそうだと言っている。
「こんな状態で生きているの、苦しくないですか?」
近藤は何も言わない。
「だからって、もうやめにしようなんて、言えないんですけどね」
近藤はずっと同じ顔をしている。
それから週に一度近藤のところに行って、同じ会話を繰り返した。その五週目。
「近藤さん、こんにちは」
近藤はそのまま黙っている。
「こんにちは、ですよ」
近藤は動かない。
俺の胸が急に空っぽになったみたいにどこまでも沈めるような陰圧を生んだ。
俺がしていることは虚しいことなのか、違う。
近藤は孤独だから、こんな気持ちになるのか、違う。
「こんな状態でずっと生きているなんて、生きて来たなんて、辛い」
近藤は穏やかな顔をしている。
――ここの人工呼吸器は外してもアラームが鳴らない設定になっている。
東堂の言っていた「理由」はこう言うことだったのだ。
人工呼吸器を外して、脈が止まるまで待って、また戻せば、誰にもバレずに近藤さんの命を終わらせることが出来る。万が一バレたとしても近藤さんのために訴える人なんていない。ここは密室で、世界からも隠れている。別に殺人をしてみたいとかではない。近藤さんを生きさせられる地獄から解放したいだけだ。近藤さんは人間としてはもう生きてはいない。生物としても生きていない、器具が必要なのだから。生きていない人を生きていない状態に戻すだけだ。それは誰かがしなくてはならないことだ。九十年間先送りになっていた。俺が、する。しなくてはならない。
気管切開に繋がっているチューブに手を伸ばす。手がガタガタと震えていた。チューブに触れると、中を通る空気の気配を感じた。俺は息を止めて、引っ張ろうとして、出来なかった。手を戻す。体中に汗をかいていた。
「近藤さん。取っても、いいですか? チューブ」
何も言わない。言わないのに、お願いします、と聞こえた。
聞こえたんだ。確かに。
だからこれは近藤さんの意思なんだ。
なおさら、俺がやらなくてはならないじゃないか。
再びチューブに手を伸ばす。変わらずに震えていた。だが、しっかりとチューブを掴むことが出来た。そのまま少し待った。いや、迷った。本当に外していいのだろうか。目を瞑る。息を吐く。ゆっくりと吸う。目を開いて、近藤の顔を見る。お願いします、と言っている。
手に力を入れてチューブを外した。
アラームは鳴らない。
後は待って、脈がなくなったら戻せばいい。
俺はじっと近藤の顔を見続ける。顔色が悪くなっていくはずだ。
近藤の目が開いた。
俺はビクッと体を踊らせて、激しく後退りをする。開いてはいけない目だ。眼球が動いて、黒目が俺を捉える。口が動くが、声が出ない。近藤は床頭台の方を凝視する。俺は、そこに何かがあるのだろう、引き出しを開けると、スピーチバルブがあった。だが、カニューレがスピーチカニューレでなければ意味がないものだ。九十年延命中の近藤にスピーチカニューレを入れる理由はない。それでも、試してみようと思い、嵌めたら嵌まった。誰かがスピーチカニューレにしたのだ。
近藤はじっと俺を見る。まるでさっきまでも起きていた人のようだった。俺の心臓はまだ走り回っている。
「こんにちは」
近藤は流暢に喋った。落ち着いた声で、急に俺が落ち着いた。
「こんにちは。今、主治医をしている、青木です」
「青木先生。私は近藤です。相変わらず同じ部屋ね」
「前にも起きていたんですか」
「ときどき。いつも起きると誰かがいて。ちょっとしたらまた寝てしまうの。だから本格的に起きるのはまだ先みたい」
「あまり時間はないんですね。……いきなりですが、ほとんどの時間を意識を失った状態で、延命され続けるのって、辛くないですか?」
「全然。何も感じないもの。飛び石でこうやって起きた記憶があるだけ。私、夢があるの。小説家になりたいの。この部屋から出られたらきっと書くわ。だから、ちゃんと起きる可能性が少しでもあるのなら、延命を続けて欲しい」
俺は浅かった。唇を噛む。
「分かりました。そうします」
「今、世界はどうなってるの? 前のときは大恐慌だったわ」
「経済は持ち直していますよ。戦争が二カ所であって、アメリカの大統領が暗殺されかけました」
「日本は?」
「平和ですよ。人口はずいぶん減りましたけど」
「何か素敵な小説は出た?」
「特別にはないです。ノーベル文学賞も日本人はずっと取ってないです」
「そう」
近藤は目を瞑った。俺は少し待ったが呼吸が止まっていた。バルブを外して、人工呼吸器のチューブを接続した。秋の夕暮れのような眠り方だった。俺は急に取り残されて、もう一度チューブを外したい衝動にかられた。だが、起きる可能性は低いし、うっかり殺してしまうリスクがある。いや、そのリスクがどうこうではない。俺は近藤と話した余韻にもう少し浸りたかった。近藤の寝顔を見ながら、近藤の声を思い出した。俺は自分が近藤を終わらせようとしていたことに思い至り、顔が火照って、小さな声で、ごめんなさい、と言った。
人工呼吸器が安定して動いているのを確認して、近藤に、失礼します、と一礼して部屋を出た。胸に開いた穴は塞がっていた。近藤は前を見ている。それなら、この延命治療を続ける意義はある。胸を張ってナースステーションに戻り、だが、実際にあったことはカルテには書かなかった。先任の医師達がずっと書いて来なかったことは言い訳にしかならないが、どうして書かなかったのかは理解出来る。それが罪だとしても。
基準などないが、一ヶ月後にもう一度近藤を起こしてみようと決めて、その日が来た。だが近藤は起きなかった。月に一回試しても起きず、次に起きたのは一年後だった。そのまぶたが開いたとき、俺の髄に甘い電流が走った。
「こんにちは、近藤さん」
「こんにちは」
「気分はどうですか?」
「普通。先生、世界はどうなってるの?」
「戦争は一年前と変わらず続いています。経済はさらによくなっています」
「一年? 私、一年も寝ていたの?」
「はい。合計で九十一年目です」
「そんなに。じゃあ、私、おばあちゃんなのね。自分では二十二歳のままなのに」
「見た目は二十二歳ですよ」
「長い眠りね。でもいいわ。そのうち起きて、最高の小説を書くから」
「どんな小説が好きなんですか?」
「色々読んだけど、やっぱり漱石ね。三四郎が一番好き」
「そうなんですね」
「先生は小説は書かないの?」
「書きませんね。読むのも少ないです」
「それは豊かさが足りないわ。今夜からでも遅くないから、何か読んで、書きましょうね」
「はあ」
「決まり。ちゃんとするのよ」
「……分かりました。近藤さんはどんな小説を書いたんですか?」
「男女の恋の話よ。悲恋。上手くいかないって、物語になるわ」
「そうなんですね」
「そうよ。次も恋の話を書くわ」
そう言って、目を瞑って再び長い眠りに入った。このタイミングで人工呼吸器を付けなければ近藤は死ぬのだが、俺は付ける。実現可能性の低い「夢」ではあるが、他の誰もと比べて実現度に差が実はあまりないのかも知れない。そう思わないと胸が割れそうだった。近藤が生きたいことはもう当然の前提であり、夢を叶えたいことが主になっている。それが短くも眩しい。応援したいが、生命を繋ぐこと以外に出来ることはほぼなく、辛うじてときに起こして気持ちを聞くくらいしかない。俺は近藤にとって無能で、代替可能で、一過性の人物に過ぎない。寝顔の近藤を見ながらため息をつく。俺はこんなにもこの日を楽しみにしていたのに、何も起きないし出来ないまま終わりの時間が来てしまった。もちろん、何か恋愛的なことをしようとは思ってはいない。もっとほのかなものだ。近藤の役に立ちたいと思った。だが、何も出来ない。席を立って部屋を出る。帰り道に本屋で三四郎を買った。
三回目に近藤が起きたのはそれから一年半後だった。俺はその日が来るまでの間に、自分の気持ちをまさぐり続けて、短い邂逅の間に聞くべきことを整理した。
「こんにちは、近藤さん」
「こんにちは」
「聞きたいことが一つだけあります。私は主治医として、何かを近藤さんのためにしたいと思っています。何か、これをして欲しいと言うことはありませんか?」
「……今日まで命を繋いでくれてありがとう。これからも私が本当に起きるまで繋いで欲しい。あるとしたらそれくらいね」
「私はもうすぐ異動になります。そしたら後任に全てを任せなくてはなりません。それまでに、出来ることをしたいんです。何か、何かないですか」
「他にはないわ。……先生、先生に出来ることってそんなにないの。私は自分の力で夢を掴まなくてはならないし、それまで死ねない。生かしてもらうこと以外は、私の人生にとって先生が出来ることはないわ。考えてくれたことは嬉しいし、言ってくれたことも嬉しい。でも、ないものはないの」
「そうですか」
「そんなことより三四郎、読んだ?」
「読みました。青春の敗北ですね、あの話は」
「そうよ。じゃあ書いた?」
「はい。短編をいくつか書いてみました。ちょっと面白くなって来ています」
「その意気よ。どんどん書こう」
近藤は目を瞑った。俺はこれが最後の会話になると知っていたのに、気の利いたことも言えなくて、眠っている近藤に書いた短編を読んで聞かせようかと思って、やめた。人工呼吸器をこのまま装着しなければ、近藤の人生の最後は俺のものになる。だが、近藤は生きるべきだ。夢に向かうべきだ。俺も真似をして書いてみる、もっと書いてみる。人工呼吸器を着けて、部屋を後にした。
後任に選んだ
家に帰り、パソコンに向かう。すっかり小説を書くことが好きになった。いつも、文字を打ち始める前に近藤の声が聞こえる。
「どんどん書こう」
もう二度と近藤には会わないし、その生死を知ることもない。ただ一つ例外として、本格的に起きた近藤が本名で本を出版したら、俺は一人ほくそ笑むことになるだろう。それとも俺の方が先に? 自嘲が頬から漏れる。来週からはもう別の病院での勤務だ。本当はちゃんとさようならが言いたかった。だが出来なかった。俺の中で近藤は二十二歳の姿のまま、夢を追って眠って、ときに起きて、少し話すだけで、止まっている。きっとずっと止まったままだ。そしてそれは秘密のまま、俺と一緒に生きていく。
(了)
八〇一特別室 真花 @kawapsyc
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